第8話 


 夕暮れを抜けて帳(とばり)が下りる。0時を越えて足音がする。

 誰かがそっと彼女たちの日常にスパイスを振りかけた。

 残念ながらそのスパイスをいつ誰がどのように振りかけるのか、彼女たちには決められないし備え付けはフォークかナイフかタンゴかワルツか彼女達に決定権はない。

 勝手にかけないでよと睨んだところでそれを止めることはできないし、リハーサルも模擬戦も練習も抑揚もなしだ。


 早朝ランニングはなしとミコトの言葉を聞いて梓はほっとしていた。

 気だるかった体は回復しておりスムーズに間接の動くさまが心地良い。昨日より筋肉が張っている。神経の伝達が早く昨日より洗練されているのがわかる。まるで神経ではない別の何かに補佐されているような気さえする。

 昨日食べたお汁粉の残り香が記憶と舌の上で転がっていテイイキモチ。それを振り払うミントの歯磨き粉がまたいっそうに気持ち良い。

 思い切り背伸び、視界の端に燈彼の姿がある。

 おまけの夏乃子やフローゼもいる。それが妙に良くて妙に良い。

 トイレから出るといっそう清々しい。

 朝食は山盛りのお米、鮭の塩焼き、出汁巻き卵、サラダ、ヨーグルト、きゅうりのからし漬け、きゅうりのからし漬けは絶品で箸はおのずときゅうりとご飯に集中した。

「こんなのおかしいです‼ こんなきゅうり?」

『Cucumber』

「そうです。こんなCucumber食べた事ないです‼ Very Amazing‼ It really moved me‼」

「ふっ、そのきゅうりは自信ありだ」

 思っていたよりも空腹なのがわかる。いくらでも詰め込めるような気がして、自分を小食だと思っていた梓も驚くほどだった。

「さて、今日はお前たちに、お勤めの話が来ている」

「朝からデスカ?」

「朝からだ」

「日曜ですよ?」

「知るか‼」

 ころころとホワイトボードを転がしてきたミコトは、皆を一瞥しすでに文字の書かれているホワイトボードを手に持った太めのボールペンで叩いた。

「先日逃した狒々が街中に出た。狒々の主な獲物は女だ。こういう奴は粘着質で一度定めた獲物をなかなか諦めない。さすがに街中のどこかまではわからんが狙われているのは前回と同じ女だろう。そこで今回この任務には梓と燈彼に行ってもらう」

『意義あり‼』

「わからんのによく街中に出たってわかりましたね」

「同時に質問するな」

 夏乃子は立ち上がり、ミコトに抗議するように手をあげた。

「意義は却下、今回の任務には索敵能力がいる。広範囲の索敵ができる梓がうってつけだ。街中での任務であるゆえ、広範囲に影響を出しかねないフローゼと夏乃子には向かない。二人には別のお勤めにあたってもらう。蜘蛛はマンションから動かない、こっちは殲滅戦だ。避難も済んでいる。意義は認めない」

『意義あり‼』

 ぼりぼり音がする。ぼりぼりぼりぼり音がする。

「うるせぇ‼ ぼりぼりうるせぇ‼」

「こんなぼりぼりおいしいキュぼりぼりウリを作るマぼりぼりムが悪いぼりぼり‼」

「ぶっ飛ばすぞフローゼおめぇわよ‼ 夏乃子‼ 後意義は認めねぇっつってんだろ‼ スマホを構えるな‼ なんだお前‼ スマホは印籠じゃねーぞ‼」

 スマホを前に出していた夏乃子はスマホを前に突き付けて抗議の表情でミコトに険しい視線を当てる。

「あたしの質問には答えて貰えないんですか?」

 梓が箸を持つ手を上げ。

「しるか‼」

 知るかってそこは知っていてよとキュウリの辛子付けを口に運び、お米を口の中へとかきこんだ。舌の上の僅かな痺れにお米が進む。

「梓食べ過ぎデス‼」

「話聞かねぇーならキュウリの辛子漬けはもうつくらねぇぞ‼」

 その言葉を聞いて、夏乃子は八重歯をむき出しながらも我慢するように席についた。

「ったくよ。今すぐにでもぶっ殺しに行きたいところだが残念ながら昼間物を壊すと上がうるせーんだわ。だから夜まで待機だ。だからと言っていたいけな少女の犠牲を増やしたくねーだろ。まぁいたいけかどうかはしらねーけどな。しっかり身体を休めておけ。今日終わらないと明日だ。明日終わらないと火曜日にもつれ込む。余計な仕事で学業を疎かにしたくはねーだろ。そして削れるのは睡眠時間だけだ」

『そしたら私は昼寝部を作るわ、部員は私と、燈彼』

「Sleeping‼ 私も入ります‼」

「それ私も」

「うぅう、なんて嫌なガキ共なのかしら」

「Mom、言葉が汚すぎます」

「誰がママだぶっころすぞ‼」

「Yes‼ Mom‼」

 こんなに食べたのいつぶりかかと思うほど三人はお米を食べ、コイツ等食いすぎだろとミコトは空になったおしつを覗き込み眺める。

 まだまだ育ちざかり、体を作り変えるのには栄養もいるかと納得もする。

 ぽんぽんと腹を撫でたりくつろいだりする三人にミコトは作り甲斐があらーなと少し乱暴に笑った。

「おらっ。食ったら待機だ。ちゃんと寝とけ。今夜は徹夜だ」

「うぃー」

「イエスイエス」

 やれやれとミコトは燈彼を見て、燈彼は何時も通り子供が純粋な表情をするかのようにミコトを見返す。ミコトはそんな燈彼の頭に手を置いて撫でた。唇より少し下についた米粒を見つけ。

「ちゃんと食べなさい」

 指で拭い燈彼の唇へと押しつける。燈彼はそれを口に含み噛んだ。残った指が燈彼の唇を撫で唾液を拭い、それを見ていた夏乃子の目はつり上がった。

『過保護‼』

 他の二人ならいざ知らず、ミコトにだけは夏乃子も強い態度を取りかねる。

「うるせっ」

 ミコトはそう言い夏乃子の額にデコピンをした。痛いと夏乃子は額を押さえて抗議の表情を、ミコトは手を振ってその抗議と視線を散らした。

「おらっとっとと部屋に行け」

 夏乃子は頬を膨らませ梓とフローゼが燈彼を部屋に連れていくのを見て焦って後を追う。考えても仕方ないけれど御勤めには当然まだ慣れていない。狒々と蜘蛛の姿を思い出し、三人は僅かな緊張を覚えていた。しかしそう思っていたのも束の間、フローゼと夏乃子は燈彼に寄りかかり熟睡。

 梓だけ少し尖った神経で眠れそうにない。

 チョコレートを摘まんで燈彼の口へ運ぶ。

 はむはむと食べる様子を見て梓は頬を緩ませた。

 ミコトが触れていたのを梓も見ていた。自分も触れてみたいと、それがなぜだかいけないことをしているような気がして、指と唇の間、チョコと唇の質感に心の内が溶けるような感覚にもなる。甘えるように燈彼の胸に顔を埋め、膝の上まで滑り落ちると、手を取り頬に当てる。燈彼の指、形と体温、いつの間にか梓も微睡み意識は透明になっていた。

 午前九時に眠ったはずなのに起きたら午後六時。

 身嗜みを整えトイレに行き夕食を食べる。マーボー豆腐とマーボー茄子、マーボー春雨……美味しいので三人とも無言でご飯をかきこんでいく。

 ご飯を食べたら身支度を整え体を軽くほぐす。

 燈彼はあてがわれた着物の袖に腕を通していた。青い血が染み込んだように深い色、胸元には銀の刺繍が一つ。簡素だがその布はとてもその辺に売っているような物には見えなかった。

「ほら、忘れるなよ。今のご時世、察(サツ、警察の略)もうるせーんだ」

 ミコトが取り出したのは包丁携帯許可証、紙包みを燈彼の胸元に滑り込ませる。

 刃渡り三十九センチは料理で使う包丁としても長すぎる。いざという時のための保険だ。夜中に包丁もってうろついているのを見つかれば真っ先に補導、最悪逮捕されかねない。

 包丁は鞘に入れられ布に包むと手で大事に持つ。

 お勤めは各々好きな格好をしていい。しかし支給されている服はある。全身を覆う真っ黒なボディスーツでフローゼ以外は顔をしかめた。

 この服は雨の中でも体が冷えることのないように、雨に濡れて体が動かなくなることのないように作られた服だ。丈夫で強い耐切繊維を持っており、内部には薄く非ニュートン流体も通っている。表面にはダイラタント流体が、関節部には擬塑性流体(ぎそうせいりゅうたい)が組み込まれている。

 体操着の延長上にある服だと三人にはすぐにわかった。

 ボディスーツの上から梓は制服を、夏乃子は制服とパーカー、フローゼはジャケットを羽織る。

「お前、それはどうなんだよ」

 ミコトの指摘に夏乃子は顔をしかめて。

『別に』

 と答えた。

 黒いボディスーツはフローゼの体のラインを否応なく露出させ、それを見た梓は唾を飲んで目元をヒクヒクとさせた。自分の体を見比べて顔をしかめ。

「ほれ」

 ミコトは笑みを浮かべながら猫耳カチューシャをフローゼの頭に差し込むと、いよいよ色物感も強くなった。

「Oh very cute」

 イヤホンも渡され耳に装着する。

「このイヤホンは近くにいる同じイヤホンを付けた者の声を聴き拾う。煩わしくてもとるんじゃねーぞ」

『私に、対する、嫌がらせ?』

「んなわけねーだろ。お前のは特別性だ。骨振動を読み込むタイプだ。だから声が出なくても安心しろ」

 声は出ていなくとも振動はある。それなのに音が無い。夏乃子は改めて声が出ないという現象に驚く。ていうかこんな便利なものがあるなら早く出してよとも思う。

「たけぇーんだよそれ。ン十万じゃ足りねーの。まだ壊れやすいし誤送信も多い」

 察したミコトの説明を聞いて夏乃子は大人しくなった。

 あなた達ってなんなのと夏乃子は思う。神様なのかそれとも人なのか。それとも得体の知れないなにかなのか。夏乃子はミコトを見、ミコトは夏乃子に少しだけ視線をおくった。

 そんなの、俺だってわかんねーよとミコトは思ったが。

「ノロワレテイル市では科学も発展している、その技術を使えるところに使っているだけだ。安心しろ、内閣官房機密費からでてるからな。それとこれ、お小遣い」

 それだけは答え二万円を梓と夏乃子に渡した。

 どうして私には渡してくれないのですかとフローゼは不思議な顔をし、お前に渡すわけねーだろとミコトの視線を受けて驚愕する。二チーム一万円ずつ使えという意図だ。

「明日の授業は免除だ。早く終われば少しは遊べるかもな。ちなみに始発は五時四十分だぜ。あとこれは夜食だ。今食うなよ」

「やはぁ‼ YASILYOKU‼」

 本気で遊びたいのなら、帰って休まずにそのまま遊んで帰るわと梓は思ったが、口には出さなかった。一度帰って来いということなのかもしれないと思いなおす。

 別れる時、夏乃子は梓の襟首を掴み顔を寄せ睨んだ。

「なっなによ」

 顔が近いのよと梓は思いすぐに離されて八つ当たりされたのもわかる。

 燈彼に何かあったら許さないと指を向けられ、イラッとした。

「うっさいのよあんたは。それとも何、あたしが食っちゃうとでも思った?」

「さすがに下品ですヨー。梓」

『それ、したら、オマエヲ殺すわ』

「はっ? やってみたら?」

 睨み返し、梓は夏乃子を手の平で押しのけた。

「ふひひひっ」

「何笑ってるのよ」

 梓と夏乃子に睨まれて、フローゼはさっと燈彼の後ろに隠れる。

「怖いデース」

 夏乃子と梓の二人はフローゼに焦点を合わせようとするが、フローゼの前には燈彼がいるので自然と燈彼と目が合う。

 じっと不思議そうに見つめてくる燈彼の目を直視できなくて、夏乃子は罪悪感を、梓は目を反らした。食っちゃうとかさすがにちょっといいセリフではなかったと梓の頬が熱を帯びはじめる。

 フローゼはそんな二人の様子を見て笑い燈彼を背後から抱きしめた。左右のお腹のラインから抱え上げるように手を胸へ。

「ちょっと‼」

 あんた何、破廉恥な事しているのよと梓が前のめりになり。

「なんですかぁ~? あうち‼」

 傍にやってきた夏乃子に頭を拳でぶたれ、フローゼは痛そうに頭を抱えた。

「ぐぅはないでしょ‼ ぐぅは⁉」

 不思議な四角関係。フローゼはそれを不思議に思いながらも嫌いではなかった。

 頭を押さえるフローゼに燈彼は振り返りさすって痛みを和らげようとする。フローゼの痛いところにそっと触れ、その手は優しくて温かい。

 フローゼはそんな燈彼を見上げ。

「帰ったらDanceしましょう、うふふっ」

 燈彼の鼻をツンとつつくと、燈彼は首を傾げてフローゼを見返した。

 そんなことさせるわけないでしょと夏乃子はフローゼの耳を引っ張る。

「あうち‼ 何するですかぁ⁉」

 駅で別れて終電に乗る。これから狒々と対自するのを想定し、梓は頭の中にある資料をまとめ整理していた。

 窓の外で降る雨、人々の濡れた体から垂れた雫が床を濡らし、心までもぬかるみにはまったような気分にもなってくる。少しだけ滑りキュッキュッと異音を発する靴の裏が耳に痛くて少し嫌。

 雨が降ると気温は下がり、足元から這い上がってくる冷気に息までも白くなる。

 まばらにいる人々、皆同じようなのに生活はそれぞれ少しずつ違い、談笑する女子高生、眠い顔をしたサラリーマン、少しやつれたおじさん、元気に大声で喋る人達、そんな人々に迷惑そうに顔をしかめる人達、そこには重さと明るさが入り交じっていた。

 電車の中に座る場所はなく、空いているドアの前に二人は並ぶ。着物を着ているのにブーツを履いている燈彼の様子をまじまじと見て梓は目を丸くしてしまった。

 何もかも用意されていたもので支給品。何一つ自分たちで買ったものはない。

 先月の給料は今月の二十日に振り込まれるはず、しかし何か必要なものがあるのかと言われれば、否だと梓は思った。

 一体どれくらいのお給金がもらえるのかも説明はない。

 この簡素な制服一つとっても使われている技術は高い。性能面で選べば市販のものは使えない。自分が着ている制服とボディスーツを眺め、果たしていったいいくらするのだろうかと梓は思う。よく見れば水滴は丸みを帯びて垂れていき撥水性が伺え、汗に蒸れず運動を阻害しないボディスーツの性能に驚く。

 制服にしろブーツにしろ採寸はあっていて、地味だけれど着心地もいい。

 眺める燈彼の着物。色合いと布の感触、自然が描く透明な雫模様。どう考えても普通の着物ではない。柔軟性があり撥水加工に付け加え体を守る多数の機能が内蔵されていると梓にもわかる。

 そこまでお金を使う価値が私たちにはあるのだろうか。そこまで資金を費やすほどにこのお勤めは大事な事柄なのだろうかと、そうであるとするならば私たちとは一体……悩んだところで答えなど浮かんではこない。それでも梓は考えるのをやめられなかった。答えを導きだそうとするのは自らの性分なのかもしれないと梓は思う。

「ねぇねぇ、あの子」

「頬に張ってるの、シップ? 何かのコスプレかな」

 着物を着ているのは燈彼で、梓は燈彼を隠すように自身の前まで誘導した。次の駅では多数の人が入ってきて電車の中はすし詰め、後ろから押されて梓は燈彼と密着する。

 別に抱き合ってもいいわよねと燈彼を眺めると、燈彼は相変わらずの表情で何をしても嫌がらないのねと燈彼に対して梓は不安になってくる。寝ている部屋に勝手に侵入し、勝手に隣で寝ても何を言わない嫌がらない受け入れてくれる。何もかも受け入れてくれるかのような気がして、その分、何かしてあげたいとも害意から守ってあげたいとも思う。

 否、戦闘面では優秀すぎるほど優秀で複雑な気持ちにもなる。本気で拒否しようとすれば、おそらく大抵の人間を拒否できるのだろうなと。傍にいるのを許されている。そう思うと梓の心臓は高鳴った。

「モデルかな、あの人、身長高くてかっこいい。姉妹なのかな」

「私もあんなスレンダーになりたいな」

「ダイエットしなさいよ」

「えぇ、無理」

「あんた無理てっ。私もあんなお姉ちゃんほしいな」

 電車の中は満員なのに、その次の駅ではさらに人が乗り、押さないでよとは思いつつ仕方ないのもわかる。

「っ、邪魔だな」

 背中の弓にぶつかったサラリーマンが舌打ちし、お前の手に持った荷物もジャマだろと梓は睨み返した。

 燈彼に対してごめんとは思いつつ、燈彼により密着する。燈彼の手をお尻に回してお尻が他者に触れるのを防ぐ。燈彼はお尻に触れてもなんとも思わない様子だったので梓も気にすることはなかった。

 こんなに人がいて不快なのに、燈彼に密着すると不思議と不快感は和らいで、燈彼の心音が聞こえ自分の心臓の音とシンクロするように鳴る様に、そして相乗する体温に、まるで炬燵の中にいるみたいに温かいと、ずっとこのままでもいいとすら思える。

 梓の身長174㎝と燈彼の身長164㎝――10㎝の違い、顔を傾けている燈彼の唇が梓の肩、服の上に押し付けられて柔らかいと感じる。少し癖のある黒髪からはなんともいいモモの香りがして、同じシャンプーを使っているはずだから同じ匂いがするはずなのに、燈彼から漂う髪の匂いをなんとも香しいと。

 甘くて淡くて、脆くて、薄い――。

 なんとなく耳に指を入れてみたりする、少し湿った髪、耳の中は綺麗で乾いていた。

「ふにゃ」

 指で耳の中をいじっていると燈彼は声を出し梓は目を丸くした。背骨を通る神経がビリリと震えなんとも言えぬ優越感のようなものを得る。

 小指をゆっくり回すと燈彼の口はもにゅもにゅと動き出し、押し付けられた肩越しに感じる唇の動きに、梓も知らぬうちに口が笑んでゆく。

 壁に強く燈彼の背を押し付け、口を肩に強く押し付けることで燈彼から漏れる声を抑え、肩から口を離し、恥ずかしそうに顔を背ける燈彼にいっそうイジメたくなり、やばいやばいとヒクヒクと痙攣しそうな口元を抑える。

 喉から頬を手の甲で撫でてみる――色々なところに触れてみたいと梓は思ってしまった。

 手の感触は覚えた。顎を噛んでみたい。鎖骨のラインは、曲げた指、第二間接辺りを口に咥えてみたい。顔を背ける燈彼の様子が梓にはいじらしく見えた。

 目的の駅が近づき、いけないいけないと梓は首を振る。停止した電車、名残惜しさを感じながら燈彼と離れ梓は構内に降り立った。

 解放感は圧倒的だが名残惜しさはある。離れた温もりをまた感じたいと思い、あとでと自分に言い聞かせる。

 少し冷えた構内、この街の六月を想像し、冷気が暖気に変わる湿気の予感を想像し、梓は若干の身震いを覚えた。

 構内は広く複雑で、ところどころに増築や修理工事の跡が見て取れる。

 地下と二階と階段を上下し、閉まった立ち食い蕎麦屋を視界の隅に改札を抜ける。売店と人気の薄らぐ駅の構内。

 夜の音、轟轟とした夜の音。

 背筋を伸ばし、声をかけて来た男達を睨みつけて遠ざける。

 見回りの警官としとしとと雨宿り。

 梓の口から白い息が洩れる。

 さぁやりましょうか。

 梓は自らを呪う呪いを解放し、ツインテールがほどけた。

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