第10話 


 髪を流れる雨水、流れを帯びて赤く。湧き出るのは少女達の悲鳴――探している。見ている。私を苦しめたものを私を苦しめるものを見ている。許さない。すべてすべて決して決して許しはしない。同時にそれは悲鳴でもある。助けて、誰か助けて、この痛みをやわらげて、私を見つけて、手をとって、抱きしめて、救って、聞いて、寒い。

 心の中に湧き出て引っ張り込み取り込もうとしてくる力に梓は抗うよう意識を保った。

 敵が近くにいんのよ。なぁ、あたしたちの敵が近くにいんのよと、あんたたちをそんな目に合わせた奴がいんのよと、梓は呪いを煽り上げる。

 どこ、どこどこどこ、どこ、しとしと赤みを帯びて降り注ぎ、地面をぬめりと広がっていく。

 どこどこどこどこどこ――大きな鼓動みたいに、声ですらない聲たちは耳に痛くてたまらない。

 探して、探すの。

 どこどこどこどこどこ――頭に痛みが走り、各所の映像が、さ迷う少女の目を通して流れ込んでくる。それはひどく赤くて梓は奥歯を強く噛んだ。

 助けてくれる光があるの。近くにあるのよ。

 どこ――。

 あぁ、心が痛い。

 助けなど、彼女たちを助ける術などありはしない。

 真夜中、まばらな人、解放感、踊る傘、あの人と一緒。

 ふわふわとした大きな尾が揺れていた。

 炎のように朧な犬耳と口を覆わぬばかりの巨大で獰猛な口を纏った燈彼。

 佇み、ひどく不自然だと感じるのは、犬の獰猛さに比べて燈彼の表情が穏やかだったから。

 いいモフモフ具合じゃないと脳髄を走る亀裂のような痛みに顔をしかめながら梓は思う。

 視界の中には生贄の少女達から贈られる映像の断片が広がり、割れたガラスのように分割され展開されていた。それでもわずかな己の視界の中に燈彼はいて、そこだけが妙に目立って梓は笑ってしまった。

 梓にかけられた呪い――それは生贄となった少女達のヤドリギ。

 濁流にのまれさぞ苦しかろうに。マグマに溶けてさぞ苦しかろうに。

 柱に吊るされさぞ苦しかろうに。

 誰が、誰が、誰が、私をこのようなメにあわせるのか。

 どうして私はこのようなメに合わされるのか。

 父ヨ母ヨ。

 人か、神か――その両方か。

 肺を埋める水、打ち付けられて歪む体、想像を絶する痛み、息もできぬほどの爛れ、突かれついばまれ、弄(まさぐ)られ抉られる。妬ましくて恨めしくて痛くてひどくて叫びで悲鳴。

 手を伸ばしても届かないあなた達なんて大嫌い。私の死をなんとも思わないあなた達なんて大嫌い、すべての生きとし生けるものをとりこんで、私がどんな目にあっていたのかを思い知らせてやりたい。

 かきむしる喉、足の焼ける匂い、飢えと恐怖、愛する貴方とそれすら吹き飛ぶほどの痛み。

 何処にいる。どこに潜んでいる。この世界はさぞ生きやすい。

 私達の屍を踏みつけて笑うあなた達がさぞ恨めしい。

 そこに意味があったのかすら――そう思えばそれはさぞ恨めしい。

 見つけた。案外すぐに見つかるものなのねと梓は唾を飲みこんだ。

 乾いた唇を舌で舐めて濡らし、かたまっていた直情的な思考を和らげるように息を吐いて呼吸する。この呪いは優しく導いてくれるがさぞ恐ろしい。

 気を許せば――私もこの中のたった一人になってしまうのだろうなと梓はなんとなくそう思っていた。助けて欲しいと懇願する己を想像すると身の毛がよだつ。逃れることのできない痛みや囚われる時間の長さを想像し、何時か彼女達のように発狂するのだろう。

 そしてどれだけ助けを求めても助けなど来ない事を彼女達は証明してしまっている。

 すがり泣きつき媚び求め、そして己の求めるものが返って来ない事に激怒する。相手を壊したところで欲求が満たされるわけでもなく、またすがり泣きつき媚び求め、求めたものが与えられないことに激怒する。

 残念ながら梓一人が亡くなったところで呪いは尽きず、また他の誰かを呪い、そして呪い殺すのだろう。ノロワレテイルでいることは、呪い壊されず、呪いにならず、人のままでいられる方法の一つなのかもしれないと梓は深い息を飲みこんだ。

 そう思っている間にも背中に背負っていたはずの弓は布から取り出され勝手に構えられている。髪の中にいる蜘蛛が糸を手繰り寄せて梓の体を操っていた。

 ここからなら気づかれない。今なら気づかれない。さぁ弓を構えて、わたしを構えて、さぁ、さぁ、射るの、射るのだ、射るのよ、穿つの、捕えたら離さない。

 貪り食ってしまおう。こっちも大概だと梓は奥歯を強く噛んだ。

 弓を放ちたくてうずうずしている。あぁ、もうどうにでもなれと弦が張り震えしなる。

 1,2,3,4、燈彼は梓の構える弓を見た。

 なに、どうするの、そのもふもふで、走るの、そのもふもふで、と梓は燈彼をちらりと流し見て思った。なにそのもふもふ、黒くてもふもふしていてずるい、ひどくずるい、もふもふしたい。

 4、3、2,1、握り上げた弦、視界には標的が映っている。少女に取り憑いている。ミスらないでよと、少女に当てないでよと梓は思う。キリキリキリキリと張り詰めた弦と体中の悲鳴、あぁやばい本当に撃つわ。私、本当に街中で弓を撃つわと思った頃には放たれていた。

 追従するように燈彼も駆け出す。

 弦の反動に耐えるように顔を歪め次いで去る燈彼の速さに目を見張る。

 矢は異音を発して異常な軌道で曲がり消えていく。追従する燈彼の姿は視界からは消えたはずなのに、燈彼の様子が梓には見えていた。

 雨がふり注ぐ。梓にだけは赤い雨が。地面に広がる様はまるで血の池のよう。

 あぁ、私、本当にノロワレテイル。

 ノロワレテイルんだ。

 梓はそう思わずにはいられなかった。

 この呪いは決して解けない。そして逃れる術もない。精々長生きするために、自分の身代わりを用意するしかない。その身代わりは人であってはならない。

 それが人であるのなら、梓は――。

 しとしとと雨が降っていた――程よく濡れて、程よく冷たくて、灯った明かりは弱く、遠くへ行くほど青くなる。

 まばらな人々、満たされたいのか、満たしたいのか、下を向いて、自由に身を任せて、部屋を想像して、これからどうしようかと、笑みを浮かべ、あの人に会える、今日は会えない。

 伏せられた目も見開かれた目も、暗い目も明るい笑みも悲しい目も、すべては夜の中。そんな街の中に無数に点在する内の一つ。とある建物の地下に通ずる扉の前だった。会員制でしかも特殊な人間しか入れない、入らない。グレーゾーンと人は言う。

 少女が一人。

 梓より解き放たれた生贄の少女がここだと言っている。指し導き、矢は糸が張り詰めるかのような異音を響かせ、扉の前にいるガードマンが知覚する前にドアを突き破っていた。

 赤い少女たちは指を指す――指を指す、指を指す、指を指す。

 現れては指を指し消える――この子だよ、この子じゃないよ、この子だよ。

 彼女達は姿を見られる人間がいたら殺す。

 遅れてやってきた風圧によりガードマンは壁に叩きつけられて体を痛める。

 次いでやってきた燈彼は穿ち破られたドアの残骸の隙間から部屋の中へと侵入した。体を反転させ器用にきりもみ状に回転、着地する。

 部屋の中はひどく酸っぱい匂いに溢れていた。

 倒れた裸の人々、芳香剤やスプレー、香水と雄と雌の匂いに溢れ燈彼は鼻を抑えた。

 狂ったように踊っていた人々は矢が扉を打ち破った轟音に茫然とし立ち止まる。燈彼の瞳が黄金を帯びていった。刺繍されていた銀の蝶がきらめく。

「ったく、人間て奴はよぉ」

 まるで燈彼でないかのような口調でその言葉は紡がれ燈彼は大きく息を吸った。

 そして吐き出しながら咆哮をあげる。

 およそ人の発することのできない空気の振動は、あたり一面の不義不浄を吹き飛ばすように空気を震わせ鳴り響いた。

「なっなに⁉」

「きゃああああ‼」

 悲鳴と共にパニックへと陥り服もまばらに皆逃げ出そうと部屋のドアへと駆け出す。

「見られて、感じられて、やれて、食えて最高だぜ。人間て奴はよぉ」

 タバコでも吸うような動作で燈彼はそうのべる。

 逃げる、部屋の隅にうずくまり顔を隠す――お天道様に顔向けできねぇことはすんじゃねぇよと誰かが言い、仕方ないよと燈彼は呟く。

『っ……なに⁉ 燈彼、聞こえる?』

「きこえる」

 耳から聞こえる言葉に、燈彼は返事をした。

 さっきとは打って変わって純粋で抑揚のない声色、梓の声には若干の焦りが見えていた。

『大丈夫⁉ そこ、だいぶ、その、あれだけど』

 梓から見ても逃げ出したくなるような場にいて燈彼は首を傾げた。

 燈彼にはその光景の意味を察することができない。燈彼の中にその場の情報が無い。男女が集まり何かをしていた。している。ただそれだけ。

 数時間前に食っちゃうとか言っていた梓は己の言葉の意味を反芻して顔が強張っていた。

 沢山の人々が分け隔てなく愛し合えるのは素敵な事なのではと燈彼は思い、んなわけねぇだろと誰かに笑われる。

 何をしてもいいよ、ただし、誰も傷つけなければな――そう言い誰かは燈彼の頭を撫でた。燈彼はそうなのと問いかけて、言葉の意味通りであるならば、それはつまりこの場には傷つく人がいるという事になる。

「分け隔てなく、愛し合える、それは素敵な事」

 それは燈彼の言葉。

『その考えは素敵だけど、みんなあなたのように愛に溢れてはいないのよ』

 それは現実を知る梓の言葉。

 そこにあるのは愛などではなく、ただの営みと欲望なのよと、梓は燈彼の純粋さに呆れ、そして羨ましいと思った。

 咆哮でおののき逃げた人々とは逆に、その欲望を食い散らかしていたナメクジ達が場に溢れ出してくる。せっかく美味しい食事にありついていたのに邪魔されておかんむりと言わぬばかり。ナメクジ達は地面より天井より現れ落ちてくる。

 手に持っていた包丁の鞘、ぬらりと。

 揺れていた尾の真ん中より形成された瞳。半分より割れてニタリと笑みを浮かべる。端より裂けてハサミのように開閉し牙が生える。口となったそれより溢れるのは唾液、滴る獣臭が吐き出され充満する。

 楽しくてしょうがない。お前達をぶっ殺せるのが楽しくてしょうがない。

 どいつこいつもみじん切り、どいつもこいつも八つ裂きミンチだ。

 燈彼の意思を通さず、踊り狂うアギトに、燈彼の体は引っ張られる。

 閉じて開けて、閉じて開けて、すり潰し、切り裂き、すり潰し、ジャムへと変えて、水面を帯びて(どろりと)垂れる。

 ナメクジはナメクジらしさを残しつつ俊敏な動きをはじめ、地面に残る光沢だけが通った後を克明に残す。燈彼は振り回されながらも抜き放った包丁を無造作に振るいナメクジを切り落とした。

 尾と包丁に狩られるナメクジ。見ている。梓はそれを見ていた。

 彼女たちの見ている物が見える。彼女たちの意識が誰かに向かうのを押さえ、方向性を持たせている。かなりの綱渡りをしている。それを自覚している。

 彼女達に見境はない。自分が犠牲になれば、誰かが幸せになると、皆が幸せになると、それが幸せだと思っていた。

 でも私はどう。命を失った私はどう。忘れられて惨めで痕跡すらない。まるでそれが間違えだったと言われぬばかりに。みんな笑っている。みんな笑っている。

 私以外が笑っている。

 お前達は私達の屍の上に立っているのだと、許せない。それを忘れるお前達が許せない。

 視界を共有するたびに、彼女達の一人一人の心の内がなだれ込んでくる。

 私の死などただの無駄死にだった。

 それは彼女達にとって耐えがたい苦痛。

 だから手を伸ばそうとする。自分の存在を知らぬ人々に手を伸ばそうとする。

 間違えれば一般人を容易に殺してしまう。

 彼女たちの視界に方向性を与えて制御している。

 狒々が現れない。狒々がいない。現れていないだけなのか、それとも別行動しているのか、どこにいるのと少女達に探らせる。遥か遠く、己の視覚外に起こっている出来事を、まるで目の前のように梓は観測できる。しかしそこかしこから流れてくる情報量の多さに、梓は若干の気持ち悪さを感じて口元を抑えた。

 瞬きすら忘れるほど痛い。目を閉じても視界が暗くならない。

 彼女達の心の叫びが聞こえてくる。

 幸せになりたかった。

 好きな人がいた。

 幸せになってほしかった。

 そのためなら。

 その結果がこれ。

 笑っちゃうよ。その結果がこれだ。

 梓には顔をしかめることしかできず、誰かの笑い声が耳に入ると異常に障る。

 それと共に弓は早く射てと蜘蛛が梓の腕を動かそうとしてくる。弓を引くのに痛みが走り我慢しなさいよと体を制御する。ダメだよ、射って、早く、早く、早く、早く、じゃないと――。

 少女達の無数の悲鳴と見境のなさ、それらを断片的には制御できず、すべてを取りまとめなければならない。どれか一人の少女を押さえつければ、その少女は怒り狂い、それは伝播して周りを怒り狂わせる。どれか一人の少女を出さなければ、出されなかった少女は怒り狂いそれは周りに伝播して周りの少女まで怒り狂わせる。少女達は平等でなければならない。それが平等な人生を送れなかった彼女達の引き金だからだ。

 加えてそれとは別に蜘蛛が勝手に体を突き動かそうとしてくる。蜘蛛は人間を殺す事を躊躇しない。人間は的が大きくて大好き。射た獲物を手繰り寄せ、グルグルと糸で巻いて食べるのだ。それがたまらなく幸せ。

 一人でこれらを制御しろっていうの。ストレスから梓の目に涙が浮かんだ。

 なんで私だけこんな。色々な方向からかけられるストレス。どいつもこいつもやってやってとせがんでくる。

 ただ救いはあった。

 何もない空っぽの梓だけれど、他人などどうでもいい梓だけれど、記憶の無い空虚な梓だけれど、ただ燈彼だけが心の中にいた。逆に言えば燈彼しかいない。付け加えて夏乃子とフローゼの二人がいる。燈彼が戦っている。同じ立場の自分が燈彼の足を引っ張るなどあってはならない。梓は負けず嫌いだ。やってやるわよ。全部制御して見せる。

 何も失わず、燈彼と寮に帰るのだ。そして二人にドヤ顔をして見せる。

 その未来を想像するのは梓にとってひどい飴であった。

 目まぐるしすぎると奥歯を噛み、生贄少女達から送られてくる情報を取捨選択。奥にもう一つ部屋があると。燈彼のいる部屋にはさらにいくつかの扉があり、その一角に半裸で制服を脱ごうとしている少女を見つけ、うーわっと顔をしかめた。

 そして突如として生贄少女の視界に現れたのは真っ黒な大猿だった。これからお楽しみなんだと大猿は無邪気で楽しそうに両手両足を振るう。

「燈彼、奥に部屋がある、狒々はそこよ」

『わかったぁ』

 しかしナメクジが部屋を取り囲んでおり、燈彼も苦戦している様子を見る。どうにかならないかしらと考えていると、蜘蛛は口から先端が丸くトゲ状になった矢を取り出して、構えていた矢を取り、変わりに番えさせて来た。

 なによこれ――と梓は思うが何なのかは考えなくともわかった。

 番えた矢、引き絞る筋肉と、腕にかかる負荷は足まで広がり踏ん張る。

「燈彼、ドア前をこじ開けるから隠れて‼」

 張り詰める矢を留めていられないとちょっと待ちなさいよと、燈彼もいるのよと思うのに、極限まで張り詰められた矢はあっけなく解き放たれ――耳に痛い異音を響かせながら空気を裂いた。

 いっつぅ。指の皮が裂けて刹那の痛みに顔をしかめる。割れた指の皮膚より湧き出た血液は飛び散り頬に当たった。その痛みも、アドレナリンによってあっけなくかき消され、指に血を付けぬよう、指の血が再び頬に付くのを防ぐため、無意識の中、甲で頬を拭う。

 放たれてから到着するまでのタイムラグ、燈彼は椅子の裏に隠れ矢は迫り、奥の部屋の扉に到達し到達するとその見た目の通り性質通りに扉どころか地面までも抉り破壊する。

 荻原日菜子はドアの破砕音に驚いて我に返った。

 えっ、なに。

 そんな間抜けな感想。

 手には柔らかな布の感触、ベッドであることがわかる。家のベッドの上かなと疑問を浮かべ、次いで目の前にいる男に気づく。男は日菜子の下におり――この人は誰、私は一体……自身の体を見て、脱ぎ掛けの制服に瞳孔が開く。

 なに、え、なに、これはなに、私は、どうして、嘘でしょ、愕然とする。

「ヒヒヒヒヒッ」

 男の口から洩れた笑い声に心の底から冷えあがるという感覚に襲われる、私、嘘でしょ、唇が震えだし頭が真っ白になる。何が起こったのという思考と最悪の想像が同時に流れ脳の機能が麻痺している。

「お前さえいなければ、お前さえいなければ、お前さえいなければ、ビッチのくせに、どうしてお前なんだ、どうして」

 男の口から洩れた言葉。

「汚れてしまえ、穢れてしまえ、苦しめばいい」

 いっそうわけがわからない。混乱する。ぺたりと背後に、「あっ」と言う声と共にベッドから落ちる――しかし地面には到達しなかった。

 受け止められて、見上げると、いつか見たあの子がいた。

「らいちょうぶ?」

 燈彼の声を聞いて、大丈夫かどうか聞かれて、どっと押し寄せてくる波のような感情に、ただただ日菜子の唇は震えて何も出てこない。

 ストレスと刹那に上った血液は日菜子の顔を赤く染め、日菜子はそれをとても苦しいと思い横隔膜が痙攣して痛く顔も痛かった。

 ――横たえていた男はぐじゅぐじゅと溶け出し、やがて毛むくじゃらの真っ黒な大猿へと変化していく。

「ヒヒヒヒヒヒッ」

 唇がめくれ上がっていく、笑うたびに唇がめくれあがっていく――『伏せて』、イヤホンから聞こえた言葉に、燈彼は日菜子をかばうように伏せた。

 飛翔してきた矢は狒々を射抜いたかに見えた――矢が刺さり破裂した布団、飛び散る綿と羽毛、燈彼は助六刀を鞘にしまい日菜子のお腹に乗せ、日菜子を抱えて後ろの扉まで下がった。

「ここにいて」

 燈彼の言葉に日菜子は愕然とする。なにもかもわからないまま放置しないでと、私はどうなったのと、足元までずり下がったパンツが視界に入って口が半開く。

 そうしている合間にも、複数の矢が扉めがけて飛翔し、何もかもを破壊していく――しかし狒々の笑い声だけはけして消えてなくなりはしなかった。

 茫然とする日菜子、燈彼の手がパンツに伸びて、モモ根本まですりあげられる。早く離れて欲しいけれど、日菜子は完全にフリーズしてしまっていて脱力し異様に重い。

 抱えて外へ向かおうとする燈彼の足を何かがつかみ、振り返ると腹ばいになった狒々が爛々と目を輝かせながら燈彼の足を掴んでいた。

「お前さえいなければあああああ‼ 日菜子ぉおおおおおおお‼ お前さえいなければああああああ‼」

 おぞましい狒々の叫び声に意識を取り戻した日菜子は恐怖にかられ暴れ出し、燈彼は日菜子を離すまいと掴む。

「汚れてしまぇえええ‼ 日菜子ぉおおおお‼」

 狒々は燈彼の足を持ち上げ、燈彼は素早く日菜子を離すと、日菜子の上に置いていた鞘に手を伸ばし、助六刀は吸い込まれるように燈彼の手に納まり抜刀、たたきつけようとする狒々の腕を切り裂いて落とす。

 叩きつけられる途中だった燈彼は振り回される遠心力で壁まで飛んだ――体を回転させ、手で頭を守り、壁と床に頭を叩きつけられるという致命傷だけは避けた。

「日菜子ぉおお‼」

 飛ばされた燈彼には目もくれず、狒々は床に倒れた日菜子へと近づく。しかしより早く、矢が狒々に到達し口に刺さりのけ反らせ、しかし矢が貫通したまま狒々はゴリゴリゴリと首を戻し、両手を振って日菜子へ近づこうと足を振る。

「しっかりしろ‼」

 そう言い放ったのは燈彼だった、さきほどの優しい表情とは打って変わり、険しい表情をして狒々に飛び蹴り。吹き飛ばすにはいたらず、その場にとどまって狒々を阻害する。右手には包丁を、左手には手に取ったイヤホン。スイッチは切ってある。

「てめぇの貞操はてめぇで守れ‼」

 狒々は包丁を振り下ろそうとする燈彼の右腕に噛みつき、燈彼は顔をしかめ血が滴り落ちてくる。牙が皮膚に刺さると考えた時にはすでに血が流れ鈍い痛みを感じて腕を噛みちぎられると察して、逆に強引に口奥へと腕を入れ、包丁をかみ合わせて阻害する。

 緩めれば腕とお別れしそうだと燈彼は笑みを浮かべる。

 日菜子は自身の貞操がまだ無事なことに安堵がよぎるが。

「早くいけっつってんだろ‼ 死にてぇのか‼」

「ひっ……っ言われてもっ、腰に、力が」

「くそが‼」

 燈彼は逆の手で舌を掴んで引っ張りだし、緩んだ顎から脱するとその場で翻り、包丁を掴むと体を反転、上下を逆にと体勢を変えながら無数の斬撃と蹴りを繰り出す。すべての斬撃と蹴りは狒々の体に当たるが、狒々の体はのけ反るだけで、切れたところから元に戻りはじめる。

 めんどくせぇ。

 燈彼は顔を怒りにゆがめ床に降り立つと、日菜子の腕を足の裏で蹴り押し出した。入り口付近まで威力のまま滑り止まった日菜子をしり目に狒々と対自する。

 衝撃に悲鳴も上がりそうなものだが、いざ衝撃を受けてみると日菜子の口からは悲鳴すらあがらなかった。床を滑り、入り口近くの壁にぶつかった衝撃で肺の中の空気が短く漏れ出る。

 攻撃されたという精神的衝撃と、物理的な痛み、どうして私がこんな目にという憂いと悲しみ、そして怒りも沸く、病院で入院していたはずなのにという困惑もある。

「どうして……日菜子、どうしてあなたなの、私じゃダメなの、私だって、私だって」

 その声には身に覚えもあった。親友である香の声。高校生になってからできた一番の友達の声。どうして香だと思うのか。どうして香の声だと思うのか。日菜子に心当たりがないわけではなかった。

「香? 香なの?」

「日菜子、どうして、どうして、英樹は、わたしの」

 英樹とは日菜子の彼氏のことだ。でもつい先日別れも言い渡されている――まともな精神状態ではなかったから、それで別れをきりだされたのも今なら理解できる。

 英樹は香と幼馴染、でも告白してきたのは英樹の方。香と幼馴染なのだから香と付き合いがあれば当然英樹とも面識を持つようになる。

 告白されて最初は困惑した。すでに親友であった香の気持ちがわからなかったからだ。

 香に相談すると香は笑い、悪い奴じゃないし付き合ってみればと言われた。

 英樹のことが好きだったわけじゃない。彼氏がいるわけでもないし告白される事などこの先ないかもしれない。好きな人がいるわけでもないしそれならばと付き合ってみることにした。

「香――あなた、英樹のこと」

「ずっと見てたの、ずっと好きだったの、ずっとずっと」

 どこかで見たことのあるかのような幼馴染の物語。そんなの、言ってくれれば、そう思いつつ、言えるわけが無いのもわかってしまう。

「会話するだけ意味なんかねーよ、こいつはただ、投げ捨てられた感情を語っているだけにすぎない。お前が香と言った女が捨てた感情を、こいつが拾って語っているだけだ」

「そんな……香、じゃない?」

「その女がどんな奴か俺は知らねーが、優しい奴なんだろうな。こうして感情をきりすてられるのだから」

「だから死んでよ‼ 死んで‼ 死んで‼ 汚れて穢れて死んでしまえ‼」

 サルの顔で、唇をめくらせながら香の声を発する化け物に、日菜子の顔は悲愴に歪んだ。

「それが私を狙った理由? 香が私を?」

「だから切り捨てられた感情だって言っただろうが‼ 香という女は確かにこう言うほの暗い思いを抱いていたのだろうな。だがお前のためにこの思いを捨てたんだ。それをこいつが拾ったのさ。こいつはな、女が大好きなのさ」

「英樹は私のものぉおお‼ 私のものだああああ‼」

「ったく、ただのサルの癖に知恵だけはまわりやがる」

 狒々の左手が振り回され迫り燈彼は飛び退る――矢が飛来して、狒々は体をばねのように伸縮させて避けた。

「ひどい‼ ひどいよ‼ だったら言ってくれればいいのに‼ 言ってくれればいいのに‼」

 日菜子は叫んだ。到底納得なんてできない。一番の友達だと思っていたのに、裏切り、痛み、悲しみ、叫び、みっともない自分、無駄にした時間、失ったもの、ずれたパンツの感覚、自分が女だということ、すべてが口から洩れて漏れてとめどない。

 狒々はよったらよったらと動き、歪な歩行をしながら日菜子に近づいてゆく。日菜子の顔は涙と鼻水にまみれ、足は生まれたばかりの小鹿のように震えて止まらず動かない。

「死ね死ね死ね死ね死ね」

 その場で左右に飛び跳ねながら香の声でそう言う狒々は、日菜子を馬鹿にしているようでもあった。

 単純な言葉でありながら、傷つき、体力を消耗し、精神的な消耗を見せていた日菜子には最大級の苦しみの言葉でもあった。だけれど逆に、死んでたまるものか、死んでたまるものかと強い気持ちも沸いてくる。

「うるせぇサルが‼」

 燈彼は駆け、上段から斬り下げ、狒々はスライドするように足を延ばして器用に避ける。

 真っ白になった頭の中で湧き出た本能――。

「私が、一体、何したっていうのよ、私が、一体なにを」

 崩れ落ち悲しみにくれる。私よりひどいことをしている人はいっぱいいる。私より悪いことをしている人はいっぱいいる。わたしより、わたしより……わたしより――。

 どうして私なの、どうしてという悲しみが止められない。

「香、どうしてなの……私は、私は……」

 お前が善人だからだよ。燈彼はそう言おうとしてやめた。

 もう英樹とも終わっている――お見舞いに来てくれたのは、私のためじゃなかったのと。

 安堵の表情を浮かべて心配してくれたのは嘘だったのと、悲しくて悲しくて、涙はとめどなく溢れた。

「てめぇは自分のことばっかりだな」

 狒々と対自しながら燈彼は日菜子へ向けて言った。

「いい加減うざってーぜ。このサル野郎」

 燈彼は包丁とイヤホンを置いて狒々を眺めた。割れた尾の目が狒々を見ていた。狒々を見て涎を垂らしていた。なんて美味しそうなのだろうと目が言っている。

 唸り声をあげると狒々はうろたえるように動揺した。

 そこからは肉弾戦だ。野蛮な戦いとなり、狒々に噛みつかれては、燈彼も腕に噛みついて、梓は音声の切れた燈彼を心配するが姿は見えていた。矢を構えてはいるが、巻き込みを考えると撃てそうになく、矢を構えたまま止まっていた。

 それでも蜘蛛が矢を射ようとする。

 やめろ馬鹿。生贄少女と蜘蛛を精神力で制御する。

 震える腕に力を込めて、蜘蛛の束縛に抗う。

 もし狒々が日菜子に向かった場合は即座に射る体勢にある。しかし燈彼の様子を見て、あっけにもとられていた。わかってはいたけれど、技術が人間のそれとは違いすぎる。どうしてこのような動きができるのか、目で追っている梓は動きについていけていなかった。

「俺は犬‼ てめぇは猿だな‼ じゃあ俺の勝ちだぜ‼」

 燈彼は狒々の口の上あご下あごを掴み、わたわたと手を振り回す狒々の口を力任せに引き裂いていく、メチメチメチメチと嫌な音をさせ断裂し、笑い声をあげながら狒々を両手で引き裂き殴り、塊へと変貌させていく。

「あぁ……あぁ……」

 右腕を尾に噛み砕かれる。足を尾に噛み砕かれる。美味しそうに咀嚼される。自分が食われている。力なく塊は地面に黒く広がっていく。まるで血が広がっていくかのように。狒々の顔が現れ燈彼に左手を伸ばそうと、燈彼は顔を足で踏みつぶした――ぐじゃりと音をさせて、力なく腕は垂れた。

「いひひっ……あっやべぇ」

 燈彼はあたりを見回して頭を抱えた。

 壊れた建物を見て、修理費はいくらか考えて頭を悩ませる。

「……終わった?」

 日菜子の声に、燈彼は日菜子を見る。

「あぁ」

 終わったのという疑問。上手に動けない。足は震えて、立とうとしてもうまく立てず、滑り膝を折って倒れる、お腹は震えて「あっ」という言葉と共に失禁してしまう。

 流れ出るそれを止められず、妙に温かい感触と湯気、足の表面を流れる感覚にモモを閉じようとして足が震え腰が沈み座り込む。尻に広がる液体は妙に温かく不快にしめり冷えて冷たい。

「やだっもう、やだっ」

 止めたいのに体は言うことを聞かず、恥ずかしいし情けないし悲しいし動けないし。明日からどんな顔をして香と接すればいいのと。ハブられて、頭のおかしい奴だと思われて、それで学校にいけるのと、もうどうしたらいいのかわからないと、彼氏にもフラれて、噂にもなっているだろうしスマホのSNSでもある事無い事言われているだろうなと考えると、いっそ死んでしまいたいとも思う。

「私、これからどうすればいいの……」

「知るかばーか」

 舌をだされて拒絶されて心までも冷えておかしくなりそうで。

 フッと燈彼の表情は変わった。元の抑揚のない表情に戻り、日菜子を見るとゆっくりと顔は優しい笑みへと変わっていく。そっと歩いて、日菜子の傍に来て、床に広がった水分も気にせずに、膝をつくと、日菜子を抱きしめる。

「なに? ちょっと……その」

「らいじょうぶ、らいじょうぶ」

 ぎゅっと体を寄せられ頭を撫でられて、頬ずりされて、憤りがなくなったわけじゃないし、興奮だってしている――でもなぜだろう、モモのいい香りに汚れた自分を抱きしめてくれる人もいる。

 大丈夫じゃない、大丈夫じゃないよ。

 あなたは何なのと問いただしたかった――ひどい人、最低な奴、それなのに、一変して優しくなる。どちらが本物、貴方は味方、敵、ここは安全なの、顔を見上げると表情は穏やかで。それを見たらどっと気が緩んで。おかしくなりそうで。

 手を伸ばして服を掴んで、思い切り握って、しがみ付いて、ただただすべての憤りをぶつけるように、日菜子は燈彼に強く顔を押し付けていた。

「らいじょうぶ、らいじょうぶ」

 燈彼は両手で日菜子の頭を胸に抱えるように、包み込むよう優しく抱きしめて、頬を頭に寄せて、頬ずりをして、日菜子はなぜだかそれにひどく愛情と温かさを感じた。

「燈彼⁉」

 駆け付けた梓は壊れたドアを蹴り飛ばし、燈彼と日菜子の様子を間近で見て、なんだかなと頭を掻いた。安堵のような、困ったような、少し嫌で、許しているのに、なんてことないのに、心は少しもやもやする。

 一番頑張ったの私なんですけど。

 食いしばりすぎて切った口から流れる血液はしょっぱく。アドレナリンの分泌により抑えられていた腕と指の痛みも徐々増してくる。

「いっつっ」

 梓はぼそりと呟いて口の端から垂れる血を指で拭った。

 心も体も痛いっつーの。

 なんか腹立ってきた。帰ったら覚えてろよ。燈彼を見て顔を歪め、梓は面白くなさそうに地面を蹴った。


 その後――日菜子は日常生活に戻った。

 代り映えのしない日々に、あまり減らなくなった電池残量のスマホを眺める。

 誰かが自分の噂をするものの、数日もするとその嘲笑にも慣れた。

 結局彼ら彼女らは事実を知らず、誰かから聞いた噂をさも事実のように垂れ流すだけだと気づいたからだ。的はそんなに当たっていない。

 元彼が他の女子と話しているのを見ても何も感じない。ただの慣れ合いだったのかもしれないし、恋に恋していただけだったのかもしれない。

 わかっている。本当の理由はちゃんとわかっている。本当に彼の事を好きだったわけではないからだ。そうして隣にいる香を見ると複雑な気持ちにもなる。

「ごめんね、本当は私、ずっと英樹の事、好きだった」

「うん。……告白、してみたら?」

「ううん、もういいの、もう、いいの。あんな奴。なんで好きだったんだろうって最近思うの」

「そんな悪い人じゃないよ」

 そんな悪い人じゃない。私も人の事を言えた義理ではないけれどと日菜子も思う。

 そう言うと香りは少し困った顔をして日菜子を見た。

 同調するのが良かったのかもしれないと思い、でも香がまだ相手を好きなら後押しもしてあげたかった。香の顔は少し疲れていて、くたびれていて、きっと沢山泣いたのだと気が付いて。友達だとは言いつつも、結局自分は香を見ていなかったのだとため息もでる。

 きっと沢山悩み苦しんだ。それを理解すると怒ったり嫌味を言ったりする気も失せた。

 香はきっと本気で幼馴染の事が好きだったのだ。

 私はライクで、彼女はラブだった。日菜子はそう感じる。

 確かに一方的な被害者ではある。

 でもあの怪物は投げ捨てられた香の感情を拾って悪戯に標的として攻撃してきただけで、それは香の意思じゃない。本当に彼の事を好きなわけではなかったという罪悪感もある。

 自分を嘲笑するあの子も、自分が嘲笑される立場を経験すれば、そんな事をしないのだろうなと日菜子は少し笑った。それでもするのかもしれない。

 世の中には理不尽な事がある。それは一方的に襲い掛かってきて特に深い理由も無い。

 憤りはある。今回の件に憤りはある。でも誰に罪があるのか問われても、その矛先が無い。それに対する自分のみっともない行いだけが残っている。

「日菜子は、もういいの? 英樹の事」

「もういいの。もういい」

 私は彼の事を本当に好きだったわけではないから。その言葉は香にとって致命的な気がして日菜子はその言葉をそっと飲み込んだ。最低な私がフラれただけ。

 日菜子が好きではなかったことを告げたのなら、香は少し笑っていただろう。少し気が楽になっていたかもしれない。二人にはまだ幼さが残っていた。

「そう?」

「変わらず接してくれてありがとう」

 ため息を一つ――思い返しただけでもういっぱい、お腹もいっぱい。

「ううん。だって友達だもの」

 きっと本心なのだと日菜子は思う。

 呪われていた間のショートメールの内容はかなりひどいものだった。英樹にフラれてもしょうがない。内容は思い出したくないし英樹にも消させた。

「正直思いだしたくないかな、英樹を見ると口が苦くなるの」

「ミントみたいに?」

「それディスってる?」

「なーんーでっ。じゃあ、これっはい」

 香がそっと口の中に入れてきたのは、ミント味のチョコだった。

 吐き出せない気持ちは、ぐしゃぐしゃに丸めて放り投げてしまえばいい。

 地面をのたうち回って暴れるのも一興だ。

 他人は怖い。他人は恐ろしい。でもきっとみんな同じ。

 日菜子はもう一度、あの子に会う機会はあるのだろうかと思う。友達になりたいとも思う。一緒にクレープを食べにいったり水族館に行ったりしたら楽しいのだろうなと思う。

 あの時みたいに、悪態をついてくるのだろうか。

 それとも、あの時みたいに、優しげに微笑むのだろうか。

 手を繋いで、目を見るとまん丸で、引っ張って、振り回して、ひどい言葉を言われた分、傷つけてやりたいとも思う。

「もう一度、会えたらいいのに」

 困った顔をするだろうか、少し困らせたくもなる。もう一度、抱きしめて欲しいとも思う。埋もれてしまいたいとも思う。

 喧嘩しても言い争っても、一緒にいられる雰囲気があった。

 柔らかな太陽を思わせる幸せの匂いをさせていた。

「え⁉ もう他に好きな人できたの⁉」

「そんなわけないでしょ」

 頭からすっぽりとその胸の中に納まって、いい子いい子と撫でられたい。甘えるという感情を思い切り発散したい。敵とか味方とかマウントとかそういう煩わしい蟠(わだかま)りのようなものが彼女(燈彼)には無い気がした。

「……なんだ。びっくりした」

 香は日菜子と腕を組む。

「ちょっと、なによ」

 あれを思い出すだけで私はいい子でいられる。

「いいでしょ、腕を組んだって」

 しばらくは、私の独り占めだと香は笑みを浮かべた。

「別にいいけど」

 何気ない帰り道、二人は寄り添う。

 失敗してもやり直せる。また一から作り上げなければならないけれど。

 苦い経験だった。でも若いうちに経験できたことは良かったのかもしれないと日菜子は割り切ることにした。もう大抵のことには動じない。あんな化け物もいて、そしてそれにちゃんと対応してくれている人達もいる。知らない世界が沢山ある。

 香も悪い子じゃないし、親にも迷惑をかけた。自分の対応の仕方にも問題はある。

 ため息が零れる。

 もう一度抱きしめられたい――あの夜の中で陽だまりを感じるように。

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