第6話 


 指定の場所にて♡。

 ☆Dead or Alive☆。

 夏乃子は資料を眺め、地図の傍に描かれたウズメのイラストに表情を濁らせた。

 依頼内容には地下にて終わらぬ戦いあり。適度に間引く事と記載されている。

 お勤めには常設と緊急の二つがあり、今日受けたのは常設のようだ。常設と言うのは常時設定された依頼であり、緊急とはその名の通り緊急の依頼の事だ。

 敵の情報などが一切記載されていない。

 常設の依頼と言うのは、所謂戦闘訓練の意味合いも兼ねていると夏乃子は思う。

 しかし兼ねているだけで定期的な対処が必要なのも見て取れる。

 先の緊急ではろくに動けなかったのを思い出し、少しばかり夏乃子は悩ましく思う。

 学校の説明は受けたし、ノロワレテイルの説明も受けた。

 なんなら戦闘訓練も寮長のミコトより受けている。

 しかしどうも学校側が意図的に必要の無い情報を言っていないのではと夏乃子は思う。初の御勤めが緊急であり、今回が初めての常設だからだ。

 情報が意図的に断片であり、必要以上の情報を提示しない。

 その理由もなんとなくはわかる。

 これら御勤めが命にかかわる仕事だからだ。

 お勤めを受ける本人たちはもちろんのこと、緊急では被害者がいた。

 下手をすれば命を失うリスクがあることを学校側は意図的に遮断している。夏乃子はそう考えている。ただ理由も理解はできる。命のリスクがあるからと言って、自分たちが嫌だと拒否できる問題ではないからだ。

 お勤めを行わなければ自身の呪いに蝕まれてしまうからだ。

 戻ることはできず、ノロワレテイルは進むことしかできない。

 だから彼らは、命のリスクがあることを意図的に遮断している。

 もっとも現段階においてお勤めにより命を失ったと言う情報は入っていない。むしろ逃げ出した生徒の方が多いぐらいだ。

 逃げ出した生徒について学校側は言及しない。

 彼らの提示した情報が正しければ、逃げた生徒は呪いに蝕まれていることになる。

 学校は強制も強要もしない。あくまで情報を提示し、本人にどうするかを選ばせる案を選択している。あくまでも自己責任。私達はそこまで面倒を見ないよと言っているのだ。

 それは優しくもあり、厳しくもある。

 彼らにそこまでする義理が、おそらくないのだろう。

 地図に示された通り、四人は学校を出て街の地下へと向かっていた。

 道路を横断するための歩道橋を渡り街中を歩き、屋台でクレープやたこ焼きを買い、舌鼓を打ちつつ地下歩道へ入る。

 たこ焼きの中心、タコを差しふーふーと息を吹きかけ、十分に熱を冷ましたものを夏乃子は燈彼に差し出した。しかしフローゼがクレープを口に無理くり当てており、燈彼はキョトンとしながら塞がれた口をもごもごと動かしている。夏乃子はフローゼを睨み肘でどけようと、フローゼはそんな夏乃子とのやりとりも楽しいと笑む。

 クレープがやっと離れたはいいけれど、燈彼の口周りはクリームがべったり。

 燈彼の口元についたクリームが垂れそうで、梓は指でそれをすくって口に含んだ。

 地図通り指定された階段を降りるとほどほどに広い道とフロアが広がっており、支える支柱の周りにはソファーまで用意されているのに人通りはまったくと言うほどない。

 電灯の明かりはこうこうと、それが余計に静かさを伝えてくる。

 タコ焼きやクレープを頬張りきって、空を備え付けのゴミ箱に捨てる。

 ゴミ箱から覗く新聞紙には三十年前の日付が綴られていた。

 人気がない。街にはほどほどに人がいるけれど、地下にはまったくと言っていいほど人気がなかった。道路には普通に歩道橋があるので地下横断歩道を通る理由もない。

 タバコの匂いにふと気づく。どこからだろうと梓が周りを見回すと、一人の女性が扉の横の壁に寄りかかりタバコを吸っていた。

 梓はタバコの匂いを避けるように口に手を当て、そして燈彼の口にも手を当てる。

『ちょっと‼』

「タバコの匂い‼」

「あら、ごめんなさい、タバコは嫌いだったかしら」

 女性は余裕を持った笑みを浮かべ、タバコを咥えて両手を自由にすると梓たちを歓迎するように両手を開いた。

「いらっしゃい、学生よね。新顔? 新入生かしら、ここは初めて? ここが入り口よ」

 女性は隣の扉をこんこんと叩く。

「そこが御勤め先のStart lineですか」

「正確にはこの中にあるわ。入りたかったらどうぞ」

『あなたは?』

 ずいっと一歩前に出て、夏乃子は女性を睨みつける。

「私? 私は門番みたいなものよ。名前はサグメ。よろしくね。ここを利用するなら私と顔を合わせる事になるから、色んな私に会ってね。ハグもいいわよ。いつでもどこでも歓迎するわ」

「ハグもOKなのですか?」

「あんたハグに反応しないでよね」

「Meはハグ大好きです。I love」

『Please Excuse me』

 せっかくだけど。

「遠慮しなくていいのに、ふふふっ」

 フローゼはハグという言葉に反応して身を乗り出し、そんなフローゼを見て梓はあきれる。夏乃子は別にという顔をし、燈彼はぼんやりと、サグメはそんな燈彼の様子を見て少しばかりの苦笑いを浮かべた。その瞳は何とも悲しそうで、涙が溢れそうなのに、彼女の瞳から涙が零れることはなかった。サグメは燈彼の腕を掴み、指の間に指を通す。腕を引いて抱きしめて、夏乃子の顔は引きつった。せっかくだけどと言ったはずだ。

 燈彼はサグメの胸に埋もれ、カチリ、カチリと音を聞いた。規則正しいその音はゆりかごのように心地よい。しかし腕を夏乃子に引かれて引き剥がされる。

 あまりに強引に引かれたので燈彼はよろめいてしまった。しまったと夏乃子は思ったものの体で燈彼を支える。燈彼の重さがあまりに無いので、軽いと素直に夏乃子は思ってしまった。

『行きましょう』

 夏乃子は燈彼を自らの隣、サグメから隠すように遠ざけるとサグメを睨みつけるように隣を通り過ぎる。

「À plus tard」

 フローゼはそう言い、夏乃子の後ろを歩きながらサグメに対して手を振った。

「See you later」

 最後に梓が隣を通り過ぎ、手を振られ、第一印象としては悪くなかった。理想のお姉さんとはあぁ言う感じなのかもしれないと思う。

 扉の中に入ると、そこには上下に続く階段があった。

 無骨な金属で出来ており、緑のペンキが塗られている。一見するとただの非常階段に見える。

『上? 下?』

 夏乃子が疑問を浮かべてそう呟くとフローゼは中央の手すりより、顔を覗かせ上を見たあと下を見、隣に来た梓は下を見た。燈彼は前を見ている。

「普通に考えれば下じゃね?」

 上が道路である事を考えれば下に降りるしかないと梓は思う。

「エンドレス。アップもダウンもできます」

『とりあえず、下へ』

 連れ立って階段を降りる。

 金属で出来た階段、隙間からは下が見え、四人の足音が反響する。

「わたし、こういうの、Likeです。とってもドキドキします。はぁ……たまんないです」

「あんたってさ、時々よくわからない言葉喋るわよね」

「そうですか?」

「さっきもなんか言っていたけど、全然わかんなかったわ」

「またねという意味ですーよ」

『あなた、それで良く、英語を、教えると、言えたわね』

「いや、コイツが言ってるの英語じゃないでしょ。」

「フィランス語ですよ」

「う~わ。あんたってフィギリス人なの? フィランス人なの?」

「はら~わたしって何処の人なのでしょう」

『ファメリカ人でしょ』

「あんた会話だけで出身がわかるわけ?」

 階段を下りるたびに四人のスカートが揺れる――黒いタイツとショートパンツ、スパッツが現れては消える。

 三人の談笑は楽しげで止まらない。燈彼はそんな三人の声からなる音楽に耳を澄ませていた。

 三人の様々な表情、少し笑顔だったり、嫌そうだったり、それでいて喧嘩ではなくて、言いたい事を言い合える関係というのか、燈彼はそんな三人の関係を見ていると胸の内が温まるような感覚を覚える。それは嬉しいと同時に少し苦しい。

 階段の終わりは唐突に現れ、非常口と書いてある青い電灯の下には扉があった。体感的にはかなり地下へと降りていた。

 開けるしかないので夏乃子はドアノブに右手を添えて、隣の梓はゴクリと唾を飲む。夏乃子は燈彼の手を握り、梓は夏乃子とは逆の位置を取る。

「ドーン‼」

 ドアノブを回す様子をフローゼはにやにやしながら見ており、開くのを確認するとフローゼは三人を勢いよく押し出した。

「ちょっと‼」

「いたたっ。フローゼ‼」

「いひひっ」

 そこは開けた場所だった。地下であるはずなのに空があり、夕焼けに似た日の光と大きな雲の漂う、蝉の鳴き声が聞こえてきそうなジリジリとした空気の満ちている場所だった。

「へ?」

 梓は目を丸くした。地下に入ったと思ったら夕日の中にいたからだ。

 目の前の光景に三人は言葉を失いかけた。

 今は確かに夕方だが、これほど明るくはなかった。

 開けた平地……骸骨と骸骨が戦っている。骸骨に混じり黒い小人のような生き物も見え、もし戦場に罪があり、その罰があるとするのなら。

 骸骨は骸骨に打倒され、崩れてはまた起き上がり、錆びた武器や鎧を手に骸骨を打ち倒す。

 骸骨という躯な体には真っ黒で大きなムカデや蜘蛛が這い、飢えからなのか、獲物を探すように忙しなく動く。

 倒されては起き上がり、倒されては起き上がり、やられてはやり、やられてはやり返し、もはや敵が誰なのかも、どうして戦っているのか、彼らにはどうでもいいことのように見える。

 我に返った夏乃子は辺りを見回し、燈彼を視界に収め、傍により、背後に囲う。

 もし生きた人間同士の戦いだったならば迫力や勢い罵声や大声、生ある者の戦いに気圧されていただろう。

 しかし、そこで戦っている者はみな、音が弱かった。

 轟轟という空の音とジリジリと体を焼く異様な熱。

 終わらない夏を願った悪夢を見せられている。

「なにここ……」

「御勤め先ですーよ。ウェルカム‼」

「声でか‼ 気づかれたどうすんの‼ そんなの知ってるわよ」

『どっちの味方をすればいいのかしら』

「どっちったって」

 二つに分かれ戦っていた骸骨達は、一斉に四人を見た。

 生ある者が来たと、戦え、戦えと、生ある戦いをしろとカタカタと骨が鳴る。

「グゲゲゲゲ」

 黒い小さな小人のような者が駆けてくる。やけに黒い肌、頭の天辺は剥げているのに、左右は剥げておらず、お腹は膨らみ、長く欠けた爪を振り上げて駆けてくる。

「ちょっと……」

『梓、武器を構えて、梓、ふろー……』

 上手に文字が打てない。緊迫して音を出せないもどかしさ。

 夏乃子が言葉を紡ぐよりも早く燈彼は駆けだしていた。

 それは梓が他の二人を背後へ押し出して扉の奥に戻るのとほぼ同時だった。閉じられた扉の中、非常階段で三人は顔を見合わせる、燈彼だけがそこにいない。この馬鹿と言わないばかりにすぐさま夏乃子は振り返り扉を開け、梓が弓を取り出して飛び出す。

 駆けだしている燈彼の後ろ姿。翻るスカート、足の陰影、揺れる髪、抜き出された包丁の、黒い刀身の鈍い光。小人は燈彼に対自すると飛び掛かった。

 飛ぶと言うのは慣性が限られる。何を振るう、両手の爪か、それとも歯で噛むのか。

 交差する。こちらに有利な攻撃を繰り出すだけ、爪に対して有効な攻撃は何か、歯に対して有効な攻撃は何か、あとは動作するだけ。

 逆手に持った包丁がきらめき、小人は斬れて地面に転がった。

 包丁に付いた黒い血を見て、燈彼は、小人の血って黒いのだと、なんとなくそんな感想を思い浮かべた。

 黒くて、粘り、そして冷たい……死骸がまるでコールタールのようになり溶けて広がって、元が小人だったなんて、これを見て誰が想像できるだろうか。

 次々に押し寄せる亡者の群れ、群れ、群れ、首を傾げる燈彼のすぐそばを矢が通り過ぎる。

 立て続けに射られた矢は迫りくる骸骨を粉砕した。

 ぼろぼろの鎧にも満たない鎧をまとった骸骨達、そうまでして戦わなければならないのか、そうまでしてどうして戦わなければならないのか。

 きっと意味などないと燈彼だって思う。

 それが兵どもの夢の跡という名の悪夢なのだから。

 夏乃子は駆け蹴りを振るう。

 その顔色からは緊張が見て取れた。怖いのだ。骸骨が、ではなく、足を使うのが、だ。

 煤けた槍を持った骸骨が繰り出す突きを左へかわし、裏回し蹴りを叩き込む。

 隣には燈彼がいた。

 ダークブラウンの瞳は戦場に立つと赤黄金色に変わる。風が吹く、追い風が、燈彼にまとわりついてくる。

 助六刀の反りで骸骨の頭を打ち砕く。

 フローゼは右手に聖者の行進を持ち、息を吹きかけると先端の金属は真っ赤に染まった。振るうとするりと柄は伸び、先端から帯びる熱が空気を歪ませる。

 良い匂い。良い匂いだとフローゼは笑みを浮かべた。

「フローゼ‼ 範囲には気を付けてよ」

「Yes。わかっていまーす」

 こまごまと小さな動きで骸骨を粉砕する夏乃子と燈彼とは違い、フローゼは荒々しくライオンのように髪を振り乱し、体からは火の粉が舞った。

 持った焼き鏝で骸骨を打ち壊す。空気は炎の渦を巻き円を描いて上昇する。

 あっつと夏乃子は顔にかかった熱を手で遮った。

 うち漏らした骸骨に、無数の矢が刺さってゆく。

 梓の髪の中から蜘蛛が世界を覗いている。ツインテールの右の中は真っ黒く染まり、中から巨大な蜘蛛の足が一本覗き来る、弓に弦を、そして梓の手に矢を授ける。

 その異様な矢の形、髪の隙間から吐き出された矢は黒く、先端はモーニングスターのように丸く尖り重い。

 梓が弦を引くために力を込め、やすやすとは引けない弦に強く奥歯を噛む。

 キリキリと力を込めるとコメカミに血管が浮き、梓の腕は筋肉が張り詰めて震えていた。

 コイツ、あたしを使うのか。

 自分の体を自分の限界を超えて酷使される感覚。

 かみ殺した悲鳴、背筋、モモ、張り詰めて、痛い。

 なによ、あたしを操ろうと言うのか。

 髪の中から伸びてきた八つの足は糸を使って、梓の体を操り弓を促す。

 射て、射る、射るの。射るのよ。

 人差し指と親指だけでは引けないと、糸は五指に絡みついて弦を引き絞る。

 視界のすぐ隣で異常なくらいしなる弓は梓にとっても怖ろしく見え、指の間にすっぽりとくっついた矢の柄を右手はさらにひねり上げる。

「ふっふぐぅ」

 変な声が出たと梓は思ったが、体全体にて弓を引いているため気にする余裕はない。

 ぎりぎりまで張り詰めて――指から放たれる。反動が腕から体を通り、足を伝って抜け、放たれた矢は容易に骸骨の体を粉砕し粉々にするどころか背後にまで抜け、地面を穿つと土埃が舞った。

 まるで大砲のようだ。一発放つたびに重心を保とうとよろめき、足を踏ん張るたびにこの矢を撃つのは嫌いと素直に思う。

 体の節々からやってくる痛みを本能がそして理性も拒絶する。

 拒絶するけれど引くのをやめない。抗うと筋肉に激しい痛みが走り、矢はあらぬ方へと飛んでいく。

 コイツ、わざとやっていると梓は奥歯を強く噛んだ。

 抗えば味方を射るぞと脅されている。私はそれでもかまわない。お前が邪魔をすればするほどに射線がずれるぞと脅されている。

 頼むから味方にだけは当てないでよとも思いそれだけを回避するために力を込める。

 燈彼が動く。まるで波のような動きで上下し、左右に揺れ、包丁の鈍色が残像を生み夏乃子の目に歪な線として宿る。その動きは獣のようでありながら、人の構造の限界を引き絞っているのかのようでもあった。

 すごい――夏乃子にはそれ以外の言葉が見つからない。

 どれくらい打倒しただろうか。どれくらい終わりを与えただろうか。

 血のように広がる黒い沼は汗のようにべたついて、皆無言で襲い来る者達を打ち倒していた。

 斬れぬ刀を当てられて、夏乃子の肩は痛んだが、骸骨自体に切断するほどの力が存在していなかった。それでも戦うのをやめられない。肉がなくなって骨だけになっても、愛する人が誰だったのかわからなくなっても、それでも戦うのをやめられない。

 彼らはきっと擦り切れて擦り切れて擦り切れて擦り切れきれるまでここで戦い続けるのだろう。

 降り積もったがらくたと骸骨の山の中――空があるはずもないのに空は紫と夕焼け色を灯し続ける。その光景の中、佇む燈彼を見て、この光景が見られるのなら体が痛むのもかまわないと夏乃子は思ってしまった。

「これで一段落かしら……」

「ふう、いい汗かいたデース」

 梓のスマホが鳴り、スマホの画面を見、そして皆に向ける。

 二十一時四十五分の音に気づく。

 入ってきた扉を通り階段を上り非常口から外へ。外にはタバコを吸うサグメがおり、四人が出てくると口からタバコを離してにんまりと笑みを浮かべた。

「おかえりなさい。頑張ったわね。お疲れ様」

「そりゃどうも」

 梓は平静を保って答えたが体は悲鳴を上げていた。

 弓を番う手は弦により切れ、腕や足の筋肉は細かく傷つき、蓄積された疲労は痛みを伴って梓の動きを阻害する。

 あの威力を放てるのだ。無理もするわと梓は自分に嘯く。

 フローゼは燈彼を背後から抱え、出てきて夏乃子は渋い顔をした。

 フローゼに離れるように言ってやりたいが、一番活躍したのはフローゼなので言うに言い出せない、もどかしい。

 ウズメがタオルを差し出してきて初めて、三人は自分たちが汗と泥と血で汚れているのに気が付いた、受け取りながら梓は渋い顔をする。スンスンと鼻を鳴らし、自分の匂いを確認してしまう。そういえば痛い箇所があると、思い出したように体を確認し、身に覚えのない傷に顔をしかめる。

 その様子を見て、サグメは少しだけ面白そうに笑った。

 思ったよりも疲れている。思ったよりも実は緊張していた。思ったより負荷を感じる。思ったよりもお腹が減った。

 息を吐くとどっと疲れが出てきて、通路内になぜソファーがあるのかよくわかってしまう。

 燈彼を連れ歩こうとするフローゼに対して夏乃子が梓に目で合図する。なによって顔をする梓は、気だるそうにする夏乃子を見てその理由にすぐに気が付いた。

「フローゼ、ソファーに座っちゃだめよ。座ったら寝るわ。こんなところで一夜明かしたくないでしょ」

 ソファーに座ったら家に帰れない。現在二十二時だという事は終電の二十三時の電車に乗らなければ帰れない。逃したら寮へ帰れなくなる。タクシーを拾えばいいだろう、学校に送って貰えばいいだろう、ミコトに迎えに来てもらえばいいだろう、その辺のホテルに泊まればいいだろう。無数の選択肢は確かにある。

 確かにあるが一番安らげる場所は寮だ。

「Oh……」

「緊張したの?」

 サグメが話しかけてきたけれど三人は疲れており、ゆっくりと相手をする余裕はなかった。

 燈彼を抱えるフローゼとよろけたフローゼによって燈彼が傷つかないか心配する夏乃子、それを少し離れて見ている梓。

 歩き出そうとする梓に対してサグメは封筒を渡した。

「これ、今日の報酬、またお金が欲しくなったら挑戦してね」

 封筒の厚さを見て二人は顔をしかめ、フローゼは目を細めて、燈彼は首を傾げた。

「今日は早く帰って、お風呂入ってしっかり寝なさいね、明日起きれないでしょう?」

 なんて嫌な言い方なのかしらと、明日の早朝マラソンを想像して梓はげんなりとした。

「ほら走らないと終電に間に合わないわよ。二十時を過ぎたら一般では補導の対象よ。何をしているのか聞かれたら御勤めと答えなさいね」

 一般では補導の対象。二十時を過ぎて夜の街にいれば警察に職務質問されてしまう。

「急ぎましょう」

 梓の声で駆け出し。

「See you later」

 サグメに手を振られた。

 終電に駆け込んだ時にはぐったりと、まばらな人がおり、みんな疲れてぐったりとしていた。そんな中に共感も覚える。

 今日も頑張った。今日も頑張ったのだと周りでぐったりとした人々を見て、梓は心の中でお疲れ様と呟いた。一日戦った。一日乗り切った。後は帰って休むだけ。緩みもするよね。

 席に座ると柔らかいやら温かいやら、ゆっくりとしかし確実にダイヤを守る電車は揺れてまるでゆりかごのよう。

 座っていると何度か足元が広角になり、そのたびに梓は夏乃子の足を蹴って夏乃子も梓の足を蹴った。一方で燈彼の足だけは絶対に開かせないと夏乃子は燈彼の足だけは手で押さえていた。

 フローゼはそんな二人を見て、少し笑ってしまう――スパッツだしタイツだし見られても問題ないのにと、きっと二人にそう言えば、そういう問題ではないでしょうと答が返ってくる。その答えがたまらなく好き。

 無遠慮だけれど慎ましい。この二人の女の子をフローゼは好きになっていた。もちろん隣でぼんやりとしている燈彼の事も好き。きっと誰一人欠けてもこんな気持ちにはならないのだろうなと、なぜこんな気持ちになるのだろうとフローゼは思う。

 かつてこのように仲間だった人たちがいたのだろうかとフローゼは思うのだ。懐かしさにも似て痛みにも似て、それは一体どこにあるのかと記憶の中をすり抜けてゆく。

 思ったよりも疲れていて、思ったよりも体が痛くなってきて、緊張がほどけるほどに痛みも倍増し思ったよりも興奮していたと自覚する。

 燈彼だけはいつも通りぼんやりと、窓の外、夜の景色を見ていた。

 オレンジ暗いトンネルの中、線路は切り替わり、トンネルを抜けると真っ暗闇に包まれて近くの駅に止まってわずかな人々が乗り込んでくる。みんな疲れた顔をして燈彼は三人を見て他の人を見てなんだか幸せな気持ちになった。

 みんなお疲れ様。頑張ったんだよね。今日も頑張ったね。

 やがて誰も人がいなくなり目的の駅へ到着すると三人は体に鞭を打ち電車から降り、電車は何処か闇の中へと消えてしまった。

 動きたくなくて歩きたくなくて、電車が目的地についても体は緩慢に動作し、三人はホームのベンチに座ってしばらく動けなかった。

「なんだお前ら、その体たらくは」

 迎えに来たミコト。少女ミコトが赤い傘を回しながらやってきて、三人はその表情を見て幻覚が見えると、幻覚じゃなさそうと少しの安堵と気だるさも覚える。

 改札を抜けてやってきたミコトは缶を差し出し、温かいお汁粉の文字、なんでお汁粉なのよと夏乃子は不満に思いながらも、喉に入るのなら何でもよいと受け取った。

 不満に思いつつも、何でもいいから摂取したいと体は言い、缶の蓋に爪を立て、指の筋肉痛に顔をしかめる。クソッと悪態をつきたいところだが、さすがに言葉が汚すぎる。指が上手に動かなくてもどかしく、それを見ていた燈彼が自分の開けた缶を差し出してきて、夏乃子は口を半開きにしてしまった。ありがとうと笑みを浮かべると、燈彼もにこっと笑みを浮かべた。

 握った缶の温かさと開いた缶の口から洩れる湯気。

 湧き上がってくる湯気と、吸いこむほど甘く感じる餡子の匂い。

 喉を鳴らし唾を飲んだ梓は、缶を受け取るのと同時に封筒を少女ミコトへと差し出す。

 ミコトは封筒を受け取ると封筒の中身を確認し少しばかりの笑みをにんまりと浮かべた。ご苦労様と小声で言った後、封筒を着物の袖の中へとしまいこむ。

 梓は受け取ったお汁粉の蓋を開け、一口をコクり、甘くて粒粒していて缶のお汁粉なんて飲んだ事なかったけれど、意外と美味しいと口の周りに付いたお汁粉までペロリと舐めてしまった。

「Very sweet」

 フローゼは一気に飲み切ると、口の周りまで嘗め回してしまう。

「This……これ、What is this? なんですか? Liking? Vest choice?」

「あ? 好みって事か? これはお汁粉だ。本当はもっとおいしいんだぞ。いや、これでも十分美味しいんだがな、餅が入るともっとうまいぞ」

「わたし、これ、like‼ Very likeです‼ Omoti? なんですかそれ⁉」

「落ち着けって、まぁ俺はお汁粉も好きだが、餡子と生クリームの合わせも捨てがたいな」

「私‼ 食べたいです‼ それ‼ ください‼ プリーズ‼」

 フローゼが身を乗り出してきて、ミコトは身をのけぞらせた。

「興奮しすぎだ。落ち着け」

「お願いです‼ Plz(Please)‼」

「わあったわあった。今度作ってやるよ」

「絶対ですよ‼ Promesse‼ Espoir‼ あぁ、待ち遠しいです。絶対ですよ⁉」

「そりゃフィランス語だ。わあったよ」

『それ、わたしの、ありますよね』

「わかったよ夏乃子、ほれ、帰るぞ」

「私今日頑張りました。おぶってください‼ Mama」

「誰がママだ。重いんだよ、寄りかかんな。ほれ、帰るぞ」

 四人は連れ立って歩き寮へと帰った。気が緩んだ帰り道。まるで子供に戻り迎えに来た母親と手を繋いで帰っているかのようなそんな感覚に囚われる。それは決して悪いものではなかった。

 寮に戻るとまっさきにお風呂、なぜ三人でお風呂に入らなきゃいけないのよと、小さいお風呂で梓はぼやいてしまう。

 恥ずかしいという気持ちはあるけれど今更という気持ちもある。それよりもなによりも疲れていてからかう余裕もない。三人同時でなければ待っている人から寝てしまうだろう。それも理解できる。

 お風呂から上がると体はいよいよ緩みに緩みきり、寝間着に着替えて居間に行き、夜ご飯を食べながら船を漕ぐ。

 ゆらゆらして微睡み、眠っているのか起きているのか、ゆっくりこっくり。零れそうなお米を口に含み咀嚼する。

「早く食っちまえ、燈彼ちょっと来なさい」

 燈彼がミコトの傍に行くと、ミコトは燈彼の手を引いて六畳の部屋に入った。

 桃の匂い。浄化布を交換する。

 足元には無数の布が落ちていて、ひどく桃の匂いがした。

 真ん中に立って服を脱ぐ。ミコトが顔の布をゆっくりと剥ぐと、布の下はひどくひどく痛んでいた。

 ミコトはその痛んだ左頬に手を当てて愛おしそうに撫でる。

 濁った水色の左目はヒスイのように。歪なようにも見ようによっては宝石のようにも。

 桃の匂いのする液体で体を拭われ髪を綺麗にとかされる。脇も足の裏も、すべて、すべてが桃の匂いに包まれて、燈彼はゆらゆらとした。

「さぁ、張り替えるぞ」

 目を閉じて、痛みと淀みと蝕みに耐える。

 呪いを受け入れ呪いに蝕まれ、それでも耐えるのはきっとそれが正しいことだから。

 夕食が終わったら就寝、夜中の一時半を回っていた。

 騒がしいものなどほとんどありはしないというのに夜の音がする。

 地鳴りのような音が耳の底で静かに。

 居間から出て隣の階段を上り、四人はそれぞれの部屋の中へと入り、そして倒れ込むように横になった。

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