第9話
異形の者と化したぼくは、倒れているゴリラに飛び掛かり、続けざまに攻撃する。
右と左交互にジャブ。それを相手の顎に連続して当てる。ごすっ、ごすっと鈍い音。ゴリラは一発受けるごとに苦しそうな表情を浮かべた。
しかし決定打には至らない。
ゴリラは咆哮し、ぼくを突き飛ばした。
ぼくは空中で翻り、石畳に着地する。
戦闘のやり方はなぜか身体がわかっていた。ぼくは元々武闘派ではない。しかし記憶にない戦い方を、身体はマスターしているようだった。考えるより先に身体が動く。まるで自分が操り人形になったかのようだった。
メルテはぼくの戦いを後ろからニヤニヤと眺めていた。
彼女が言っていた、ぼくは人間じゃないというのはこのことか。確かに自分がこうなっては、普通の人間ではないと認めざるを得ない。
何よりも冷静にこの事実を受け止めている自分が意外だった。
ゴリラが吼えながら突進してくる。ぼくは慌てず、横に跳んだ。
ゴリラが頭から石柱にぶつかり、また埃が舞う。
瓦礫の中からゴリラが立ち上がり、悔しそうに吼えた。
ゴリラは手近な瓦礫を掴み、ぼくに向かって投げつけた。瓦礫は岩ほどの大きさがあり、豪速球で頭部めがけて飛んでくる。当たれば頭蓋骨など砕けてしまうだろう。
瞬きする間に頭蓋に命中しそうな速さ。ぼくはとっさに膝を落とした。
頭上を瓦礫が通過し、遥か後ろで何かにぶつかって、どがぁんと音を立てる。
ぼくは地面に上半身が激突する前に、両掌を床に押し付けた。
そのまま何度もバク転し、敵にこちらから向かっていく。
掌で床を押し、足で床を蹴って進む。ジャンプを繰り返すぶん、走るより速度が出た。その奇妙な動きにゴリラは鼻白んでいた。
ゴリラはかがみ、こちらを待ち受ける姿勢を取った。
近づきざま、カポエラの要領で掌を床に付けたまま回し蹴りをお見舞いする。ぼくのかかとがゴリラの顎にヒットし、ぐしゃりと骨が砕ける音がして、ゴリラは鼻血を噴いた。
ぐおう、とゴリラは呻く。ぼくは着地してファイティングポーズを取り、相手の次の手を待った。
ゴリラは鼻を抑え、恨めしそうにぼくを睨んだ。指の間から鼻血が垂れていた。
ゴリラは歯をむき出しにし、両手を合わせて一つの拳を作り、上からぼくの頭めがけて振り下ろした。
ぼくは横に跳び、かわそうとした。
が、敵の攻撃はフェイクだった。
両手を離し、大きく広げる。そのままぼくを抱え込むポーズとなった。
横に逃げたのが裏目に出た。ぼくは大きな手にがっしりと胴体を掴まれた。ゴリラは鼻血を垂れたままの顔で残忍な笑みを浮かべた。
みしみしと、毛深い手がぼくの細い体を握りつぶそうとする。背骨がきしみ、全身に痛みを感じた。両腕が最初にばきっと音を立て、脳に太い針を差し込んだような激痛が襲った。
死ぬのか。他人事のようにそう思っていた。ゴリラはおもむろにぼくを地面に叩きつけた。
掌から出ているぼくの頭が石畳に激突した。べきっ、と音がした。
頭骨には痛覚がない、と聞いたことがある。脳の痛みを感じることはあるが、それは器官の問題で、外部刺激による痛みは感じないのだと。実際ぼくは頭に大して痛みを感じなかった。
しかし頭から液体が垂れるのを、どろっとした皮膚の感触で知った。きっと頭蓋が砕け、脳漿が流れ出ているのだ。
急に右目だけ床が拡大されて見えた。まるで右目だけ床に近づいているようで、段々石畳の目がはっきり見えるようになり……。
ぷちっ、と何かが右目の奥で千切れた。それきり左目しか見えなくなった。
右目が眼窩から飛び出て、視神経が千切れたのだ。
それがわかったのは、残った左目で床に落ちているぼくの眼球を見た時だった。
ゴリラは勝ち誇ったような叫びを上げた。自分に怪我を負わせた相手に報復できた。獣そのものの、野蛮でしかない嬌声。耳障りにきぃんと響いた。
ゴリラはまだぼくの身体を掴んでいる。ぶんぶんと、まるで木の枝のように振り回されている。そのたびに脳漿が周囲に飛び散った。
自分の身体が再び熱くなるのを感じた。
考えて行ったわけではない、肉体の反射的な行動だ。
ゴリラが異変に気付き、ぎょっとして残骸のようなぼくを見る。熱さに耐えられなくなったのか、真っ赤に焼けた鉄を放り投げるようにぼくを壁に投げた。
壁に激突し、ぼくの身体はさらにベキボキと折れた。もはや痛みにも慣れていた。
ずるりと壁からずり落ちて、床に血と体液の池を作った。
ぼくの意識は朦朧としていた。が、急速にそれが回復していった。
ぼくは立ち上がり、外れた間接を戻すようにぐねぐねと身体をストレッチさせた。
ぴしっ、ぴしっと骨が元あった場所に戻っていく。それと共に痛みも薄れていく。
人間では考えられない回復力。ゴリラは信じられないものを見るように目を丸くしていた。
陥没した頭蓋から垂れた脳の一部をぼくはすくって、頭に戻した。破壊された部分に新しく骨が構築され、皮膚が傷口を覆っていく。意識が段々クリアになっていくのを感じた。
ぽっかり空いた右目の奥から、ぎょろりと新しい眼球が姿を現す。今まで片目しか見えず、ぼやけていた風景の焦点が合う。
ぼくは完全に回復していた。
ぼくは我知らず気功のようなポーズをとっていた。
掌が熱くなる。
右腕が発光し、右掌から光球が生まれた。
光球をゴリラに向ける。
ゴリラは発光体を見て多少竦んだようだったが、すぐに拳を振りかざしてまた襲ってくる。一度仕留めたと思った獲物に背を向けるなど、彼のプライドが許さなかったのだろう。
離れろ、と思った瞬間、光球はぼくの掌から発射された。
光球はレーザーのように空中に光の線を刻み、ゴリラの胴体を貫く。
ズドッ、と肉が裂ける音がした。
ぐふっとゴリラの口から血が溢れた。
これで決まったと思った。が、ゴリラはなおも血走った眼で殴りかかろうとしてくる。ぼくが言うのもなんだが、大した生命力だ。
ぼくの右腕が、じゃりんと音を立てて変形する。
右腕は巨大なナイフのような形になっていた。ぎらりと光る刃がゴリラの姿を反射する。
一閃。
ゴリラの身体がどさっと崩れ落ち、夥しい血が溢れ出す。
敵は立ち上がらない。どうやら今の一撃で絶命したようだ。
ガラスが砕け散るように、ぼくを包む鱗が剥がれた。ぼくは半裸にズボンだけの身体に戻った。
ふらっと膝から崩れ落ちる。めまいがした。それ以外に疲れは感じなかった。
さっき、ぼくは何をしていた?
「何だ、こいつは……」
「ナワル。変身機能を備えた怪物じゃよ」
飄々とメルテが言う。今までどこに隠れていたのか、彼女は怪我一つしていなかった。
「ぼくの、あの姿は……」
「お前の本当の姿じゃよ」
メルテが得意そうに言う。
そうか、ぼくはいよいよもって人間ではなかったわけだ。
乾いた笑いが口の端から漏れ出た。
双貌神ヲメテオトル 樫井素数 @nekoyamato
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