第7話 

 しばらく、梓は自室で目を覚まし――寝返りを何度も何度も、目が冴えて眠れない。あんなに眠かったのに寝たいのに眠れなくて痛む体がだるくて鬱陶しい。

 起き上がり部屋に備え付けられたキッチンへ。歩くたびに体が痛み、普段は問題なく動けるのに動けない角度があると言う事にいら立ちを覚える。普段の動きができない。

 キッチンのシンクに手をついてコップを探し、ガラスのコップを手で掴み蛇口を捻り水を出す。

 水を飲むのすら億劫だけれど、水を飲まないと熱中症で頭痛になってしまうかもしれないと。水を飲んでトイレへ行きベッドで横になっても梓はなかなか寝付けなかった。

 熱を帯びてくらくら、体を冷まそうと寝間着を脱いで下着になって、寝返りをうちごろごろごろごろと、眠りたいのに眠れなくて苦しくて痛くて苦しいのに狂いそう。

「嫌になる」

 どうして眠れないのか、ゆっくりと立ち上がりため息をつく。

 他に行く当てなんてない。お金もない。体力も無い。眠りたい。

 寝間着を着直し部屋を出て三つ隣の燈彼の部屋の前、どうして燈彼の部屋なのか、夏乃子の部屋に行ってどうするのと、フローゼは寝ていて起きないだろうと、必然的に向かうのは燈彼の部屋で、ドアノブに手をかけると鍵は開いていた。

 ゆっくりとドアを押して中に入る。静かな空気、水を帯びように重く、一歩歩くごとに沈んでしまいそうな印象を受ける。

 ベッドで寝るよう言われているのに燈彼はベッドではなく床の上に転がっていた。

 ベッドで寝るように言われているのに、これじゃ風邪をひいてしまうと掛布団を取り、枕を取り、眺める燈彼はまるで子猫みたいでまるで子犬みたいに一人で丸まって、傍に行き膝をついて、燈彼の広がる黒髪、目が開いて目が合う。

 起こしたかな、と思うと、燈彼の右手はゆっくり動いて、思わず梓は手を握ってしまった。

「のぞ、み」

 のぞみと梓は疑問に思う。

 望みなのか、それとも名前なのか。

 寝ぼけているのかもしれないと、ゆっくりと燈彼の腕から力は抜けていき、瞼は閉じられてしまった。

 枕を頭にかませ、掛布団を一緒に。

 手を握りそっと体を横にする。遠くで電車の音が聞こえる。少しのサイレンも聞こえる。夜の音が聞こえる。空気の振動なのか、それとも別の何かなのか、街全体が巨大な生き物のように鼓動してそんな世界の中の区切られた一角にいると錯覚する。

 隣で同じ枕に頭を乗せて、じっと燈彼の横顔を見ていた。

 息を吸い込み吐き出す。吸い込み、吐き出す。

 横に寄り添う。手の温もりと他人がいる。さらさらの髪が頬に触れている。仰向けになる。ひどく良い(酔い)桃の匂い。梓の意識は消え入るように薄らいだ。

 コイツ。勝手に部屋に入って。

 枕を抱えてやってきた夏乃子は燈彼の隣で眠る梓に顔を歪ませた。

「うぅ……んあ? トイレトイレ」

 フローゼが部屋に入ってきて夏乃子の顔はさらに歪んだ。玄関をトイレだと勘違いしたのか、おもむろに寝間着のハーフパンツを玄関でずり下げて屈み始める。

 夏乃子は玄関に備え付けてあるスリッパを握るとフローゼの頭を叩いた。

「What‘s⁉」

 フローゼは驚いて顔をあげ、見上げる夏乃子を見て目を丸く。

「まさか夏乃子が先に入っていただなんて、Mistakenly believe that……Oh I have a suggestion.Do you want to――」

 スパンッと頭をスリッパで叩かれ、フローゼは口をフルフルしながら目に涙を浮かべた。

「なにするですか⁉」

 夏乃子がトイレを指指し、フローゼは頭を掻いてえへへと苦笑いを浮かべ、よろよろとよろめきながらトイレへ入る。

 改めて枕を抱え燈彼に近づき、頬が熱を帯びてゆくのを感じる。ゆっくりゆっくり燈彼の傍に枕を置いて横になり、寝顔は目の前に、今起きたら嫌がるだろうか。驚くだろうかと顔を寄せる。

 息を吸って、吐いて、唇、薄ピンクの、そして白い肌、凍っているみたいに、体中が疲労でだるく、傷ついた筋肉は痛みを伝えてくるのに、こうしていると体中が熱を帯びて痛みすら受け入れられる。

 燈彼と初めて出会ったのは病院の中だった。

 燈彼は身元引受人だと名乗るミコトと一緒にやってきた。

 荷物をまとめて病院を出て寮まで帰る途中、茫然としていた夏乃子の手を握ったのは燈彼だった。その手が妙に温かくて、妙に心が落ち着いて、燈彼は左手をミコトと繋いでいて、なんか親子みたいだとそう思った。

 行く先なんて何処にもない。

 自分には例え記憶があったとしても居場所なんて何処にもないと夏乃子は感じていた。

 燈彼の手が温かった。

 玄関に入り、燈彼の靴を見ると頬が緩んだ。

 いる……そう思うだけで胸は弾む。

 恋愛をしたいとか、デートをしたいとかそういうわけではなくて、交わりたいとかそういうわけでもなくて、ただ、ただ、視界の中にいてほしい。

 依存したいのではなく、依存されたい。

 あまり離れたくない。寝る時は隣が良い。朝起きたら目の前にいてほしい。ただなんとなく傍にいてそれが当たり前で、いないと心が寂しいと言って姿を探して視線を彷徨わせて、見つけると安堵して、私に対してそうあって思ってほしいと夏乃子は思う。

 燈彼にそうなってほしい。そして燈彼を見るたびに要求が膨らんでいく。

 私の顔を見ると緩んでほしい。ご飯を一緒に食べられないと言ったらショックを受けてほしい。朝目の前にいなかったら視線を彷徨わせて探してほしい。

 声を聴いてほしい。「あ」から始まり「ん」で終わるまでの言葉を、喉を振るわせる私の声を聴いて欲しい。

 心を取り出せたらいいのに。心を寄り添わせられたらどんなに幸せだろうかと、その感情はあまりにも一方的で拒否されたら悲鳴を上げてしまうかもしれない。

 きっと拒絶されたら我慢できないのだろうなと夏乃子は思う。

 きっと拒絶されたら、めちゃくちゃにしてしまう。それを我慢する気がない。

 ため息が出る。燈彼の顔を見ていると、ため息ばかり。

 初めて左手に触れようとした時、拒否された。

 燈彼は後ろへ下がり、手を引っ込めた。

 それがとても許せなかった。それがとてもじゃないけれど許せなかった。とても歯がゆくて許せなかった。ミコトとは握っていたのに。

 わからせてやりたい。お前は私の物だとわからせてやりたい。暴力だ。暴力でわからせてやりたい。

 そう考えて、自分がどういう人間だったのかを理解してしまった。

 金髪だった髪を黒く染め直した。長い爪を短く切った。

 つい先日、手や頬に触れても燈彼は嫌がらなかった。

 それが堪らなく嬉しい。もっと依存して、もっと私を求めて、もっともっともっともっと、それが良くない感情だと夏乃子は理解している。記憶があった時の自分はおそらくろくでもない人間だ。そして記憶が無くとも本質は何も変わっていない。例え今記憶が戻ったとしても燈彼に執着するのだろうなとわかってしまう。理由なんてない。燈彼に執着する理由なんてない。ため息ばかりが漏れる。燈彼から手を握ってほしい。恋人繋ぎしてほしい。

「ふぁ~」

 トイレから出てきたフローゼは頭を掻きながら川の字で寝る三人を見て、口をにんまりとさせた。

 おもむろに夏乃子の横、燈彼の横に入り込もうとしてくるフローゼに夏乃子は驚愕した。それはさすがに厚かましいし譲れない願い。

「入れて、入れてください」

 入り込もうとうとするフローゼに入り込まれまいと夏乃子は押し返し、フローゼは体重をかける。そっちに行けばいいでしょと夏乃子は梓を指さし、フローゼは夏乃子と梓の胸を見比べた。

「ないよりある方がいいです」

 ぶつよと拳を握る夏乃子となぜぇと疑問の表情浮かべるフローゼ。仕方ないと燈彼の上になろうとするフローゼに夏乃子は驚愕する。コイツマジコイツと阻止。

 厚かましいのよと夏乃子は表情で示しながら静かに、しかし確かに力強く抵抗する。

 しばらくの押し問答、プロレスをした後、フローゼは妥協して夏乃子の横へ移動した。

 ただでさえ体が痛むのに息絶え絶えとなり、お風呂に入ったのに汗かいちゃったじゃないと夏乃子は憤慨する。しばらくすると、うつらうつらと眠気もやってくる。

 夜は好き、もう少しだけ夜が長ければいいのにと思う。

 寝返りを打ち、顔も近くに、深く吐く息は少しだけ。

 どうすればもっと親しくなれるのかな。どうすればもっと仲良くなれるのかな。好かれるのかな。答えなどなくてただ毎日傍にいるしかない。ちょっとずつでもいいから、好きになってほしい。もどかしい。好かれているという実感もなく感覚もなく不安だけが燻るように心を焦らす。

 少しだけでも浸食したい。

 心の隙間に入り込みたい。

 ずっと夜のままならいいのに、寝ているあなたはずっと私の腕の中。

 次の日、こめかみを抑えるミコトに踏まれて、三人は目を覚ました。

「まだ眠いでーす」

 まだ二時間ぐらいしか寝てないと悲壮な顔を浮かべる夏乃子のことなど知らねぇとミコトは朝五時に皆を起こしてランニングを促した。

 梓だけは妙にツヤツヤしていて機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。

 走り終え、学校へダッシュ――電車の中でも授業でも夏乃子は寝不足で身が入らず船を漕ぎ、妙に元気なフローゼにいら立ちも覚える。

 放課後、今日は早く帰って寝たいと夏乃子はじっと燈彼を見た。賛同してほしい。

「じゃあ、夏乃子とフローゼは先帰って休んで。燈彼、アイスとたこ焼き食べに行こっ」

「Non‼ それはNonです‼ ミコトママンのご飯が食べられなくてもいいのですか⁉」

「はぁ? 少しぐらい買い食いしたってご飯は食べられるわよ」

『燈彼は?』

 いいえって言って。

 夏乃子は懇願するように燈彼を見た。燈彼はじっと夏乃子を見返し、頭にハテナを浮かべるだけ。ギリリッと夏乃子は奥歯を噛みしめた。そうよね、燈彼はそういう子よねと、寝不足も拍車をかけて目元もピクピクと痙攣する。

 夏乃子は燈彼の右手を強く握り、燈彼が痛がるのを見ると妙に心が晴れるのを感じた。

「あんた何やってんのよ、痛がってるでしょ」

「まるでDV夫のような所業でーす」

 夫という言葉に夏乃子は少し照れてしまい、そんな夏乃子を見て梓はあきれ、フローゼは燈彼に背後から抱き着いた。なぜ今の反応で燈彼に抱き着くのか、梓にも夏乃子にもフローゼの行動は理解不能だった。

 結局その日は夏乃子が強引に燈彼を連れ帰ってしまったので、大人しく家に帰り、燈彼の部屋の中でダラダラしたのだが、思ったよりも居心地がよく、チョコレートをつまみながら談笑、夏乃子は燈彼の膝の上に頭を勝手に乗せ眠り、そんな燈彼をフローゼが後ろから抱きしめ、梓も本を読みながら燈彼に頭を預け、燈彼はキョトンとして、部屋に入ってきたミコトをあきれさせた。

「お前たちは何なんだ。こいつは人を堕落させる置物かなんかか?」

「こうしていると妙に楽なのよね」

「こうしているととってもリラックスします」

『耳を、両手で、塞いでほしい』

「クソガキども」

 不思議そうに見上げてくる燈彼の表情を見て、ミコトは少しばかりやれやれと表情を緩めた。

「じゃあ、お前らはお汁粉なしな」

 ミコトがそう告げると三人は起き上がり燈彼を抱えて部屋を出、階段を下りて行く。

 ミコトはやれやれとゆっくり歩いて部屋を出た。

 エプロンには小豆の甘い匂い。さすがにちょっと甘ったるいなとミコトはエプロンをとり巻いて、ゆっくりとドアの閉まる音が聞こえた。

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