第5話 


 空が白ばみ始める。

 ミコトはエプロンの紐でタスキ掛けを行い器用に着物の袖を結わえて整えた。手で伸ばしたフリル付きのエプロンは黒色よりもっとも遠く皺ひとつなく伸びてゆく。ゴムで髪を縛り。

 手を添えて開いた窓、差し込む光はまだ青く、肌寒さに眉を顰める。

 水道のハンドルを手の甲で下へ押し、流れ出してしばらく、すすがれた手、持ち添えられた鍋の中にはゆっくりと渦が作られた。

 ガスコンロのツマミを捻り、火花を散らす音、何度か響くと安定し、揺れる水がコトリと。

 少女は台所に立っていた。

 立てかけられていたまな板と包丁は流れる水にて刹那に拭われ、取り出された大根もまた然り、葉と茎、根を切り分け透き通り、雑多に刻み(きざみ)ゆく。

 適度に上下されるハンドル。

 鍋の温水で泳ぐ昆布はさっと。

 酒升に拾われた米粒は芳(かぐわ)しく、目線にあわせた升と閉じた目、少し開いた口より深い息が零れ落ちた。

 傾け揺すられきられてしばらく、日本酒、酢やハチミツ、泳いだ昆布と一緒に釜の中へ。

 赤子泣くとも蓋取るな。

 沸騰したお湯の中ではしゃぐ大根と葉、おさまり広がる湯気と覗く味噌の濁り、小皿によそった汁を一口。炊けたご飯をしゃもじできり、ほんの少しを摘まんで一口。鼻孔に広がり舌で歯を舐め、満足そうに少女ミコトは微笑んだ。

 次いでおかずとお弁当を作りはじめる。

 ついつい料理には夢中になってしまう。出来たお弁当を眺めながら良い出来だとミコトは満足そうに頷き、時計を眺め、そろそろ起こしに行きますかとミコトはエプロンを取った。

 サンダルを履いて扉へ。

 隣接する少し錆びれたアパートの階段をパタパタと上り、一室の扉を開ける。サンダルを脱いで部屋の中へと入り、居間の様子を見てミコトはため息を飲み込んだ。このクソガキ共はなぜ自分の部屋があるのに他人の部屋で寝ているのか。

 息を吸い。

「おら‼ おきろクソガキども‼」

 ミコトの乱暴で乱雑な言葉遣いは容姿に反し、目つきと共に悪く響き渡った。

 床にごろ寝していた北条梓はその声に驚きその場で飛び起きる。

「え⁉ 時間⁉ 遅刻⁉」

 彷徨わせた視線と急いでポケットのスマホを手に、時間が午前五時を指しているのを確認して肩を落とした。

「寮長、まだ五時ですよ……」

 勢い良く開かれるカーテン。

 差し込む日差しは白く、反射する漆黒の髪、流す眼差(まな)しは赤金色(あかおうごん)、八重歯は長く、青ではない光にミコトの小豆色の着物が鮮やかに栄える。

 困った奴らだとミコトは腰に手を当て三人を見下ろしていた。さてどうしてやろうかと考え。

「てめぇらはまた燈彼の部屋で寝やがって」

 ふかふかの低反発カーペット、足の裏からでも寝心地の良さが伺えて、何度か踏み踏み、そのまま転がっている少女の一人を無造作に足で小突いた。

「えぇ……グリンピースは嫌いだっていったのに。I hete――」

 お腹を小突かれ寝ぼけた金髪の少女フローゼはそう呟いてぼんやりと起き上がる。

「フローゼ寝ぼけてんじゃねぇ‼ I don‘t likeぐらいしとけよ‼」

 そんなフローゼとミコトの様子を隣で眺め、梓は苦笑いを浮かべながら眠そうに胡坐をかく。流れる血をそのまま固定したかのような長い髪、血液を固めたかのような赤い瞳が梓を印象付けている。

「何笑ってんだよおめぇわよ。カラコンしながら寝てんじゃねーよ。このドブスが‼」

 ブスと言われて梓の瞳孔は開いた。

「ブスじゃない‼」

 寝ぼけて彷徨うフローゼと。

「寝ぼけてんじゃねぇ」

「あうち‼ What⁉ 私のヒップ蹴ったのWhoディスカ⁉」

 燈彼に寄り添い眠る夏乃子。

 もう少し眠らせてと梓は横になりミコトはそんな梓を踏みつけた。

「ぐぇええ⁉ なんで踏んだの⁉」

「起きろっつってんだろ」

「起こし方ぁ⁉ 起こし方⁉」

「ぴーぴー喚くんじゃねーよ。お前、さては陰毛まで真っ赤だろ。てか夏乃子おめぇ、腹の肉が付いたんじゃねーか?」

「それセクハラですよ‼」

「セクハラの意味調べてこいよなバーロ―」

「バーロ―⁉」

『デブ⁉ ちょっと‼ 足で、お腹突く、やめて‼ 年下、呼び捨て、しないで、ください‼ 親しき仲、礼儀あり‼』

「年上だっつってんだろ。言葉使いに気を付けれよ。つうかぁよ、おめぇら男女で雑魚寝るんじゃねーっつってんだろ‼ なんでスカートで寝てんだよおめぇ‼ パンツ見えんだよきたねぇーなぁ」

「汚くないんですけど‼ 綺麗なんですけど‼ パンツ汚くないんですけど‼」

「ドブス。てめぇの部屋は三つ隣だろ」

「ブスじゃない‼」

「てめぇもだよ‼ 夏乃子‼ このデブ‼ 起きろ‼」

『デッデブ⁉ また? またデブッて言いました⁉』

 夏乃子はデブと言われて起き上がり顔を引きつらせ、スマホを操作、画面をミコトへ向けると音声が発せられる。

「そうだよデブ‼ 燈彼も起きな」

 ミコトは向けられた夏乃子のスマホをうっとおしそうに腕で反らしながら、燈彼の頬に手を当てた。

 燈彼は目を開けてミコトを見返し、ミコトの目が燈彼の目を見て、燈彼の目の中にミコトが映り、ミコトの目の中に燈彼が映る。燈彼は起き上がりととんび座りをし、首を傾げて、脱力した体にダークブラウンと少しのくせ毛がふわふわと流れる。

 冷たい頬だ。

 触れている頬を温めるようにミコトは優しく燈彼を撫でていた。その様子を見て夏乃子は少しばかりのイライラを募らせた。

「朝飯前に少し走るぞ」

「ええぇええ‼」

「えぇええ⁉ じゃねーよ。40秒で支度しろ‼」

「せめて顔を洗う時間を」

「つべこべ言ってんじゃねーよ‼ おら準備しろや‼」

「あうち‼ どうしてミーのお尻をキックするの⁉」

「でけーからだろ‼ 尻でか‼」

「そこはBustです‼」

 ここはノロワレテイル市。

 日本の首都東京とは関係の無い何処かにある街。

「おら、きりきり走れ、おらっいっちに、いちに、いちに」

「一人だけ自転車⁉ 寮長ずるじゃん‼」

「てめぇ、まだ余裕あんな。もう五キロ追加‼ 夏乃子‼ これで少しは痩せろ」

「What warning with you‼ 運動は苦手でーす。梓を怨みまーす」

「なんでわたしなのよ‼」

『ぁ⁉ あたし、そんなに、太ってない‼ 失礼‼』

「ウソでーす‼ I know……2g太ったの私知ってまーす‼」

『フローゼ‼ 怒るよ‼ 燈彼、聞いてる⁉ 違うから‼』

「きりきり走らないと朝食が食べれないぞ」

「What⁉ そんなのイヤでーす」

 走り終えたのが午前七時。お風呂に入って汗を流し、制服に着替えて朝食を食べたら午前七時半、休む間もなく駅までダッシュ。パンを咥えていないので運命の人とぶつかり合う事も無く駅構内に滑り込み、地下鉄(地下鉄道)に乗り揺られる事十五分、駅を降りたらまたダッシュで学校へ。商店街を抜け橋を渡り坂を駆け上る。

「ぜぇっ。ぜぇっ」

 おかしいな、汗は流した、はずなのに。

「毎日毎日、朝から走るなんてナンセンスデース」

「あんたは胸がばるんばるんするものね」

『それ、ひがみ?』

「ちょっと夏乃子⁉ 喧嘩売ってんの⁉ 買うわよ⁉」

 やっと校門に着いた時には、息も絶え絶えだった。


 国立ノロワレテイル学院高等学校。

 白いワイシャツに真っ黒い制服、黒いタイツは180デニールと黒い手袋を着用するのが正装。すべて学校から支給され着用する義務がある。

 男女とも黒いネクタイが採用され、基本的には着崩さないが、そこまでうるさくない。

 実際梓とフローゼは着崩し、ワイシャツをスカートに入れてはいなかった。

 燈彼はミコトに着付けられしっかりと制服を着用し、夏乃子はしっかりと制服を着用してはいるがネクタイは崩していた。

 校舎とざわめきと、ロッカーと階段、指定の教室とクラス。

 窓際の前から4番目が燈彼の席――隣には夏乃子が座り、後ろにはフローゼ、前には梓が座る。基本的に席は何処に座ってもかまわない。

「あーだるいわー」

 赤い髪をツインテールにした梓は棒突き飴を咥えて気だるげそうにしていた。実際朝から走らされて体はだるいし筋肉も痛み酸素不足で頭も重い。それでも適度な運動で冴えてはいた。

「梓はいつもそう言いまマスネ」

 燈彼の机に腰を下ろしたフローゼは荒々しいブロンドの髪を指で整えはじめる。

 後ろを向きかけた梓の視界にフローゼの豊満なボディと紺碧の瞳が目に入り、梓は余計だるいと机に突っ伏した。自分と見比べてだるいし、想像するのもだるい。だるだるだるだる。

『燈彼、スカート、乱れていてよ』

 夏乃子はスマホを操作し、優しげな表情で燈彼のスカートを直した。

「Hungry……。はぁ……ミコトママンの料理は世界一デース。早くおうちに帰りたい。ママンにあーんしてもらいたいデース」

「あんた和食好きよね。て言うかあーんしてもらったことないわよね」

「ノンノン、私が好きなのはマンマの料理です。燈彼もマッマの料理が好きですよねー」

 フローゼは笑顔を浮かべながら燈彼の頬を二、三度指で突き、ちょっと、触らないでと夏乃子が顔を引きつらせる。それを見ていた梓はだるすぎあんたらと頬杖をついた。

 毎度毎度同じやり取りをするものだから、ループしているのではと梓は勘ぐってしまう。実際にはそんなわけもなく、同じようでも毎日少しずつ違っている。

 予鈴が鳴りしばらく、そろそろ本鈴もなりっなった。

 スライドしたドアの音、教室中に鳴り響き注目を集める。

「はーい、みんな、席に付きなさい。先生が、今日のホームルームをはじめちゃうぞ☆」

 茶髪の女性が教室へ入ってきて教卓へと付いた。

 背が高くすらりと伸びた脊椎のライン――口元の黒子(ほくろ)、儚げでありながら、近づけば決して触れられないようなそんな雰囲気を漂わせている。その癖口調は砕けておりふざけているようにも見えていた。

 この地域は晴れの日が年間の三分の一しかない。

 天井からは外の光だけが落ちてくる。

 窓の外に見える景色、これから訪れるだろう暑さを想像し桜も春もそこそこ、梅雨と夏の到来が見えはじめていた。

「さぁ、みなさん、みんなのアイドル、ウズメちゃんがーーっ今日の予定を発表しちゃうぞ☆ きゅるるんるん♪」

「きっつ……」

 見た目とのギャップに梓は思わず声を漏らす。

「こらそこ☆ ちゃんと先生の話を聞かないとダメだぞ☆ もうすぐテストだから、みんな気を抜かないようにね☆」

『どうしよ、私、涎、垂れそう』

「Oh‼ Very Cute‼ 先生、今日も素敵‼ ワンダフォー‼」

「ありがとうフローゼちゃん、先生も先生の事とても素敵だって思うわ☆。そう、あれは……」

 朝の挨拶もそこそこ、時間は過ぎ、一時間目の授業を受け持つ教師が困りながら扉の前でおろおろしている。通例になりつつもあり、だるくもあり、夏乃子はスマホを操作してセットし、机に置いて押した。

『先生‼ 今日の御勤めはありますか‼』

「……いい質問ですね。今日の御勤めわはぁあああ……どゅるどゅるどゅるどゅるどゅるどゅるどゅる‼ 十五件だぞ☆」

 うぜぇと夏乃子は顔を渋くし口から涎を垂らしそうになった。先生の話を中断するためとはいえ自分で振った話だ。甘んじて耐えなくてはいけないと、夏乃子の机は夏乃子の拒否反応で揺すられ音を立てていた。

 それを見ていた梓とフローゼの顔が緩む。

「最近夜八時以降に街にいたり、街の中で行方不明になったりする生徒が増えています☆ いいですかぁ? 門限は八時です☆ 刺激が欲しいからと言って街に居座ってはいけません。あなた達の本業は学業であり、目の前の現実ぅ、と国民を救うためにあるのです☆ そのために国家予算でわざわざみなさんから血税を頂いているわけです☆」

 ウズメは黒板の前を左右に歩きながら語り、人差し指を立て言い聞かせるように振った。

「私達機関――ノロワレテイル学園はあくまで秘密裡に存在する機関です☆ 費用は内閣官房機密費から捻出されます☆ 血税で養われているという事実をしっかりと受け止めて‼ 物は壊さない‼ 人を殺さない‼ いいですかぁ☆? そうしないと総理が責められてげっそりしてしまいます☆ 総理だって大変です☆ あの手この手で機関の費用を捻出しなければなりません☆ みなさんわかりますね☆? 物は壊さない☆、人を殺さない☆。いいですね☆。誰に言っているかわかってますか☆? きゅるるんるん☆ 燈彼君、夏乃子さん。昨日の依頼では家が半壊していましたね。これあぁ良くないです☆ いいですかぁ? 家を壊してわぁいけません☆」

「言われてるよ、夏乃子」

『うるさい』

「梓さん、フローゼさん。昨日、マンションを壊しましたね。3階から4階に上がれなくなったと苦情がきてますよ☆」

『うわ』

「仕方ないでしょ⁉ フローゼの能力じゃあぁするしか」

「What⁉」

「弓で射抜いた痕跡がありましたが☆」

「そうデス‼ やったのは梓デース‼」

『人のせいにする、最低』

「なんですって⁉」

「はいはい、静かにしてねぇ。首相が禿げる前に壊さないようにしましょうね☆ きゅるるんるん☆」

 慣れ始めた学校生活、燈彼は流れる時間を眺めていた。

 果たされぬ恨みは何処へいく。

 晴らされぬ憎しみは何処へいく。

 全ての呪詛が集う場所――ノロワレテイル。

 この場所はそう言われている。



 ホームルームの食い込んだ一時間目をほどほどに、二時間目も滞りなく過ぎはじめようとしていた。そろそろフローゼの集中力が切れてくるころだと夏乃子は思い。

「Hungry……。今何時間目ですか? あぁ、ミコトママンに会いたいでーす。Callしてもいいですか?」

 案の定を切れ始めて愚痴りはじめる。

「怒られるからやめて。まだ二時間目よ」

 授業中の私語は厳禁、梓は小声でそう窘めた。

 教卓には教師が立ち、教科書を広げ黒板に文字を書き連ねる。几帳面な文字列に薄い線でも引いているのかと疑いたくもなってくる。

 縦に書かれる文字を、ノートでは横に書くものだからフローゼの頭は混乱していた。

 頭にハテナを浮かべるフローゼの文字はノートから斜めに零れ落ちている。困ったように振り返り、目に涙をため、燈彼に頭を撫でられるとニコニコと笑みを浮かべた。

 この教室の者はみなノロワレテイルと呼ばれている。

 大抵の者はどうしてここにいるのか、どうしてここに通っているのかを実はうまく思い出せない。わかるのは自分が呪われているということだけ。

 ある日の夕方、ふと気が付くとこの街にいて、ふと家だと思う場所に帰り、寮長に会い、学校に通い、ノロワレテイルになる。

 それを疑問に思うこともあるけれど、なぜだかそうあることを、そうであることを、自分で選んでここに来た。そんな気がしていた。気がするだけだぞ。

 ここにこられた事がなぜだか嬉しくて、皆片目から涙を流す――どうして流すのか頬に触れて、別に悲しいわけじゃないのにと思うのだ。

 その反面、もう片方の目には怒りと憎しみが沸き、しかしそれは流れる涙や記憶と共に消えてしまう。

 燈彼もそう。ある日ふと顔をあげるとこの街にいた。

 ミコトと呼ばれる寮長が迎えに来て、優し気に微笑むと、手を引かれて寮に連れていかれた。ミコトは時折振り向いて笑みを浮かべ、時折振り返っては、嬉しそうに微笑む。

 まるでわたあめ片手に喜ぶあの、そうあの子のように――それが誰だったのか燈彼にはもう思い出せない。

 夕食を作ってくれて、寝床を作ってくれて、おでこにキスをしてくれて、おやすみの挨拶をしてくれて、朝になったら起こしてくれて、差し出された皺の無い制服を着て学校へ通う。

 そして戦い方を学ぶ。

 ノロワレテイルには一つの使命がある。

 街の中で人を呪う呪いと戦い祓う事。

 奥の細道と呼ばれる街道を通れば、不思議と呪いの場所へと抜けられる。

 学校指定の灯篭を貰い、細道へ入り、照らす明かりの先へと歩いてゆけば、一番近い場所へと抜けられる。

 教師が下がった眼鏡をあげた――振り返りはするが、教師は生徒を見ていない。

 年は二十代だろうか、口にグッと力を入れ、みなに聞こえるだろう声の大きさを保ち、教科書の内容を伝えてゆく。

 それは当たり障りのない授業で、人類史がなぞられ綴られるものだった。

 何処にでもある学校、もっとも危険から遠い場所でなければならない平和なところ。

 それなのに――。

 呪いに対抗するため、ノロワレテイルに与えられる武器は二つ。

 一つはこの学校に来た時、自分で選ぶ。

 二つ目は、自分を呪う呪いだ。

 燈彼はノロワレテイル。ここにいる者はみなノロワレテイル。己を犯す呪いを武器にする。

 どうしてノロワレテイルのか、燈彼は覚えてはいない。

 しかしその左半身は確かに呪われており、とても人に見せられる状態ではなかった。

 だから燈彼の左半分にはシップのように白い布が張り付けられて、見る事ができないようになっている。

 顔にも体にも足にも足の先にも、まるで魂が体を離れないよう包み込むように――これをとってはダメよと、燈彼はミコトに言われているので、燈彼はこれを自分で取ったことがない。

 くたびれたらミコトが交換してくれる。

 交換する際は決して右目を開けてはダメよと言われるので、燈彼は右目を開けてそれを見たことがなかった。

 燈彼と言う名前が、本当に自分の名前なのかも実感がないし、家族の事も、自分の事も、燈彼には何もかもが定まってはいなかった。

 ただ目を閉じて手を伸ばすと、何時も誰かが手を握ってくれているかのような感覚を覚える。その優しい手が、あなたが大切なのよと言ってくれる。その力強い手が生きろと言ってくれる。その小さな手がそっと掌をつねってくれる。気がするだけだ。気がするだけ。悲しいという感情が沸くわけでもないのに涙が零れて、どうして涙が出るのか。

 やがて夏乃子が来て梓が来てフローゼが来た。

 ミコトと名乗る寮長の住む寮へと入れられて、四月になり、入学して、高校一年生になった。色々思うところはあるけれど、今の生活に燈彼は不憫や不満を感じる事はなかった。

 まるでそれが当たり前のように、魚が水の中にいるように、これを当たり前だと受け止めて生活している。

 出会って一ヶ月、みんな仲良しで、夏乃子が梓がフローゼが、なぜ自分と親しいのか、燈彼にはとても不思議な気分だった。

 どうして不思議なのと自分に問いかけると、自分の中にいる心は、だって、ずっと一人だったじゃないと心を痛めて返してくる。

 でも険悪よりはいいじゃない。

 気まずいよりはいいじゃない。

 悲しいよりはいいじゃない。

 燈彼の心はそう言って、燈彼はそれに従った。

 もし――私がいなくなったら、貴方は悲しんでくれるかな。

(私は、きっと、耐えられない)

 誰かの言葉を思い出したような気がして、それはきっと幻聴だろうと燈彼は思う。

 二時間目終了のチャイムが鳴り、眼鏡の教師はいそいそと教科書や物を片付けて教室を出ようとした。しかしボールペンを落として燈彼はそれに気づく。

 ゆっくりと席を立ち、眩みそうな光の中、拾って、今まさに歩き出しそうな先生へと、燈彼はそれを差し出した。

「こえ」

 声がうまくでない。緊張しているとか、そういうわけではなくて、舌がうまく動かなくて舌足らずになってしまう。

 先生は燈彼に話しかけられたのが、そんなに不思議だったのか瞳孔が開き止(とど)まった。

 燈彼は不思議そうに首を傾げる。

 受け取ってくれないと動けない。

『先生、受け取ってください』

 夏乃子が燈彼の傍に来てそう告げ、先生ははっと我に返ったように動いた。

「あぁ、ありがとう。燈彼さん」

 燈彼は首を傾げ、教師はペンを受け取った。手が触れると教師は物を取り落としてしまう。

「あっ、あぁ、ごめんよ」

 燈彼は拾い直し、改めて教師に差し出す。

 教師は作り笑顔を浮かべても、唇は震え指先も震えていた。

「ありがとう、あり、がとう」

 教師はそう言い、燈彼から物を受け取ると、早足に教室を出て行ってしまった。

『なによ、びびって』

 夏乃子のスマホはそう言い、燈彼に向き直った。

『気にしちゃだめよ』

 そう言われて、何を気にするのだろうと燈彼は首を傾げる。

「何してんの? 二人とも、次は体育だから早く着替えないと遅れるよ」


 三限目は体育――みんなが着替えをする。

 女子が着替えるからと言って、男子が教室を出る事はない。

 女子はスカートの下に必ず短パンやスパッツを履き、その下に下着をつけ、その上にはタイツを履く。ブラの上からは黒いシャツや黒いタンクトップを羽織っているので、下着の露出はない。

 男子も上にはピッタリと汗を吸うシャツと、下には短パンやメンズスパッツを履いているので着替える時も気にしなくて良い。

 これらは学校指定であり、装着を義務付けられている。

「May I help you? 燈彼、手伝ってあげまーすですよ」

 断る理由もないので、燈彼はコクコクと頷いた。

 黒い体育着は男女共共通、ウェットスーツに近いボディスーツを模していた。内側はシリコンに近く、表面はぶよぶよしていて柔らかい。

 背面にはチャックがついており、しっかりとチャックを閉めると、まるで何も着ていないかのような錯覚を覚え、しかし少々重い。内部には特殊な液体が注がれ、ある程度のダイラタンシーの効果を持っていた。

 服の中に押し込まれた髪を外へ出す解放感、そして自らの髪がしっとりして絡まず指の間を通る爽快感に梓はうっとりとした。しかし思いとは裏腹に顔色は苦々しい。

 梓は体育が嫌いだ。

 担当がウズメだからだ――無駄に走るのも嫌いだ。

 理由はある。朝走ったからだ。そして走った後、汗でべたつくのが嫌いだ。

 体育館に行った梓はやはり体育が嫌いだとため息をついた。

 それでも不器用に体操着を弄り歩く無表情な燈彼を見て、頬を緩める。

「はーい、みなさん☆ 今日は授業が終わるまでずっと走ってもらうぞ☆ きゅるる~ん☆」

 しかしやっぱり体育は嫌いだと、ウズメの嬉しそうな顔を見てため息をついた。

 不満の声やため息が出てもウズメは笑顔を崩さない。

「頑張って走った人には、先生がちゅーしてあげちゃうぞ☆」

 その声を聴いて不満の声はさらに高まった。

「なんでよ‼ 先生にちゅーされてうれしいでしょうよ☆ きゅるんきゅるん☆」

 だから体育って嫌いなのよと梓の視線が夏乃子と交わる。夏乃子の表情はいつもと変わらない。フローゼと目が合いフローゼは楽しそうに燈彼を背後から抱きしめた。

「歩いてもいいけど、とまっちゃダメだぞ☆ 疲れたら、先生がちゅーしてあげる☆」

 みんなそれを聞いて真剣に五十分を走れる速度を保った。

「なんでよー☆ みんな休んでいいのよー☆」

 燈彼も必死に走ってはいるが、いかんせん鈍く、夏乃子はそんな燈彼を気遣いつつ、百メートルを十七秒のペースで追い抜いてゆく。

 あぁ、怠い、だるいわ、超だるいと梓は燈彼の隣を走っていた。

 汗臭い、べとべと、後何分走ればいいのよと時計を見ても、針が十分ほどしか進んでいない事に梓のやる気は低下した。

「梓さん、私の授業が気にいらないですか? 真剣にやらないとダメだぞー☆」

 不意に隣に来たウズメの不満顔、貴方が真剣にやってと言おうとしてやめ、梓は目を細めた。

「これは体力をつけるための特訓だぞ☆ 何事も体力が資本です。体力が無ければ何もできません。体力こそすべてなのです。燈彼さん、もう少しペースを上げてもいいのですよ? それとも走れませんか? まぁ走れないなら無理しなくていいですけど、梓さんはそれでいいのですか?」

「あぁ⁉」

 自分が煽りに弱いことを梓は重々に承知していた。

 それでも煽られたら乗られずにはいられない。

「上等じゃないの‼」

「頑張ったらちゅーしてあげる☆」

「いらねっての‼」

 朝も走って午前も走ってバカみたい――だけど馬鹿上等じゃないとも思うのだ。

「燈彼ちゃんには、いつでもちゅーしてあげるわよ」

「燈彼、いくわよ」

 梓につられるように燈彼も五十分間を目一杯走った。

 結局みな梓や夏乃子につられるよう目一杯走ることに――三時間目が終わるころに皆床に倒れ、荒れた呼吸を抑えようと話し声すら聞こえない。

『馬鹿』

 肩で息をし、それでも立っている夏乃子を梓は見上げている。この体力馬鹿。何キロ走ったのよとは思うけれど、計算までするのは煩わしい。

「うっさいわね」

「はーい、みなさん休んでいるところ悪いですが、四時間目が始まってしまいますぅ。水分はしっかりとってくださいね。最優秀賞の夏乃子さんには先生から熱い抱擁&キスが送られます☆」

『いりません』

「やん、いけずぅ☆」

『燈彼、立てる?』

「燈彼ちゃんには、ちゅーしてあげます。んちゅー☆」

『ぶちますよ』

「やーん☆」

 夏乃子は燈彼の手を引いて立たせた。


 四時間目はみな授業に身が入らず、お昼休みが始まってもぐったりとしてなかなか動けずにいた。

「あ~もう、足が痛い」

『張り切りすぎる、から、でしょう』

「あたしはあんたと違って繊細なのよ」

「Oh……。私はBustが痛いです。RunはあんまりLikeではありません」

「無駄に大きいからでしょ」

『それ、ひがみ?』

「殺す」

「フフフッ。梓もいずれBigになりますですよー」

「別にそういう意味じゃないわよ」

『燈彼、平気?』

 燈彼は夏乃子にそう聞かれ不思議そうに見上げる。

 その様子に夏乃子の心は癒され、思わず伸びた手は燈彼の頭をゆったりと撫でていた。片から手を滑らせ握り指を絡め、傍に立ちお腹に顔を埋もれさせる。

 窓の外では桜が咲いていた。視界の端に映る花びら。風に交わり舞うサクヤビメに夏乃子の目は細まった。

『ご飯、食べましょう』

 そう言われて、燈彼はコクコクと頷く。

『せっかく、だから、外で、ね?』

「なんで外で食べるのよ」

 貴方を誘ってはいないし、不満なら来なければいいのにと夏乃子は思うけれど、誘わなくとも来るのが梓とフローゼで、四人一緒にいるのはチームとしての義務でもある。

 例え夏乃子が来るなと言ったところで、燈彼をダシに使われたらどうしようもない。なにより夏乃子は、燈彼が自分以外の人間に対して嫌悪感を抱かないところを見るとイライラしてしまう。梓が燈彼に一緒にご飯を食べようと言ってしまえば、燈彼はそれを嫌がらない。

 それがわかっているので反論はしない。イライラするのがわかっていて行動はしない。

 それに手入れされた桜がせっかく咲いているのにそれを見ない手はない。

 夏乃子は燈彼を中庭へと連れ出した。

 ベンチの一角に座り、膝の上にはお弁当箱。小さすぎず、大きすぎず。蓋を開けるとしっかりと余熱の取られたお米があり、蓋の裏にもくっついてはいない。

『桜、綺麗でしょ?』

「毛虫もいるわよ」

「風情……Oh……Beautiful。とってもキレイです。私、桜大好きでーす」

『燈彼はどう? 桜、好き?』


 燈彼は春の桜より、夏や冬の桜の方が好き――そう言おうとしたけれど、思ったよりも口にだせず夏乃子をただ見つめてしまった。

 夏乃子は燈彼の前に座り、じっと燈彼を見つめ返している。

 日陰と同化するほどに黒い髪はさらさらと、大きな黒目の覗く右目、すらりとした身体、内股、黒いタイツの栄える足、そして膝の上のお弁当――夏乃子の心を騒がせる、そそらせる。

 こいつどんだけ燈彼を見るのよと梓は思ったが口には出さなかった。

 膝の上で広げられているお弁当は寮長ミコトのお手製、ライスペーパーに包まれたトマトとモッツァレラチーズ、ニンジンと千切りキャベツ、鳥のからあげは食べやすいように一口大で巻かれ丁寧に並べられている。

 しっかりと冷まして添えられたお米は酢と酒で炊かれ、ライスペーパーの中には大葉、唐揚げには生姜を用い、上からは抗菌シートもかぶせられていた。

 時期には少し早いヤングコーンのアクセント。

 箸を手に取り、梓はライスペーパーに包まれたサラダを摘まんで口に運ぶ。

 しっかりと包まれた生春巻きは箸で摘まんでも破れはしなかった。

「はい、燈彼、あ~んしてくださーい。Open your mouth」

 隣に座ったフローゼに唐揚げの生春巻きを渡されて燈彼は口を開いた。

『ちょっと、あんまり甘やかさないで』

 あんたがそれを言うのと梓は思ったが口には出さなかった。

 つまるところ甘やかさないでというのは建前で、私の燈彼に手を出さないでというのが本当の意味だ。

 ミコトに会ってはや一か月、高校へ入学してはや二週間――各自思うところは色々ある。

 三人はミコトより一通りに説明は受けていた。

 話しは簡単で、呪われているのでノロワレテイルとなり、己のうちに潜む呪いに殺されぬよう、呪いを武器として消費、生存してほしい。

 一見馬鹿な話のようにも思える。思えるけれど燈彼は半身がおかしく、夏乃子は言葉を喋れない。梓は髪に水を浴びると赤黒く変色し水までも赤黒くなる。この状態で外へ出ると赤い雨が降る。フローゼは感情が高ぶると炎に包まれ、炎から現れる無数の女性は奇声を発し、聞いたものを戦慄させる。

 いつか、この呪いは、己を、食い殺すと。

 生きたければノロワレテイルとなり、呪いが力を増さぬよう、呪いに対して呪いをぶつけ消費せよと、呪いに呪う相手を導き示して力を削いでと四人は言われた。

 きっとクラスメイトみながそう。きっとこの学園に通う生徒のみんながそう言われている。そして残念ながら、その呪いは決して解くことができない。

 しかしそんな言葉で納得してしまうほど……少なくとも梓は疑っている。

 しかしここはなんとも居心地がよかった。

 どちらにしろ、なんにしろ、悩むばかりで何もできないのでこうして従って日々を生きるしかない。

 呪いなんて馬鹿々々しい。そう思いたい。思いたいけれど、しかしそれは確かに存在し四人は対自していた。

 初めては四人で武器を選んだ時。

 地下に降りると暗闇の中、四角い台があり一点だけに蝋燭の明かりが灯っている。

 暗闇は深く、四方の広さが認識できないほどだった。

 燈彼は台の前に立つよう促され。

「きゃぃいいいいいいいいいいいいいいいあああああああああああああああああ‼」

 悲鳴が木霊し三人を硬直させる。

 そして暗闇より歪な女が現れて手に握った包丁を台に突き刺し、抜いて、ゴトリと机に置いて笑い消えた。

 夏乃子が立つと――。

「フフフッ……フフフフッ」

 少女の声。

「お姉ちゃん……」

 可愛らしい声で恐怖を掻き立てるようなものではないはずなのに、耳の傍で聞こえたその声は、夏乃子の瞳孔を開き産毛が逆立たせた。

 どう考えても良くはない。どう考えても良くはないのだが、はっと振り返ると何もなく、台に向き直ると赤い靴が置いてあった。

 梓が前に立つと、巨大な蜘蛛が現れ、梓の身の毛をよだたせた。こんな大きな蜘蛛がこの世界に存在していいはずがない。梓は動けなかった。

 フローゼに至っては、急に肉の焼ける匂いと焦げた匂いがし、暗闇より飛来した赤い焼き鏝が台に突き刺さり燃えた。誰が作ったのか、先端から捻じれ黒く塗りつぶされた金属のひし形は槍のように伸びる仕掛けがある。

 どう考えても良くはない。どう考えても良くは無いはずなのに拒否する事ができなかった。

 梓がどんなに弓を置いていっても、必ず目の前に現れる。

 燈彼は今日包丁を持ってこなかったはずなのに、鞄の中には包丁が入っている。

 夏乃子は赤い靴を履いており、これ以外が履けない。

 フローゼに至っては、かすかに香るのだ。肉の焼ける香ばしい匂いが。

 呪われた武器にはやってはいけない決まりごとがある。

 人斬り包丁助六ならば、この包丁で受けてはいけない、必ず斬るために使わなければならない。

 赤い靴ならば、踊ってはいけない、スキップしてもいけない、この靴以外を履いてはいけない、履いても良いが、次の日、その靴はめちゃくちゃに切り裂かれている。

 蜘蛛弓ならば、一日たりとも引くのをやめてはいけない。一日に一回弓を引かなければならない。必ず何かを射止めなければならない。その何かは必ず生きた生命体でなければならない。

 焼き鏝はこの焼き鏝が何なのか、知ろうとしてはいけない。

 この決まり事を破ると武器は持ち主を呪う。

 少女ミコトが実演してくれたのを見るに、ろくなことにならないのは明白だった。

 燈彼の包丁は禁を犯すと女が現れ持ち主の四肢何処かを刺す。赤い靴ならば少女が現れ踊るのをやめられなくなり、足が千切れるまで踊り狂う。弓ならば現れた大蜘蛛に襲われる。焼き鏝にいたっては、何処からともなく目の無い男が現れ、体に無数の焼けただれが現れる。

 もっと困惑すると思っていた。もっとおかしくなると思っていた。

 ミコトがそれを実演しているのだから何も言えない。禁を破るな。ただそれだけ。

「なんだかな……」

 梓はぼそりと呟き、生春巻きを口に含んだ。

 歯に触れ、解けて舌の上に広がる旨味。

 痛みにくい生姜などをベースとしたドレッシングとマヨネーズが、ライスペーパーの内側に染み込ませてある。生姜にある辛味成分ジンゲロールには強い抗菌作用があり、マヨネーズのお酢と食塩にも強い抗菌作用がある。口臭は気になるが素直においしく、ちょっぴりぴりりとした味付けが食欲をそそる。朝は自分たちよりも早く起き、ランニングもついてくるのに、お弁当のおかずは簡素ながらも凝っているのが伺えた。どうしてこんな細かい成分までわかるのか梓は頭を悩ませながらも、こんな凝った料理を片手間で作れるとは思えなかった。ただの使い捨てにそこまでするのか。

 ミコトは死ななかった。

『どうしたのよ』

「あんたさ、ここの生活どう思う?」

『どうもこうもないわ。呪われている、その目で、見た。でしょう。四人とも、記憶もない、

だから、どうもこうもない。従うしかない』

「Thinking? 私はみんな大好きデース。ミコトママンも、梓も、夏乃子も、そしてもちろん燈彼も‼ loveデース」

「そういう問題じゃないでしょ、どうして私たちは呪われていてここにいるのかって話よ。頭痛くなってきた」

『考えたって、無駄、よ』

「燈彼はどう思う?」

 聞かれた燈彼の箸が止まる。箸で摘まんだ生春巻きは中空にとどまり、汁が表面張力に引っ張られ落ちそうで落ちない。

 呪いの効果はフローゼや梓の方に圧倒的なボリュームがある。しかしもっとも深刻に体を痛めているのは燈彼だ。それは他の三人から見ても一目瞭然だった。

 性別すら不詳なほどに呪いに犯されている。

 一度夏乃子は燈彼の体を見ていた――股間は黒く変色していた。

 ミコトは燈彼を家でのみ男の子として扱うが、学校や外では基本女の子として扱っている。

 大きな眼、少し開いた口、傾げる仕草、少しだけのくせ毛、何処かゆるふわで傍にいるだけで幸せになりそうな雰囲気を感じ取れる。温かい陽だまりのような。

 これで男だったら私はどうにかなりそうだと夏乃子は頭に上がった血に眩暈がした。

 襲ってしまうかもしれない。もしかしたら呪いで性別が変わっているのは自分かもしれないとすら思う。

「燈彼は今の生活が好きですよねぇー。Meも燈彼が大好きです。It‘s mine」

『燈彼、あなたの、では、ない』

「お前のでもないけどね」

『お前、呼ばないで』

「何よ、怒ったの」

『無い乳』

「おちっおちちっおちちは関係ないでしょ‼」

『フンっ』

「ふんはトイレでしてよね」

「Oh……二人ともトイレのTalkはLunchの時にしてはいけません」

「フローゼ、あなたってなぜそんなに片言なのかしら」

「Ah? なぜでしょう……Curseのせいでしょうか? それにしても燈彼はどうしてこんなにCuteなのでしょうか? Very cuteです」

『あんまり、くっつく、ないで』

「何、あんた、もしかして……」

『燈彼は、私の、パートナー。それと、あんた、と、呼ばないで』

「じゃあなんて呼べばいいのよ」

『……月島さん』

「嫌よ。夏乃子でいいでしょ」

『呼び捨て、しない』

「細かいわね。うっさいのよ。私の事も梓って呼んでいいわよ……なんでそこで嫌そうな顔するのよ」

「私は、夏乃子も、梓も、NameでCallします。もちろんDarlingも」

『誰が、ダーリンよ』

「夏乃子ではNothing。燈彼ちゃんちゅっちゅっ」

『フローゼ‼ いい加減にして‼ ぶつわよ‼』

「ほらっ早く食べないとお昼終わっちゃうじゃない。ったく……なんでこんなにのんきなのかしら……。私、真剣に悩んでいるのが馬鹿みたいじゃない」

『胸も無い』

「これは私怒っていいと思う。私これ怒っていいわよね⁉」

 生春巻きを咥えながら、二人は取っ組み合いをはじめ、フローゼはそんな二人を微笑ましく見ていた。

 お昼が終わると五時間目に入り、お昼ご飯でいっぱいになったお腹と春の緩やかな日差しに微睡みも覚える。五時間目は道徳で、視聴覚室で映画のようなドラマのようなものを見せられた。

 内容は一人の男が歩いているところから始まり、お腹が空いたのでポケットの中のビスケットを食べようとすると、飢えた老人に話しかけられ、男は渋々ビスケットを一枚渡すと老人は男に祝福を授けた。

 さらに歩いているとまた飢えた人がおり、男は渋々ビスケットを半分差し出し、残りの半分を口にした。

 飢えた人は男に感謝し、絶対にギャンブルに負けないという祝福を与える。

 のちに男は悪魔とギャンブルをすることになり、ギャンブルで絶対に負けないという植福により悪魔を出し抜いて勝ち、沢山の金貨を悪魔よりせしめて見せたという良い事をすれば良い事が返って来るという教訓のビデオ。

 今どきVHSってどうなのと心の中では思いつつも、うとうとしながらも、四人はDVDを見た。

 六時間目は教室で英語の授業。

 今日は金曜日で六時間目の授業で終わり。暗くなり始めた外の景色が横にあり。

 終了のチャイムが聞こえやっと終えたとクラス中がゆるゆると気だるげで、少しばかりの高揚と解放感、背伸び、これからは放課後だ。

 燈彼は荷物を整理しながら、口をもにょもにょと動かしていた。

『どうしたの?』

 席から立ち同じく荷物をまとめていた夏乃子は燈彼のその様子を見て近づく。

 手元のスマホ、燈彼の次の言葉を待っている。

「ええご、苦手」

 六時間目の英語が上手に理解できず、燈彼は英語が苦手だと思った。

『後で、教えて、あげる』

 言葉を喋れないのは少し面倒だと夏乃子は思う。でも、でもね、夏乃子はこの間が好きでもある。燈彼が言葉を待ってくれている間が好き。

 夏乃子がこの街に来た時、目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。

 すでに記憶はなく、わかるのは自分が月島夏乃子と言う名前であることと、ノロワレテイルということだけ。

 目が覚めてからずっと己の中に鬼がいる。その鬼が言うのだ。有象無象すべてを塵にかせと、全てを壊してしまえと言うのだ。怒り、そう怒りだ。何に怒っているのか、目的や目標、動機もないくせに。それなのに体を這うような怒りに囚われる。

 本当は何か忘れてはいけないことがあったのに、忘れてしまったのかもしれない。その怒りの残滓がまだ残っているような、燻る炎のようなものが夏乃子の内側から湧き上がるのを感じていた。

 そうねと同意したくなる、そうだねと全てを壊したくなる。小さな波紋がやがて大きな波になるように全てをどうにかしたくなる。身を委ねてしまいたい。

 その力は恐ろしく、その思いは怖ろしく、暴れだしたいという感情は常に夏乃子の中で蠢いている。その感情の本流は燈彼にすら向いていた。

「なに、燈彼、英語苦手なの? しょうがないわね。私が後で教えてあげるわよ」

 様子を見て聞いていた梓はまとめた荷物を手に持ち、肩に背丈ほどもある布包みを背負いながら燈彼の机に手を置いた。

「へへへっ」

 背後からフローゼに抱きつかれ燈彼はよろめき、振り返るとフローゼの机の上には焼き鏝がある。持ってきた覚えなどない。それでもいつの間にか傍にある。手荷物の中へ手をいれると、燈彼の手には包丁の感触が伝わってきた。

『私が、教える、から、いいわ』

 目障りと言わぬばかりに夏乃子は答える。

「あんた言葉喋れないでしょ。発音どうするのよ」

『Save your breath』

「はぁ?」

「お口チャックと言う意味ですよ。息を抑えて、息の無駄、Shut upよりも柔らかい表現です」

 フローゼの笑顔と会話の内容のウザさに梓の目はヒクついた。

『その程度、英語、理解できない、では、燈彼に、教える、無理ね』

 夏乃子は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、余計ウザいと梓のこめかみを震えさせる。

「なんですって⁉」

『ほらっ、燈彼、荷物をまとめて準備。御勤め』

 放課後には御勤めと言う名の依頼を受ける決まり。

「ちょっと‼」

 構成は必ず四人で、担当が一人つく。

「Here we go」

 フローゼは燈彼の脇に手を添えて持ち上げ、走りだした。

「ちょっと待ちなさいよ‼」

『フローゼ‼』

「ウフフ、まちませーん。二人でRendezvousでーす」

『そんなの絶対させない』

 ランデブーってなんだと梓は思ったけれど、言葉には出さなかった。

 四人は学校の事をほとんど理解していない。校長は誰か、理事長は誰か、確かに挨拶はあり、しかしほとんどが耳をすり抜けていった、そもそも興味がない。

「お前らが働かなければ寮に金が入らない。寮に金が入らなければ飯も、風呂も、水道も、電気もなしだ。言っている意味わかるな? 稼がなきゃ飯もシャワーもなしだ。きりきり働け。勤めろっつー話さ。そしてその御勤め代を俺によこせ」

 理不尽だなコイツと、梓と夏乃子の二人はミコトに対して思ったが、他に頼るあてもない。

 担任のウズメは依頼の手配と奥の細道を管理している。

「はーい☆ みんなのアイドル☆ ウズメちゃんだぞ☆」

 ウズメに夏乃子と梓は身もだえして震えあがり、フローゼはにこにことした。

「はーい。御勤めの時間でーす☆ 今日の御勤めはぁ~どるぅどるぅどぅるどぅうどぅるどぅるどぅるどぅるジャン‼ こちらになりまーす☆」

 教室に残った生徒は、御勤めに参加する意思があるとみなされる。

 御勤めへの参加は自由だ。しかし参加しなければ呪い殺されてしまう。

 どうするかは本人の自由で、もちろん参加しない生徒もいる。

 学校へ通うのは基本自由、授業代も日々の生活も寮母、寮長が世話をしてくれる。しかし、御勤めをしなければお金を稼げない。自由に使いたいお金が必要であるならば、御勤めをしなければならない。

 寮母や寮長に良い料理を作ってもらうにはお金を稼いで納め、食材などを調達してもらわなければならない。

 もちろんこれ以外の御勤めをしても良い。

 しかし……。

 ウズメより差し出された資料のいくつかをクラスメイトのみんなで眺め、それぞれの班がそれぞれで相談し何の御勤めをするのか決めていった。

 逃亡者もいる。しかし……。

 梓が手に取った資料を眺め、四人は顔を見合わせた。

 クラスメイトみんなが顔を見合わせる。

「グッドラック」

「あーだりぃわ」

 何処か諦めにも似た誰かの言葉と視線。でもその言葉や視線にはまた明日ねと、暗黙の了解も含まれていた。

 それは、無事戻ってきてねと素直に言うのが照れくさいから。

「こないだ逃がしたけど、あたしらこの御勤め受けてもいーわけ?」

 手渡された資料を眺めながら梓はウズメに問うた。依頼を達成できていない。

「逃げた者がぁ~☆ 再び出現してないからぁ~☆ 続きをやろうにもできないよん☆」

 夏乃子の口からため息が漏れた。追えば良かったのかと……しかしあの時、夏乃子は被害者を守らなければならなかった。あの場から動けなかった。燈彼一人に任せる事はどうしてもできなかった。脳裏をよぎるのが未来の不穏ばかりだったからだ。燈彼に傷ついて欲しくない。一人で先行し何かあったらと思うと心が痛い。

 夏乃子は梓に手を差し出して梓は夏乃子へ資料を受け渡す。

 覗き込むようにフローゼもその資料へと視線を通した。

 資料には地図と文章が添えてあり、ウズメが作っているのか、所々にあるハートのマークや星のマークをうっとうしくも思うけれど、これを見ると皆少しばかり気が抜ける。

「心配しなくても、あぁいう手合いは執念深いのよ。サルも蜘蛛もね」

 なんとも言えない。

「普通に喋れるなら普通に喋りませんか?」

 梓がウズメへそう言うと、ウズメは両手を顔の前に運び笑顔を浮かべた。

「ウズメたんはアイドルなんだぞ☆」

『自称ね』

「自称じゃないもん☆ アイドルなんだもん☆」

「そーきゅーとぅ☆ ほーらダーリンれっつごー」

 フローゼは燈彼の脇に手を入れて持ち上げて走りだす。

『誰がダーリンよ‼』

「いってらっしゃい☆ がんばるんだみゅん☆」

 待ちなさいと夏乃子も二人を追いかけ、梓は笑顔を浮かべるウズメに視線を一瞬送りその場を後にした。

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