第4話
報告書。
荻原日菜子は部屋の隅にいた。
自分では制御のできない筋肉の痙攣に苛まれ、左手を右手で抑えても止まりそうにない。それがわかっていても必死に止めようと打ち鳴らす歯を強く噛んでは、脱力と焦燥が入り混じる胸の辺のざわつきを止める術もなく、空を掴むような足掻きに囚われて。
毛穴が開くような寒気の中、包む毛布に意味もなかった。けして気温が低いわけではない。
閉じられたカーテン、散らばった本、鏡の前に積み重ねられた服の山が悩んだお洒落の夢の跡を残していた。机の上には勉強中のノートと飲みかけのペットボトル、床には破れたファッション雑誌と欠けたⅭⅮ。お茶がこぼれて出来た毛布の染みはまだ新しく、充電すらされていないスマホは黒い画面に明かりだけを反射して冷たかった。画面に表示されている蜘蛛の巣のような割れは決して故意に表示しているわけではない。
開いた目は血走り、痙攣からか眼球が小刻みに。
物音に体が反応し、もう隅にいると言うのに、強張る体でさらに隅に寄ろうとする。
ここは安全な自分の部屋のはずなのに。
ヒヒヒヒヒイ。
耳をどれだけ強く塞いでも、その声が耳に響くのを止められない。
手足をがむしゃらに振るっても、まとわりつかれるその感触からは逃れられなかった。
まるで蚊が耳元にいて手を振っていると言うのに、何時までも払い拭えず音がするかのように。
悲鳴をあげればそれは狂人の証。
全てから隠れるように顔を覆い、どうしてこうなったのだろうかと何度思い返してみても身に覚えなどなかった。
高校生になって日菜子は解放された気分だった。
受験勉強はもちろんの事、買い食いだって寄り道だって自由にできる。
新しい出会いと古くからの友人、性への目覚め――。
目まぐるしい学園生活は、日菜子が思っていたよりもずっとずっと、言葉にできないほどの沢山の物を与えてくれた。この先はどうなるのだろうと、早く明日がこないだろうかと、まるで天使が梯子をかけてくれているかのような、そんな感覚すら覚える。
テレビでやっているニュースの出来事は何処か遠く朧気で、現実感など存在しない。
新しい友達ができて彼氏が出来て、日菜子の日常はまた変化していく。
イケメンと言うほどの容姿ではないし、勉強ができるかと言われればそこまででもない。短い茶髪の笑うとまだ少しあどけないオシャレな男の子。
時間はただの知り合いを友人に、友人を親友に、そして恋人へと変えていく。
脳科学的には恋愛は三年しか続かないって。
休み時間に摘まむチョコレート、移動教室で歩く時間、授業中の手紙のやり取り。
そんな友人達との何気ない会話と談笑、好きならずっと好きだよと淡い幻想はぎゅっと日菜子を包んでくれていた。
時間が日菜子に心地よく積み重なっていく。まるで朝に降り積もる雪のように。
放課後の夕日、ずっとこのままなんじゃないかって。一日一日が日菜子の思うよりも早く、感じるよりも早く、いつかきっと大人になった時、夕日に溶けて振り返り思い返すのだろうなと。あの時、私は確かに高校生だった。
もちろんいい事ばかりではない。
母親からのお小言、父親との隔絶、漠然とした将来への不安。
いつも一人な男の子、いつも一人で本を読んでいる女の子。
陰口をたたかれる男の子、無視される女の子、カツアゲされている男の子、部活の先輩に気に入られようと必死になる女の子、少しばかり才能があるために妬まれる男の子。
髪を染めては注意され、関係ないだろうと教師に言い返す女の子、夜中になっても帰らない人達、スマホで不満を書き垂らすあの子。
知っているけれど、見ないふり、聞こえないふり。
綺麗に着飾っては、可愛くふるまい男の子を引っかけるあの子。
寄って来る女の子とかたっぱしから付き合う先輩。
教師を好きになり、飲み物をきっかけに話がしたいのに、ずっと渡せずに手の中でぬるくなっていく、イチゴミルクのパックを持ったあの子。
周りに呼吸を合わせるのは大変だ。
でもみんな我慢して合わせている。
本当はオシャレにもそこまで興味もない。
ファッションとか、世情にもそんなに詳しくない。
化粧水、乳液、そんなに必要なのかなと疑問に思う。デニールは八十ぐらい、後は適当。でも身だしなみは大事で、疎かにすれば、すぐにはぐれてしまうから。
勉強だって必死についていっている。たまに疲れもする。毎日それをするには時間が足りなさすぎる。楽しい事ばかりが見えるのは、みんな白鳥のようにバタ足を隠しているから。
きっと大きな流れがあって、それに逆らわずに乗るのが社会では大切な事。
人は勝手に人を決める。こいつはこういう奴だと言う。本当かどうかはどうでもいい。ただ話題が欲しいだけ。そのためなら悪口だって言う。
友達の風香とは高校で出会った。
少し大人びて、自分と比べて遜色が無い。
同年は面倒だ。上と下を決めなければいけない。
そうしなければ、物事を円滑に進められないから。
学級委員を決めるみたいに、おのずとスクールカーストは成り立ってゆく。我儘を言うあの子を許す私は優しい人。優しい人を作るために我儘を演じている私。化け物と言われて化け物を演じる人。おいしい役だと人を笑いものにする人。それでも輪の中に入っていられるのならとピエロになるあの人。
風香とは素の自分で居られた。
風香だけが友達、あとは付き合い、ただそれだけ。
相手の優れた所と劣っている所、自分と比べて相殺している所。
これ以上でもこれ以下でも対等ではいられない。
蜃気楼のように口には出さない友と言う名の幻を、壊さないように消えないように大切にしている。少しの隙間に波が立てば、もろく崩れさる砂上の楼閣。
幼い頃からみんなそう。リーダーはいて、みんなリーダーの傍に集まって遊ぶ。それ以外は有象無象。リーダーは大事。責任があるから。普通の人は慣れない。責められるだけだから。
イジメは良くないとみんなわかっている。
わかっていないのは、それをイジメだと思っていないからか最低なのかのどちらか。
イジメを見たら助けるべきだとみんな言う。でも私にはできない。報復されるだけだから。
これが現実、これが日菜子の現実――その脆さが尊くもあり好きでもあり、切なくもある雪の虫。
何気ない日常、何気ない日々に、思い出と言う名の雪が降り積もり、形作られる雪景色。
やがて溶けて消えるとわかっていても、今はそっと眺めていたい。それらすべてが日菜子の日常。
いつか遠い世界の出来事が、テレビの向こうの出来事が自らに降りかかるとも知れず。そしてそれは日菜子が思っていたよりも早く、天使はラッパを吹いてしまった。
最初は奇妙な視線を感じるだけだった。
気のせいだと思い、もしかしたら誰かが私を可愛いと感じてくれたのかもと笑っていた。自意識過剰も冗談で言えば笑い話だ。
しかしやがて身近に人の気配を感じるようになる。
耳のすぐ傍に誰かが顔を近づけているような気がして、気がするだけなのに産毛は逆立ち、何より臭いが、臭いがするのだ。それは耐えがたい悪臭で吐き気を覚える。
まさか自分の匂いなのかもしれないと、風香に確認すると別に臭っていないと笑っていた。リンゴの匂いはお気に入り。いつもつけている香り。
「いつものいい香りだよ」
風香は少し疲れた目元を緩めてそう言ってくれる。最近失恋したばかりらしく、大人しい性格に拍車もかかって薄命にすら見えていた。
大したことじゃない。勘違いで思い込み、そう思っていた。
それなのに何かがそっと体に触れて、何かあるわけでもないのに泡のような恐怖が沸き上がる。ふと背後に人を感じて振り返り、誰もいない事に恐怖する。
想像していた悪夢が、気配を伴って現れるかのように、それは日菜子を苦しめはじめた。
誰かに押されてへたりこむ。
急いで振り返ると――。
「自分でこけたくせに、私のせいにしないでよ」
他人から浴びせられる容赦のない言葉――風香は心配してくれる。でも風香以外の友達が心配してくれるのかと言えば否だった。友達と言うにはあまりにも遠い。
夜道を歩いていた中学生が背後から通り魔に刺されたというニュースを見たからだろうか。それもとも同い年の少女が失踪し、翌日死体で発見されたというニュースを見たからだろうか。何かから必死に逃げる夢、動物だったり、人だったり。
なぜこんな夢を見るのだろうかと目を覚ましていつも思う。
どんなに頑張っても逃げられない結末、どんなに手足を振るっても、前に進めずに追いつかれそうになる結末。朝起きるといつも寝汗で体が濡れていた。
悪夢はより強くなり、日菜子の首を絞め始めた。
頭に響く笑い声――自分にだけ聞こえる。
不意に足に切り傷が出来、悲鳴をあげるとあいつはおかしな奴だと囁かれる。
近所の子供が会話している。内容がわからない。何を話しているのかが聞き取れない。耳にフィルターでもかけられているかのように。傍に来た親が不審者を見るような目で日菜子を見つめた。
いつも誰かに見られているかのような切迫感――視線が気になって体が緊張してしまう。
「かまって欲しくてそんな事言っているのでしょう?」
「そんな奴ほっとけばいーじゃん。そんな事よりカラオケ行こうよ」
「日菜子……」
そんな顔しないで。そんな目で私を見ないで。
誰かに追いかけられる夢――相手の姿は鮮明になりはじめ、ほっそりとした体躯の何かが、やけに腕の長い人型の何かが近づいてきて体を引き裂かれる。
笑いながら近づいてくる。
唇を目いっぱいめくって笑っている。
ゆっくりゆっくりと追ってくる影、自分は走っているのに全然前に進めない。
いつも激しい動悸で目を覚ます。
睡眠不足による副交感神経の乱れ、目はかすみ体は重い。止まらないイライラ。返信の無いショートメール、孤独。
気づいた時、積もりに積もった変調は日菜子が思ったよりも日菜子を蝕んでいた。
首を少しばかり捻りながら、ミコトは報告書より視線を外した。文字の羅列に目が疲れた。文章の内容に心も疲れたのかミコトは目頭を押さえて強く目を閉じる。
「なんだこの報告書、うぅう、震えてきた」
報告書を読み、ミコトは顔を引きつらせた。
『こんなものか、と、着色しました』
夏乃子は悪びれた様子もなく告げた。
「結構乙女だよなお前。それはそれとして……こいつぁ面倒そうだ。お前……まさかわざと逃がしたわけじゃないよな」
『違います』
苦しかった。解放されたかった。逃げてほっとしてしまったと、夏乃子は言えなかった。それが少しばかり苦い。
「ったく……燈彼、大丈夫か? 眠いのか?」
目をこすり、うとうとしている燈彼を見てミコトは目を細める。その目は優し気で、手を伸ばして再び頬に触れる。
『過保護、です』
「お前に言われたかぁねーよ。やれやれ……。いい子にしているんだぞ、燈彼」
『フローゼ、どうでした?』
「良くはないな。蜘蛛だとよ」
『在来種?』
「外来種だ」
『ご愁傷様』
窓から差し出された紙の束。警官の無表情。目に色は無かった。ミコトは手を伸ばし紙を受け取りめくりめくり。どうやら被害報告書のようだ。
「まぁ在来種の方もやばいんだけどな。……にしても壊したな。机に椅子に、テレビに天井、食器……あーあーあー。おい‼ この皿‼ 三十万もすんのかよ‼ ったく、物は壊すな人をばらすなって話さ。今日はとりあえず寮に帰れ。明日も学校だ。夕飯は冷蔵庫。チンして食べな」
『ミコトは?』
「年上ぇ。俺年上ぇ。さんをつけろよ。こいつは礼儀ってもんだぜ。俺は後始末してから帰るわ」
『わかりました』
「気を付けて寮に帰るんだぜ」
少女は優しげな瞳を燈彼に向け、夏乃子は渋い表情をした。
『超、過保護』
「お前ほどじゃねーよ。それに俺は優しんだ。しらねーのかよ」
ミコトと呼ばれた少女は警察車両を出て規制線の中へと入っていった。
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