第6話
「あら、そうなの。自分探しの旅、ねぇ。若者らしくていいじゃない。私もそんな風に自由な時間が欲しかったわ」
東子さんは朗らかな女性だった。芸能界の荒波を渡り歩いているとは思えないほどの、いや、卓越した人間性があるからこそ弱肉強食の世界でやっていけるのだろう。
「いいんですか? ぼくみたいな一般人に素性を明かして……」
「元々私が来たいと思って来たわけじゃないのよ。事務所がどうしてもここで休みを取れってうるさくて。本当は今すぐ東京に戻りたいくらい。だってここ、陰気だものねぇ」
宿泊施設に寝泊まりを強要する事務所なんてあるのだろうか。裏で何か取引でもしているのだろうか。大人の事情は、大人ではないぼくには想像もつかなかった。
「でも私はあなたの方が気になるわ。何か辛いことでもあったの? ちょっと顔色が暗いわよ」
さっき考えていたことが表情に出ていただろうか。人前で情けない顔を見せたことに、ぼくは内心恥ずかしくなった。
「ぼ、ぼくは……」
上手い返し方が思いつかない。
「苦しいことがあるなら言ってみて。私、人生で辛いことはだいたい経験したから。男の子が悩んでるのを私、放っておけないの」
覗き込むようにこちらを見つめてくる東子さん。彫刻か人形のように目鼻立ちが整っていて、やはり美人だ。思わずどぎまぎしてしまう。
しかし、これを言って失望されないだろうか。いや、失望されるのはまだましな方で、怖がられるかもしれない。
でも、思い切って言ってみようと思った。この人ならわかってくれる気がする。確証はないが、なぜだかそう思えた。
「小さい頃に首を絞めたんです。クラスメイトの。大事には至らなかったんですけど。それを思い出して、自分が嫌になって……」
「そう……」
東子さんは何気ない話を聞くように、ふむと腕を組んだ。
嫌われずに済んでよかったとぼくは安堵した。会ったばかりの人に何を思っているのだろう。
東子さんは続けた。
「それは辛かったわね。でも、今のあなたはそれを後悔している。それだけあなたは成長したってことじゃない? 過去のことは過去のこと。忘れろなんて言わないけれど、くよくよしてたって前に進まないわ。原因を突き止めて、解消しないと」
「はい。でも、なんで自分があんなことしたのか、わからなくて……」
「きっとあなた、小さい頃のもっと前に……もっと小さい頃に、なにか心に傷を負っていたんじゃないかしら。それがふとした拍子に噴き出した、と考えられなくもないわ」
もっと幼少期の何か。心当たりがないか、ぼくは宙を見つめて思索した。
ぼくは愛されていない。それを感じたのはいつだったか。あの時クラスメイトの首を絞めたのは、ちょっかいを出されたからだけではない。羨ましかったのだ。自分より愛されている人間が。その不満が爆発したのだ。
「そう言われても、もっと小さい頃なんて思い出せませんよ」
「いいえ。何かあるはずだわ。子供のあなたにそうまでさせたきっかけが」
そうだ。子供が殺しの一歩手前まで行くなんて、ただ事ではない。その背後には必ず理由があるはずだ。ぼくは、どんな子供だっただろうか……。
そして、自分でも無意識に避けていた、ある出来事が突然脳裏に浮かんだ。
それは少し考えるだけでもおぞましいものだった。ぼくの原体験。初めて世界を感じ、その残酷さを思い知ったあの日。
「ぼくは……」
おそるおそる言う。
「ゴミ袋に詰められて、ゴミ収集車に乗せられそうになったことがあります」
そう。自分に価値がないことを思い知らされた出来事。おそらく廃棄工場の夢は、こうした体験から来ているのだろう。
「ゴミ収集車がゴミを潰す音、今でも思い出せます。がしゃんがしゃんって、無機質な音で……。自分が押しつぶされる直前で、ゴミ収集の人が気づいて助けてくれた……と聞いています」
「そう。あなたを捨てたのはお母さん?」
「はい。うちは母子家庭で、お母さんは避妊しそこなって生まれたぼくを疎んでいます。ぼくは愛されなかった。だから、普通の家庭で育った子供が憎かった……」
「かわいそうに」
東子さんの憐憫の声は優しかった。
「あなたは人から愛される義務がある。そのために、もっと人と触れ合うべきだわ。優しい人ばかりじゃないけれど、自分と世界との距離感を計って、ちょうどいい距離を知りなさい。そうして人は、少しずつ大人になっていくのよ」
ぼくは涙が出そうになった。そこで隣に座っているメルテに小突かれ、我に返った。
「おい、そろそろ行くぞ。飯の時間じゃ。わしは腹が減った」
「あら、レストランで夕食ね。私もご一緒させていただいていいかしら? お嬢さん」
「いらん。お前はお節介すぎて鬱陶しいぞ」
「私はお節介なのよ」
「一緒に食べましょう。ぼくも、その方がいいです……」
「あら嬉しい」
東子さんは微笑する。嬉しいのはぼくの方だ。ぼくも笑った。メルテは不満そうに頬を膨らませていた。
その日の夕食はビュッフェで、食べ物の味よりも人の温かさのほうがぼくの心にしみた。
・
三日目。また東子さんに会えるだろうか。散歩を終えてぼくとメルテはオメヨ館に引き返した。
「鼻の下を伸ばしおって。そんなにあの女が好きか」
「ラブじゃない意味なら好きだよ。ぼくに優しくしてくれたの、あの人くらいだから」
「お前はもっと思い出すべきことがあるじゃろうが」
「でもいくら思い出そうとしても、こんな場所にぼくがいた記憶なんかないぞ」
「それを思い出さん限り、お前はただの人間のままじゃ」
メルテの言うことは腑に落ちないながらも、ぼくはここでの生活が気に入り始めていた。旅行の楽しみはそこにいる人々と触れ合うことだ、そう番組で言っていた気がする。ぼくは初めて前向きな気持ちになれたかもしれない。
ロビーに帰ると、何やら人々が集まっている。床に落ちている何かを囲んで、互いに何やら喋っていた。骸骨の姿はなく、集まっているのは普通の人々だった。
「なんじゃなんじゃ」
メルテは目を輝かせて人々の間に割り込み、彼らが囲んでいるものを見ようとする。周囲の人々は彼女を止めようとしたが、幼女の好奇心のパワーの前には無力だった。
人の隙間に顔を突っ込み、目当てのものを見た彼女は「おほーっ」と喜びの声を上げる。ぼくが後ろからおずおずと歩み寄ると、彼女は楽しそうに言ってきた。
「お前も見るか?」
「そこに何があるんだ」
「東子とかいった女優の首なし死体じゃよ」
ぼくの背筋を戦慄がぞろりと撫でた。
ぼくも人込みをかき分けて、倒れている人間を見る。
血だまりに倒れている首がない死体は、東子さんの服を着ていた。
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