第9話 


 昨今人造人型機械ヒューマノイド、アンドロイドが街に出回り始め世界は平行線を手に入れた。

 アンドロイドにより仕事を奪われ人々が路頭に迷う。なんてそんな事はなく、人々はアンドロイドを手に入れて自由と安定も手に入れた。

 一家に一台アンドロイド。そうして手持ちのアンドロイドを自分の代わりに働かせ給料を得る仕組みを確立。人が働かなくともよくなった世界。多少の問題を抱えつつも穏やかな時間が訪れはじめる。アンドロイドを持ち企業に貸し出す、アンドロイドを持ち他人へ貸し出す。アンドロイドが仕事をし、その報酬を人が受け取る。アンドロイドが人々の生活を助け、補助する。仕事をしていた時間は自由になり、家事による負担も分散された。争いもなく平和ビリビリビリリとなる。

 裂ける音。紙が歪な痕跡を残しながら夏乃子の指に引っかかり引き裂かれていった。

 わざと引き裂いたわけではない。飛び退り、壁に手をついたらそのままポスターを引き裂いてしまった。やっべとは思ったものの色褪せた紙の様子を伺い、これなら大丈夫そうねと夏乃子の意識はポスターから削がれていった。

 場に広がる甘い香り。

 花の蜜のような、薄く広がり良い匂いだとふと気づく。

 匂いの元を探して視線を巡らせれば、その先には荒れ狂うように燃えあがる炎に包まれて、荒れ狂う炎のようなブロンドの髪を風に靡かせる女性が佇んでいる。名をフローゼと。色めき立つ豊満な曲線、手に持った棒は先端に行くほど歪にねじれ赤々と燃ゆる。伸びる柄はやがて槍を描き、先端は赤熱を帯びて視界を歪める。

 マンションの中。

 二人はマンションの中にいた。

 高度経済成長期に建設されたマンション。その中は沢山の人で溢れているはずだった。しかし今はほとんどの部屋が空いており、沢山の人が住んでいたという過去の記憶しか残っていない。時が過ぎ人は無く低迷した家賃と人が減ったことで荒れた世界、古き良き住処となるはずだったところ、そうなるはずだったところ。

 このマンションは呪われていると噂になっていた。

 このマンションに入居した人々が次々に自殺していたからだ。

 貴方は良い隣人だけれど全ての人が良い隣人ではない。

 そうして積み重なった噂と抜け殻の城。

 夏乃子が少し後ろへ下がるとフローゼの背中へぶつかった。


 背中合わせに彩る世界。

 十五階建て。一~二階には散髪屋や歯科医などが並んでいたが現在はカフェがぽつんと残るのみ。

 こだわりの豆と書かれた可愛い看板は古みを帯びて、それでも埃だけはしっかりと拭われていた。残念ながらその看板の裏か出て来たのは亭主ではなく沢山の蜘蛛だ。

 蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛と、蜘蛛嫌いならば即倒しそうな光景が広がりつつあった。

 通路は長く四角く伸びている。その通路を埋め尽くすように六歳児ほどの胴体を持った蜘蛛がひしめき合い二人に迫っていた。

 その足の動きに夏乃子は顔をしかめてしまう。

 遡る事数十分前。

 夏乃子とフローゼがマンションに到着すると、管理人にはあらかじめ話が通っており、空いている部屋を自由に見ても良いとマスターキーを貰った。

 前回二人が残した爪痕がそこかしこにあり、管理人の話では危険だから住人には退去してほしいと伝えてあるとのこと。その書類を渡されサインを要求された。しかし書類上ではそうなっているけれど、ここにしか居場所の無い住民が戻って来て住んでいる可能性は十分にあるとも告げられた。サインを貰ったからもう私に責任はないとも告げられ、夏乃子はこいつ張り倒してやろうかと思った。

 いきなり退去してくれと言う方が無理なのはわかるけれど……そう言い放ち、このマンションから退去することを拒んだ女性が行方不明にもなっている。

 一階から順に部屋を回ったが、二階にあがると蜘蛛に囲まれてしまった。

 前回来たのでしょうとフローゼには確認はしたけれど、口頭では説明できないと言われ。

「This happens.」

 今そう言われて夏乃子が奥歯を噛みしめた。

『キレそう』

 スマホを向けられたフローゼが噴き出して笑いだしそれにまた夏乃子は怒りを覚える。

 人避けの結界や一般人を遠ざける術など持っているわけもなく、巻き込んだらどうするのと夏乃子の頭を悩ませた。

 白熱電灯は心もとない明かりを灯し、今にも消えそうに明滅を繰り返すがフローゼより発する炎により明るさに問題はない。がすでに焦げる匂いがしてとっさに言葉を話せないのも恨めしい。

「I‘m okですよ、夏乃子」

 私はオーケーではない。その言葉を夏乃子は飲み込んだ。

 外では大規模な炎を使わないようにフローゼはミコトに言われている。

 一般人の事を考えれば当然のことで、夏乃子もフローゼに制御を促したいところ。しかしこの蜘蛛の大群を見るに……促せそうにない。

 迫りくる蜘蛛の容姿に付け加え数があまりにも多い。四の五の言ってはいられない。

 一呼吸のち夏乃子が思い切り踵で地面を蹴ると刹那の鈍い光と空気の裂ける音が鳴り響いた。ほとばしる雷。手加減はない。

 夏乃子は早く依頼を終わらせたいと思っている。燈彼の事が心配だったからだ(執着しているからだ)。燈彼の姿が視界から消えると不安になる。何時かこっそり知らぬ間にいなくなってしまいそうな心細さを感じ、燈彼の様子があまりにも不穏で傍にいないと胸が張り裂けそう。その不安、痛みに呼応するよう自分の中の呪いが膨れ上がるような気さえして同時に怒りも湧き上がる。

 自分の知らぬところで誰か他の人間と仲良さそうにしている燈彼を想像してしまう。自分でなくともいいのだ。自分がいなくても燈彼は大丈夫なのだろう。それこそ梓であったとしても……愛情に近く憎しみに似ている。しかしそれは決して愛ではない。

 とても許せそうにない。

 心臓のあたりでくすぶり湧き上がる痛みは火傷のようにじくじくと心を蝕み悲鳴をあげさせる。離れたくない。一時でも辛い。だから早く終わらせたい。

 これから起こる現象を思い起こしてフローゼは楽しそうににんまりと笑みを浮かべた。唇に手を当て炎を吐き出し、炎は女性の形をとると蜘蛛を蹴散らし飛び火する。炎の作る女性像が蜘蛛を嬲るように燃え上がり、焼ける臭いと燻る煙、転がりひっくり返り、どれだけ足を動かそうともその炎は決して離してはくれない。

 瞳の中に映るその残酷な光景にフローゼの心が楽しみを帯びてくる。炎の快楽はフローゼを掴んで離さない。何もかも燃やしてしまえばいい。何もかも灰にかえしてしまえばいい。汚れた部屋を丸ごと燃やして無くすように。それはさぞ気持ち良い。フローゼの体に纏わりつく炎はまるでフローゼに縋り付く地獄の亡者のようだった。

 夏乃子を見てはやくこちら側へ来ればいいのにとフローゼは思う。フローゼは夏乃子がこちら側の、自分と同じ側の人間だと感じている。燈彼とは違う。私達は燈彼とは違うのだ。

 あの子はラブの人。

 私達はライクの人だ。

 早くそれに気づけばいいのに、そうすればもっと楽になる。

 そうは思いつつも……フローゼも最後の一線だけはまだ越えられずにいた。

 フローゼの体が熱を帯びて荒れ狂う。それは浄化なんて生易しいものではなかった。炎の象る無数の手が蜘蛛を掴んで離さない。自らを焼いた炎で身を焦がす。

 この先、どう足掻いてもこの力を使わなければいけないと、夏乃子は意を決して己の中にある呪いと対自した。

 自分が裏返る感覚。

 体が真っ黒に染まる。何もない。黒しかない。気持ちが昂るのを感じ、この姿を燈彼には見られたくないな、なんて夏乃子は少し笑った。

 夏乃子の足元より発せられた雷はコンクリートの表面を絶縁破壊し、蛇を象り広がっていく。

 雷神降臨――雷は這い、牙は鋭さを増して感情を発露する。

 何もかもぶち壊してやると言わぬばかり。

 吐き出した炎は鉄を赤く染め蜘蛛を焼き殺す。

 ほとばしる雷は蜘蛛を感電させ焼き殺す。

 どちらも与えるのは安楽ではなく、蜘蛛の足は苦痛で激しく動くが逃れる術もない。

 雷を纏った夏乃子はくるりと回転し、通路と並行するように後ろ回し蹴りを解き放つ。まるで空気の中に壁でも存在するかのように何もない空間に手ごたえを感じ、足の裏が何かを打ち破るような衝撃を感じたのち一筋の雷光がほとばしる。

 音と光の暴力。光が通り抜けた後、目も覚めるような音が鳴る。

 空間を蹴るごとに雷光がほとばしり、爆ぜた空気が衝撃となって辺り一面を薙ぎ払った。

 残光はあくまでも刹那――瞬きをする間に消えて、しなる足はまるで槍の如き雷神足、雷神槍。

 次いで蹴り上げた足は頭上を穿ち、赤い靴、足の裏から雷が天井へとほとばしる。広がった雷の蛇は天井の蜘蛛を飲み込み痙攣させ、ぼとぼととまるでゴミのように落下させた。

 まるで地獄の鬼。片方は炎を吐き、片方は稲妻を発す。

 哀れな蜘蛛は燃えさかり、しびれ感電し、足をばたつかせると動かなくなって溶けていく。

 香ばしい肉の焼けるような匂い。夏乃子は振り返りフローゼを見ると顔をしかめた。

 フローゼは喜々として蜘蛛を焼き鏝で貫いていた。

 いっそう高い笑い声。

 自身の内から轟轟と湧き出る感情にフローゼは清々しさすら感じる。すべてを浄化しているような感覚、すべてすべて燃えてしまえば、いっそう清々しいとフローゼの内側からせり上がってくる。その感情は呪いのものだがフローゼの感情はそれと同一でもあった。すべて燃えてしまえばいいのにと泣きそうな程に願っている。

 不浄も清浄も、全て炎に包んで燃やしてしまえばいい。

 そうすればきっと、この世界は綺麗なものだけになる。

 その一歩手前で引き留める自分がいてその自分をとても大切に思う。

 服を摘まんでくる小さな手。この手だけは振りほどけない。それが誰であったのか思い出せないけれど、誰かが私を姉と呼んでいたとそんな気がするのだ。

 フローゼの最後の一線を守る楔をフローゼは振りほどきがたい。それだけが救いだ。それだけが救い。

 湧き出る炎の源には沢山の悶える人々。これが己を焦がすためにある炎だと知っている。

 這い出してきて、お前も燃えればいいと手を伸ばす。知っていてそれを扱うスリルは恐怖と興奮にまみれていた。

 蜘蛛を蹴散らし通路を駆け階段を駆け上る。三階から居住区に移り構造も切り替わる。

 マンションには中庭があり、中庭を囲む形の四棟からなる。

 通路は内側に、外側にはベランダ。

 中庭を囲む各層の手すりは鉄の棒で出来ており、見る人が見れば即倒しそうな光景が広がっていた。備え付けのエレベーターは故障中。先日、梓に射られた跡も残っている。

 外来種と呼ばれる外から来る呪いは年々増えつつあった。

 この蜘蛛もその一種、しかし言葉は違えど意味が同じであるように、呪いの根底にあるものはみな同じだ。

 天使と悪魔があるように、仏と鬼がいるように。

 階層の上下よりわらわらと現れる蜘蛛はきりがなく、肩で息をしながら夏乃子は蹴りを繰り出した。

「疲れましたか?」

 本体は上にいるだろうと上を目指し、現在は六階にいる。

 一周して戻ってきたフローゼがそう言い、冗談でしょうと夏乃子は強がって見せる。

 夏乃子に飛びかかる蜘蛛のどてっ腹にフローゼが焼き鏝を突き入れ、蜘蛛の体から煙が立ち上り、煮え立つように皮膚が脈動しはじけ飛ぶ。

 ヴォーンと音が響いた、ヴォーン――ヌッと中庭に垂れ下がってきたのは巨大な蜘蛛だった。

 するすると腹部より放出される糸を使い、僅かに体を揺らしながら降りてくる。太い足はささくれ立ち産毛も見える。大きくて無機質な目が六つ。なによりお腹にある人の顔のような凹凸と体表の赤黒黄色の模様には激しい嫌悪感を覚える。

 かたまる二人の様子を視界に捉えると腹部にある顔の凹凸は笑みを浮かべるように歪んで見えた。

 体中に湧き出た嫌悪と鳥肌。

 その光景を楽しむように大蜘蛛は口から糸を吐き出した。夏乃子は飛び退り避けフローゼは糸に当たり壁へと押し付けられる。

「フローゼ‼」

 夏乃子から発せられた声にフローゼは痛みに顔をしかめながらも驚く。

 声がと夏乃子は喉を押さえ、呪いを発動している間は喋れると気づく。

 私ってこんな声なんだ。そんな感想が刹那に消える。

 わらわらと寄り集まってくる小蜘蛛が体中にまとわりつき、体を噛み蝕んで、その痛みに夏乃子は唇を引きつらせた。夏乃子は暴れるように小蜘蛛を引き剥がそうともがき、炎が沸き上がり糸が燃えた。脱出したフローゼは夏乃子めがけて炎を吐き出し、炎に巻かれた夏乃子は腕で顔を守り転がる。吹き抜けた炎により吹き飛ばされた小蜘蛛に安堵し、焼けた空気を払うように手足を振った。服が無かったら致命傷だったかもしれない。

 この野郎と夏乃子がフローゼを見ると、フローゼは笑っていた。

 いっそうひどいくらい、お酒に酔ったみたいによたよたと、夏乃子を指さしてフローゼは笑っていた。

 夏乃子はそんなフローゼを睨みながら、噛まれた二の腕より流れる赤い液体に唇をつけ吸い地面へと吐き出す。

 体は真っ黒になっても体を流れる血は赤い。それが一等良い。

 鉄の匂いとは言うけれど、紛れもない血液の匂いと味、舌を出して垂れてきた血を舐め、頭の冴える感覚さえある。やってくれたなと反骨芯も沸く。

 何かを思い出しそうになり、思い出せず記憶も迷いも吹っ飛べばいいと雷を放射する。

 目の前で繰り出される足と雷にフローゼは目を丸くし、夏乃子はTake it easyと言った。

 私、緊張していたみたいと呟き、足の使い方をだいぶ理解してきたと体をほぐす。軽く飛ぶと鉄の手すりに飛び乗り目の前の蜘蛛を夏乃子は睨みつけた。

 全身の筋肉を脈動させ足を効率よく駆動するためだけに消費する。大蜘蛛の吐き出した糸をその場でくるりと回転しかわすと飛び立って蹴りを入れる。夏乃子の足の裏は大蜘蛛のどてっぱらをへこませ、蜘蛛の体を刹那の蛇が走り込み痛みとして駆け抜ける。

 蜘蛛の足は電撃により小刻みに震え、蜘蛛の腹にある顔は歪に歪みながら変化する。その様子を見ながら夏乃子は蹴った反動で翻り、再び手すりへと降り立つ。フローゼは自分と夏乃子めがけて飛び掛かってくる小蜘蛛を炎で払い飛ばす。

 エンジンのギアが切り替わるように体中の血液が夏乃子の中で沸騰し始めていた。

「キィイイイイイイイイエエエエエエエエエエエエエエ‼」

 大蜘蛛の腹にある顔は蹴られた時よりいっそう歪み、奇声を発すると動きは活発さを増して足の先は鋭い刃となり歪な動きをする。

 二人は目を丸くする。顔を見合わせ、そして階段へと駆け出した。大蜘蛛がその長くて歪な手足を振り乱して二人めがけて迫る。こんなのどう考えても無理でしょと、二人は手すりを壊し通路を壊しながら進んでくる蜘蛛を背後に感じて駆けた。

 通路脇の階段を目指しフローゼを上に夏乃子は下へ。大蜘蛛は夏乃子を追ってきた。蹴られたのを根に持っている。

 一段一段駆けていたのでは間に合わない。夏乃子は階段上から階段下まで飛び立ち、降り立つと壁に手を当てて、重心を動かして通路を曲がる。追ってこなかったのでフローゼは上の階段から壁を乗り越え下の階層をのぞき込む。

「夏乃子⁉ Are you ok⁉」

 大丈夫なわけないでしょうと、五階と四階を繋ぐ階段を駆け降りる途中で追いつかれそうになり、どうにでもなれと階段中央踊場の壁に足をつけ、蹴り、背後に迫る蜘蛛の足が触れるか触れないかの距離を紙一重ですり抜け回転しながら壁を越えて段裏を抜ける。下に落ちる寸前で手をかけ、思いがけず指の力でぶら下がった事を奇跡だと思う。

 しかし蜘蛛の足が見えたのですぐに手を放し――息を飲む。四階と三階の隙間、タイミング、縁へと曲げた手。指、ガクンッと体が重力の衝動を受け第二間接までで体を支えている。

 下を見ればまだ高く、指に力を入れ体を持ち、四階と三階を繋ぐ階段中央踊り場へ戻り降りようと考えたが、視界に大蜘蛛が見え内部に入るのをやめた。どうする、どうすると辺りを見回し、左横のわずかなへこみに移動し、三階の部屋窓枠の鉄格子に手を伸ばすと、さきほどまで夏乃子が手をかけていた隙間から大蜘蛛が無理やり通ろうと頭を出して動いているのを見て舌打ちする。

 手すりにめがけて飛び降り、飛び降りた勢いを利用して手を支点とし、両足を持ち上げ壁を蹴り鉄格子の上部へとへばりつく。鉄格子は上半分が無い。落下防止用に付けられたものなのだろう。

 隣のベランダまで――振り返ると蜘蛛と目が合い、早い――と思う間もなく突進してきた蜘蛛の頭を見る。室内へ逃げようとそのまま押し出され鉄格子を歪めるとガラス戸を割り室内に転がりこむ。体は丸めたが背中を打って痛みに悶絶する。

 顔を歪めながら手で体を支え鋭い痛みを感じて手を持ちあげ、ガラスの破片で指を切っており、加えて飛び散ったガラス片が腕に刺さっていた。視界の隅には蜘蛛、ガラス戸と鉄格子の枠にはまってもがき、腕に刺さったガラスを引き抜き抜いて――次いで足を持ち上げ、モモに刺さったガラスの痛みに気づいて指で引き抜く。

 体が何かビニール袋のようなものに覆われていると気付き、部屋の様子をざっと流し見、人の住む部屋のようでまずいと思う反面、なぜこんなにゴミがあるのかを不思議に思う。

 蜘蛛の足が伸びてきてかろうじて後ろに回転する。倒したカップから汁がこぼれ盛大に夏乃子の服にかかった。

 典型的なごみ屋敷とでもいうのだろうか、否、足を地面につき、飛び退った夏乃子が混ざったのはレトルト商品やカップ麺などの容器だった。

 臭い――様々な商品の様々なスパイスが放置され臭いは刺激となって夏乃子の顔をしかめさせた。

 歪んだ窓枠に引っかかっているおかげで大蜘蛛の動きは制限され、足も三本しか夏乃子へ繰り出せていない。実体化すると物体を透過できないのかと夏乃子はなぜだかそう考察してしまった。

 繰り出された足先を左右へかわす――暗い部屋の中でも蜘蛛の顔だけははっきりと見え、鋭く尖った蜘蛛の足、刺したゴミを口に持っていき顎を動かすさまに嫌悪感は増すばかり。

 同時にこの部屋、落下防止用――もしかして人がいるんじゃっ。夏乃子ははっとして辺りを見回し、ついで蜘蛛の奇声に耳を傷める。

 なによと蜘蛛を見ると、蜘蛛の体には火がつき燃え上っていた。

「Aha‼」

 上の窓から降りてきたフローゼが蜘蛛の背中に飛び降りて焼き鏝を突き刺している。床へ押し付けた蜘蛛越し、驚く夏乃子と、そして隣の部屋のドアを開けて小さな女の子が出てくるのが見えて目を見開く。子供が落下しないための鉄格子と夏乃子は奥歯強く噛んだ。

 ついた電気と「まま?」と眠そうに目をこする女の子の声――夏乃子の瞳孔は開き、ネグレクトという言葉が脳裏をよぎる。その子供の様子になぜか夏乃子の胸が強く傷んだ。

 来るなと言いたいけれど声はでず、出てきた女の子の心臓あたりを左手で押して部屋の中へ押し戻す。

 ドアを閉め、暴れる蜘蛛の攻撃を避けると外へ押し出すために駆け、振り回される蜘蛛の鋭い爪足に頬と足、手足に切り傷ができるが、沸騰した脳はそれらの痛みを消していく。

 大蜘蛛の顔に蹴りを入れて、外へ押し出す――蹴りを入れると反動を利用してバク宙、飛び立つうと思っていた。しかし飛び立つ瞬間、蜘蛛の足が伸びて体を貫くと予感が走り、側宙へと切り替える。無理な体勢での側宙により体勢を崩すと思われたが体は反転して天井に足を付けて立っていた――自分の意志ではない軽やかな反転に、なるほどと夏乃子は思う。これが靴の意志、わたしは靴だという意志、わたしを上手に使ってよという意志、上手に踊るの、しかしその意志は呪われている。

 振り落とされないでよと夏乃子は天井を蹴り、勢いを利用して蜘蛛の顔面を再び蹴る。繰り出される足を避け、後ろ回し蹴り少しずつ少しずつ外へと押し出していく、途中まで抜けると蜘蛛は奇声を発し、手足を振り回して暴れだした。

 せーのっとドロップキックをするとついに蜘蛛はのけ反り返りながら窓枠を越えた。背後にて焼き鏝を突き刺したフローゼも重心を利用して、手足をバタバタとばたつかせる蜘蛛をひっくり返すのに付きそう。

「Coming run‼」

 重く動き、やがて均衡を崩して蜘蛛は落下を始める。そのまま地面に到達すると蜘蛛の体は形を残しながらもべちゃりと広がった。

「Finish‼」

 フローゼの体は炎を発し蜘蛛を覆い尽くす。逃れようとする蜘蛛は手足を使い、フローゼが上を見て焼き鏝から身をのけぞると、上から降りてきた夏乃子の蹴りは焼き鏝を地面まで突き刺し縫い留めた。

 足ごと体に飲めりこんで熱を帯びて地中深くに達する。

 痛みでも感じているのか、暴れ回る蜘蛛の足は波打ち、腹部と思われる場所から声と液体が飛び散る。それは明らかに蜘蛛のおよそ口と思われる部分から発せられたものではなかった。

 夏乃子の発した雷が蜘蛛の体を激しく痙攣させ、痛みから波打つのか痙攣で波打つのか、ついでにフローゼの体まで痺れさせてフローゼは目を見開いた。

「しびびびびび」

 空気と言う名の導火線、無数の雷線と空気の集約がじりじりじりとフローゼへと溜まる――空気と雷と炎のマジック。そして爆ぜた――衝撃と音と煙と熱。

 夏乃子は吹き飛ばされて転がった。起き上がった視界は煙にまみれ、息をするのもままならず、煙から逃げるように転がり起きる。

「ちょっとあんたね‼」

 文句を言いながらフローゼの方を見る。

 死んだかもしれないと夏乃子の脳裏をよぎった不安は、口からケフッと煙を咳、茫然と目を見開くフローゼによって消えた。

「けふっ」

 爆発によって消し飛ばされた蜘蛛の影、それだけが地面に残り、その影すらもフローゼからほとばしる炎に燃えて消えてゆく。

 ひどい最後だわ。そう言葉を口にしようとして喋れない事に夏乃子は気が付いた。

 まったく――最高に素敵で最高に最低だ。

 夏乃子がフローゼに手を出しだすと、フローゼはにんまりして手を握った。

 炎は広がり消え、残り香だけが霧のように。

『よく燃えたわね』

 レッグバンドについたスマホの音声を夏乃子は鳴らし、画面のヒビに顔をしかめる。

「Light my fire」

 フローゼは人差し指を立て、右手を銃の形にすると先端をフッと吹くような真似をした――人差し指より湧き出た煙と共に、夜は静寂を取り戻してゆく。

 なによそれと飽きられる夏乃子にフローゼは言った。

「勝利のポーズデース‼ ヴィクトリー‼」

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