第8話
地下迷宮に足を踏み入れ、ぼくはメルテに従い進んでいった。
黴臭いうえに埃臭い。おまけに獣のような臭いまでする。まさかこんな場所に、大型哺乳類がいるのだろうか?
「お前は自分に何ができるのかを知らねばならぬ。無力な人間のままでは、この先生き残ることはできんぞ」
「やっぱりぼくは、人間じゃないのか?」
「まだ自覚できぬか。半分は化け物だと言った。しかし半分は人間じゃ。今のお前は人間同然。無理に力を引き出すこともできるが、死んでしまうかもしれん」
「力を引き出す?」
「わしにはそういう力があるのじゃ」
「君も人間じゃないのか?」
「こんな人形のように愛らしいわしを人間と一緒にされては困る」
ぼくはメルテの言うことは理解しきれないが、ここまで来たら、彼女の言うことを納得せざるを得なかった。
しかしぼくが人間ではないなら、こうして人間的な思考をしているのも矛盾しないだろうか。メルテはどういうつもりでぼくを怪物と言ったのだろう。ぼくはけだものと同じなのだろうか。ならもう少し、このひ弱な肉体が強くなってもいいはずだ。
メルテは、ぼくをこんなところに連れ込んで何をさせるつもりなのだろう。東子さんの首がなくなっているのを『パーツ』と言った。それはどういう意味だ?
「お前はやはり混乱しているようだな」
メルテが声をかけてくる。
「当たり前だ、矢継ぎ早に理解できないことばかり起こって……」
「理解しろという方が無理がある。それは否定できぬ。が、お前には立ち向かってもらわねば困るのだ。神話の再現をしようとする組織とな」
「その組織って、さっき言ってた宗教団体のことか?」
「そうだ。このダンジョンを作った主は、アステカ神話の再現と完遂を目標にしている。そのためならどんな犠牲もいとわない。お前もその犠牲となったのじゃ」
「犠牲? ぼくは死んだのか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「さっきから言っていることがわからない」
「わしは真実しか言っておらぬ。お前の周りは、お前が思っているよりずっと複雑じゃ。人の言葉を当てにするより、自分で飛び込まねば何も真に理解できぬ」
それに、とメルテは続ける。
「真実は時に人を傷つける。お前にそれを受け入れる覚悟ができているとは思えぬ。今でさえ与えられた情報を飲み込めないでいる。そんなお前に真実を突き付けても、悪い方に転がるとしか思えぬでな」
ひたすら煙に巻かれている感じしかしなかった。
メルテはぼくが必要だと言った。でも理由を話してくれないのは、ぼくを信用していないのではないか? ぼくを都合よく利用したいのだろうか。
「まぁ、今に『奴ら』が出てくるじゃろう。その時にいろんなことが繋がってくるはずじゃ」
奴ら? 敵がいるっていうのか。人間と戦うのか? それは警察の仕事だろう。
ぼくが警察を呼ぶことも考えた。しかし携帯はなぜか圏外になっている。マップを見てきたはずなのに、急に電波が悪くなったのか。
ゲームだったらこういうダンジョンにモンスターがいるのはお決まりだ。しかし現実にそんなものがいるわけがない。教団の人間が襲ってくる? 冗談じゃない。
しかしながら、こんな広大なダンジョンを何の目的で造ったのだろう。階段が複雑に絡み合い、古代遺跡のように石でできた床はスニーカーの裏にごつごつと当たった。その雰囲気は、ミノタウロスの迷宮を思い出させた。
ダンジョンを進み続けていると、暗がりに目が慣れていった。光の届かない場所では何も見えないはずだが、ぼくは壁にぶつかることもなく、小走りに行くメルテを追いかけることができた。
やがて行く手に、何かが落ちているのを見つける。それは人だった。中年の男性で、立ち上がれないのか苦しそうにうめいている。
「大丈夫ですか!」
この地下迷宮に迷い込んだのだろうか。ぼくはその人物に駆け寄った。
しかし背後から、メルテが鋭く叫んだ。
「そいつに不用意に近づくな!」
えっ、とぼくは足を止める。メルテは男性を睨んでいた。
男性の身体が激しく震えた。悪寒を感じているのかと思ったが、次第に全身が大きく痙攣する。まるで陸地に上げられた魚のようだ。
男性の肉体は変化していった。筋肉が膨れ上がり、どろどろの肉だるまになる。筋肉は生き物のように蠕動し、形を変えていった。
自分の見ているものが信じられなかった。信じられない、と思うことで、メルテの言っていたぼくは彼女を信じないという言葉が、その通りだったと思い知らされる。
男性は立ち上がり、筋肉の塊の内側から黒い毛が飛び出し、表面を覆う。そして全長三メートルくらいの赤い巨大なゴリラとなった。
ダンジョンのモンスター。まさか本当にいたとは。
ゴリラは雄たけびを上げ、襲い掛かってきた。
いの一番に狙われたメルテは「ほっ」と横にジャンプし、拳をかわした。
拳は勢いを殺さず、石畳を突き破った。石の破片と土埃が周囲に舞う。
ゴリラが次に目をつけてきたのはぼくだった。ぼくは震えあがり、必死で逃げ惑った。
ゴリラの握力は、人間と握手しただけでも手を潰せるくらい強いと聞いている。もしあの剛腕で掴まれたら、その場で内臓破裂は免れないだろう。
ゴリラの脚力が人間より劣っているはずがない。おまけにぼくは短距離走の選手でもない。死が差し迫っていた。
走馬灯の一つでも見えるかと思ったが、そうでもない。死は平等に訪れるが、死に方は平等ではない。ぼくは死にたかった。でも今は、『生きたい』と願っている。不思議なものだ。矛盾して、破綻した人格だと自分でも思った。
死にたいとは思っていた。でもこんな場所で、こんな奴に殺されるのは嫌だ。
この状況で、驚くほど冷静に思考できている自分に気が付いた。
右腕の付け根に痛みが走る。こんな時に縫合が取れたのかと思った。
腕が熱い。たまらずぼくは上着を脱いだ。
腕の接合部から、管が出て蠢いていた。
ぼくは「ひっ!」と悲鳴を上げる。管はしなやかな鞭のように俊敏に動き、右腕を、次いで全身を覆った。ぼくは管に巻かれ、さなぎのようになった。管から粘液が噴き出して、全身が密封された。
管の中で、ぼくは全身がどろどろになるのを感じていた。
身体が分解され、再構成されていく。さなぎの中の蝶のように……。
とうとうゴリラに追いつかれ、剛腕のパンチが降ってくる。薄膜の向こうから殺意の塊がぼくを押しつぶさんとしてくる。
さなぎの中からぼくは右手を伸ばした。
その手は白い鱗に覆われていた。
重いパンチを片手で受け止める。
ぼくは呑気に、こんなことができる自分が不思議だなぁと思った。
左手でさなぎをかきわけ、這い出る。
全身が白い鱗の鎧に包まれていることを、ぼくは知った。顔もきっと変化しているに違いない。ふと横を見ると、鏡のように反射する岩があった。
ぼくは全身が発光している。その光を反射し、鏡のような岩はぼくの顔を映し出していた。
顔の右半分が白く、左半分が黒い。シャチのようなフィンのある頭。その上に、太陽が描かれた冠を頂いているようだった。
「それでいい。それがお前の本来の姿だ、コーカソイド・ヲメテオトル!」
メルテがついに来たか、というニュアンスでぼくに言い放った。
ぼくはゴリラのこぶしを掴んでいる右手をひねった。
ゴリラはしたたかに地面に叩きつけられ、夥しい土埃が舞った。
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