第3話


 火花が散った。刹那に迸(ほとばし)る風景と逆手に持った包丁は燈彼の眼前にある。

 振り抜かれた包丁は助六。人斬り包丁助六。

 刃渡り三十九センチ。この出刃包丁は昔助六という無名の鍛冶師が作ったと云う。

 奈良時代に作られたとも鎌倉時代に作られたとも。しかし今となってはその出自も、そして経緯もすべてが闇の中だ。ただ言えることは折れず曲がらず骨を砕き、何かを解体するためだけに作られたと言うこと。

 刀身には赤い染み。紅と言うには濁り、赤と言うには黒く、そして錆びと言うには鈍い。それは染み込んだ模様のようにも彫り込まれた細工のようにも見えていた。この包丁で受けてはいけない。燈彼はそう言われている。

 握った包丁の重み、重心は切っ先よりやや下、眼前に構えられ振るわれ、赤と黒と鈍色の火花を散らす。

 浮かびあがった一室には無数の蠢(うごめ)きがあった。

 雫のように膨らみ垂れさがり、自重に耐え切れず粘りを帯びて落下する。壁や地面より膨らんでは形をなし、すり寄るように忍び粘りを帯びて這いずり来る。ぬらぬらとした表面は黒より青く、青より黒い。

 燈彼は包丁を振るってそれらを打ち退けていた。打ち払うたびに火の粉が舞い、ぬめりはまるで子供のように、まるで愛しい人を求める誰かのように、どうして拒絶するの、どうして私を受け入れてくれないのとムキになるよう動きを早め燈彼へと近づいて来る。同時に与えられる痛みを嫌がるようでも、そしてやはりムキになるようでもあった。それらは部屋を覆いつくさんばかりにうねりあげ、部屋の様相を容易に変貌させていく。

 握り振るわれる包丁の軌跡。鈍い光を刹那に放ってはきらめいて、陰へと消えては現れて、それは破魔のようにも、あるいは闇のようにも、そして地獄のようにも見えていた。

 燈彼の背後には夏乃子がおり、その足元には少女が倒れ意識は無い。

 明かりの少ない暗闇の中、夏乃子の体は何度も瞬き、光は蛇となって辺りへと伸びた。その光を嫌がるようにナメクジは避け怯え、しかしどうあってもその女の子が欲しいと、雷光に触れたナメクジは痙攣し破裂して、しかしどうあってもその女の子が欲しいとにじり寄っては退けられる。どうあってもその女の子が欲しい。どうあってもその女の子が欲しいのだ。部屋の中には陰湿な空気が充満し、その空気を震わせずに伝わってくる音の歪みは、不快だけを詰め込んだおもちゃ箱のように、聞く者の顔を歪ませる。

 生ごみの臭いと言うにはあまりにも適切すぎる悪臭が部屋の中へ満ちてゆき、ぬめりをより集めたそれは形をうまく形成できないのか、それともそれが完成された姿なのか、泥のように崩れては再構築を繰り返していた。

「ヒヒヒヒヒヒ」

 威嚇と言うにはあまりにもその鳴き声は楽しそうで。

 笑顔というものが、威嚇の進化の延長上にあることをまるで指し示すかのようなその笑い声に夏乃子は強い嫌悪を覚えた。悪意を押し付けられている。それはいらない物を無理やり買わされそうになっている、そんな気分に近かった。

『狒々』

 左モモに付けたレッグポーチのスリット、そこに納められたスマホを夏乃子はタップし、送信完了という文字が画面に映った。

 激しい炎のような感情に囚われ顔を歪ませる夏乃子とは違い、水面一つ揺るがぬ静かな心でお猿さんだと燈彼は思う。

 得体の知れぬ恐怖、戦うのだという意地、逃げるな留まれという精神、それなのに逃げろという本能の命令に体が上手に動かない、言う事を聞かない。迷う司令塔、それらをまとめて押さえつけるように夏乃子は奥歯を強く噛みしめていた。

 二つはまるでアシンメトリー。

 燈彼の漆黒の長い髪がさらさらと地面へと垂れてゆく。

 己すら見失いそうになるほどの純粋さ。

 この瞬間だけは、全てが平行線――全てが感覚の中に納まり、反応するだけ。

 ナメクジが寄り集まり、サルの形を模した狒々は手を振り回して部屋の中をかき回した。

 部屋中へ散乱する爪痕、壁紙と壁を削る爪の音、火花。これらはこれからお前達をこのような目に合わせるぞと言っているのだ。もっと歪んだ顔を見せて。もっと怯えた顔を見せてとリビングの中央、机を薙ぎ飛ばし時計や置物を掴み投げつける。ありとあらゆる罵詈雑言を行動で示すように物や部屋をかき乱す。

 口から洩れるイとヒという振動が夏乃子の心に爪を立てて金切り音をあげた。

 ただそこにいるだけだと言うのに、夏乃子の体は冷たく、冷や汗が滴り落ちていく。

 人の精神は悪意に対してこうも無防備だ。純粋な暴力に対する恐れ、噛まれればどうなるのかと言う恐怖、引き裂かれたその先、悲鳴と、そして死というもっとも忌諱するものへの怖れが体と思考を支配する。

 シャキリ――シャキリ。

 燈彼の背後から巨大な黒い蟹のハサミが姿を現しはじめた。

 服を透過して尾骶骨の延長上に現れたそれはぬらりぬらりと揺ぎ――蟹のハサミらしからぬシャキリシャキリと不穏な音を響かせていた。

 ハサミの中心には巨大な目玉が一つ。

 ハサミを口にしてまるで笑みを浮かべているようだ。

 サルにはカニ。サルにはカニだ。

 柿の実を投げつけてきたらどうするか、カニなら良くわかっているだろう。

 柿の実を投げて来たな。じゃあ、その結末を味合わせてやろう。そうだろう。

 燈彼のライトブラウンの瞳が赤黄金色へと変わってゆく。

 まるでハサミ自体が意思を持っているかのように辺り一面を薙ぎ払った。

 ぬめりだろうが家具だろうが構いはしない。お前以上になにもかも台無しにしてやりたいと、音が響くたびに物が両断されていく。

 振り回される燈彼は身を任せ、まるでハサミとワルツでも踊っているかのように回り回って巡りゆく。斬り裂かれたナメクジ達が、言葉を残して消えていく。

 部屋の中を飛び回る狒々を捕えようと暴れまわるハサミも笑っている。

 どうして……どうして私じゃないの、どうして、あなた、どうして。

 ぬめり達が切り刻まれるたびに、不穏な言葉が音を返さず木霊する。

 私を捨てて、あなただけ幸せになるの。

 俺が悪いのか。家族のために頑張っている俺を捨てるのか。

 こんなの聞きたくない、知りたくないと夏乃子は顔を歪めたが、音を解さぬその言葉は耳を塞ごうとも阻めはしない。

 狒々の動きを燈彼は眺める。

 一挙手一投足――動きに合わせ、身を翻す。

 狒々の伸ばしてきた左手に反応し、切り飛ばす。

「メルシィー、メルシィーボク、メルシィー」

 燈彼の口からなんとなく漏れたその言葉に意味はなく、感情も籠ってはいなかった。

 相手が前に出るのなら前にでる。相手が背後に下がろうが前にでる。ハサミが笑おうが前に出る。助六刀を手放し、刹那、順手に持ちかえる。

 さらに前に出る。

 狒々はハサミを交わしニタニタと笑みを浮かべていた。

 床に転がった椅子を掴み振り回すように上から叩きつける。

 体を回転させ、椅子の直撃を避け、椅子の風圧に身を任せるようにふわりと飛び上がり、回転のまま放った蹴りは狒々の顔を穿ち吹き飛ばす。

 椅子と床の破片が衝撃で飛散し燈彼の体へと襲いかかる。破片一つ一つをかわすのは難しい――ぬるりと、笑うハサミを盾として地面に降り立ち、遠心力を利用して床擦れ擦れを動き、回転しながらさらに前に出る。

 狒々の腕が蛇のようにしなり何度も何度も繰り出される。

 下がらず、受けずに、首を横へ、体を横へ、最小限、前へ、前へ、前へ、前へ出るほどに攻撃と攻撃は加速していく。

「スパシーヴィエ、スパ、スパシーヴィエ、ダスヴィダ、ダスヴィダーニャ」

 腕の軌道に合わせて包丁を振るうと狒々は後ろへ飛び退き、天井へと張り付いた。

 のたのたと天井を移動し、燈彼はさらに前へ出る。

 逃げるように天井の隅まで移動すると、唇がめくれ上がり、己の視界さへも覆い隠すほどに笑い転げる。

 燈彼は駆け跳び、ハサミを床へと突き立てて天井の狒々へと肉薄した――狒々のいた天井の壁へと包丁が突き刺さり、狒々はカーテンレールを足で掴み走り逃げる。

 逃げながら伸ばした手は液晶薄型テレビの画面を潰し握り持ち上げ、燈彼めがけて振り投げた。

 抜けるコンセントと飛び散る火花――天井に刺さった包丁にぶら下がっていた燈彼は反転し、天井に足を付けると地面へと向けて加速し上空をテレビが通り過ぎる。

 破砕音――地面で反転し、地を這うように靴下と服の摩擦を利用して床を滑り逃げる。

 逃げる途中で椅子の足を取り回転しながら狒々へと投げつけた、さらに回転し椅子を投げつける。一体と一人の距離、部屋の広さを鑑みればその反応速度の異常さも際立つ。

 投げる前にはすでに軌道を読み狒々は横に椅子をかわし、天井に張り付いて黒くただ黒く、爛々とした目と牙だけが異様な光を帯びて燈彼を捕える――次いで投げられた椅子が狒々に肉薄し狒々は椅子を掴んで地面に飛び降りる――足が床を滑り滑り駆け肉薄し燈彼の頭めがけて椅子を振り下ろした。

 やはり振り下ろされるより前に軌道を予想し燈彼は反転して椅子を避け、反転した燈彼の包丁が狒々の顔面に迫り狒々は歯で包丁を受け止めようと――その包丁で決して受けてはいけない。

 それは受け止められてもいけない。

 ぴたりと眼前で止め、反対から繰り出したハサミの反動を利用して逆回転――ガチリと狒々の歯が閉じる音と、

「ひーひひひいいひひひいひ‼」

 ハサミをかわして飛び回る狒々の声。

 カーテンの隙間を抜ける――散らばるガラスの音と、燈彼がカーテンを開くと、狒々は割れた窓の向こう側でくねくねと踊っていた。

「いひひひひひいひひいっひひ」

 狒々はあざ笑うかのように飛び、隣の建物の屋根に上ると、屋根を飛び飛び燈彼は追うために窓をから飛び出そうと。

『追わないで‼』

 夏乃子のスマホの音声が聞こえて燈彼は立ち止まった。首を傾げながら夏乃子を見、首を傾げるのは疑問に思ったからではなくただの癖のように夏乃子は感じた。

 サイレンが聞こえる――燈彼はジャケットの背後から鞘を取り出し、真っすぐに納め夏乃子の傍へ。夏乃子の顔を見て膝を綺麗に曲げ、正座の姿勢を作ると女の子の口に手を当てた。少し微笑んだ燈彼の表情を見て、夏乃子は安堵の息を吐いた。

 破砕音、玄関のドアが蹴破られた音と共に警察が突入してくる。燈彼と夏乃子は取り囲まれ毛布で体を覆われると外の車両へと誘導された。

 燈彼と夏乃子は警察車両へ、そして女の子は救急車両へ。

 車両に入り、閉まるドアの音、燈彼はぼんやりと家を見た。

 規制線、イエローテープが小気味良い音をさせながら展開されていく。

 隣には夏乃子が燈彼の右側に座って身を寄せた。

 さきほどの戦いとは違い随分と気を緩めている。

 眠るように目を閉じて燈彼の右腕を取り両手で握り込む。

 恋人というよりはまるで母親のようだ。それは母性であり支配の証でもある。

 手袋の隙間に指を入れ嫌がらないのを確認しながらゆっくりと手袋をはずしてゆく。尖端まで到達し、桃の匂いが沸き立つと夏乃子の鼻孔をくすぐってくる。

 露出した包帯だらけの燈彼の手と指。嫌がらないのが良いと、冷たい指、温めるように夏乃子は指を絡め嬉しそうに口元を緩めた。

「やれやれ」

 ドアを開けて一人の少女が車の中へと入って来る。少女の足が車両へ踏み込むと傾き重さで揺れた。夏乃子の隣に陣取ると腕と足を組む。

 黒い髪に金色の瞳――黒いボディスーツは威圧的に。

 切れの長い目と泣き黒子。小奇麗な容姿を持った少女は夏乃子に手を差し出した。

「報告」

 黒い髪の少女がそう告げると夏乃子は目を開いてモモのレッグバンテージよりスマホを取り画面を開いた。

「ったく、壊すなって何時も言ってんだろ。あたしが怒られんだからな」

「壊す、壊した」

「やれやれ」

 燈彼の繰り返すような声が響き、少女は手を伸ばして困った奴だと燈彼の頬を指で軽く撫でた。その様子に夏乃子は若干の炎を感じる。

『その服、趣味、悪くない、ですか?』

「うるせぇな。あたしだって好きで着てるんじゃねーよ。着物が良(い)いっつってんのによ。ウズメのババアがよぉ。まぁいいけど、そんな事より狒々がでたか。お前ら人間にはほんと恐れいるよ」

 次いで夏乃子がレッグポーチより折り曲げていた紙を取り出して差し出し、少女は受け取り広げた。四角い紙の初めより視線が上下へと動いてゆく。

 護衛対象を乗せた救急車両が発進し燈彼はその後を目で追った。

「荻原日菜子ねぇ」

 護衛対象の名前を呼び、少女はコーヒーが欲しいと、ここにコーヒーなどあるわけもなく、欲しいという欲求だけが喉から滑り落ちて胃に溜まった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る