だって……心配だから
「たったの97km/h……」
凛音に安打を打たれたマリンは、練習着のポケットに忍ばせておいたスマホサイズの小型端末画面を見て愕然とした。先日の練習試合で投げた大河の147km/hの直球より50km/hも遅いではないか。マリンは凛音に内角高めという難しいコースを痛打されたことよりも、リリースが好感触だったにも関わらず、球速が出ていない事の方がショックだった。自然と足首の方に目線を向けたがそれは否定した。次打者の田中智美との対戦の時もそうだった。終盤の無死一、二塁というシチュエーションで三塁線に転がす送りバントの練習をしたい智美であったが、マリンはおよそ制球がままならずストライクが1球もとれず四球を与えてしまった。それに加えて球速がそれぞれ85、87、85、89km/hと不調の時でさえ100km/hは超えてくるスピードは、智美との勝負の中でその面影さえ見る事ができなかった。智美はサードの守備につく際、マリンへ気を遣う。
「まだ感覚が戻ってないだけだよ、慌てずにいけば大丈夫」
「……はい。すみません、智美先輩の練習ができなくて」
「ううん。ボール球の見極めの練習ができたよ」
「ありがとうございます。次は頑張ります!」と気丈に振る舞うマリンであったが智美はすごく心配になった。次の打者は大河だというのに、対抗心剥き出しの状態になっていないのが引っかかったからだ。いつもなら、と智美は元気いっぱいで大河へ宣戦布告する姿を思い浮かべたが今日はそうならなかった。それどころかマリンは相手が大河だとわかっていないかの如く投げ、当たり前のようにホームランを打って淡々とベースを周る大河へは悔しさを爆発させず、端末をじっと見てはボールの縫い目を確認したり、しきりにフォームチェックを繰り返しては首を捻っている。後ろに仲間がいるよ――智美はマリンのことをきつく抱きしめたい気持ちになった。
しかし勇気を持って踏み出せない智美はサードから祈ることしかできず、とうとう。
「ねえマリンこれじゃ練習にならないじゃない」と不満たらたら8番打者のエリカに四球を与えてしまった所で、一回目のシート打撃は終了となってしまった。この日、マリンは打者8人と対戦して本塁打を含む被安打3、四死球3とまともにアウトを奪えず、さらに、ライジングフォーシームは一球も100km/hに届くことはなかった。
少しのインターバルを置いて二回目のシート打撃が始まった。
桜花聖翔野球部はシート打撃を二回に分けて行う。一回目はマウンドにマリンが立ち、二回目はもちろんこの人――桜花聖翔野球部の新鋭にして巨星の右腕、大河俊一。
「武蔵、どっちか外いっぱいに真っ直ぐ。146km/h」
「はい!」
武蔵が左打者を想定してアウトコースに寄って構えると、すぐに彗星のような美しい軌道の直球が正確に武蔵のキャッチャーミットの中へ吸い込まれた。だけでなく、セットポジションから繰り出す右肘が背中からはみ出さないショートアームの上手投げは146km/hの球速表示を言葉通りに叩き出した。真夏の陽炎を黙らせるに相応しい威力の高いスピードボールである。球を受けた武蔵は大河の球が素直すぎるから今日はすごく機嫌が悪いと評価をするとマスクの下で渋い顔を作った。
さあ打順は一番打者の凛音から。という桜花聖翔野球部の決め事は機嫌の悪い大河には通用しないわけで。打席に入ろうとする凛音に大河は苛立ちを隠せない様子で呼び止めた。
「おい佐々木悪ぃ、潮崎を先に立たせてもいいか」
「あ?なんでだよ」
「気に食わねえからだ」
凛音のそばにいた武蔵はびくり。また怒髪天を衝くと慌てふためくが凛音は意外にもあっさりと。
「いいよ、あたしもそう思ってたとこ」と大河の提案を素直に受け入れた。おまけに、やるじゃねえかとサムズアップまでする始末だ。武蔵は頭を抱えてばかりだ。
「おい聞いてただろ潮崎、んなクソほど役に立たないセカンドなんかやってないでさっさとバッターボックスに入りやがれ」
「なによそれ。ねえ練習に不公平が出ないよう打撃練習は凛音ちゃんからってみんなで決めたことでしょ?」とマリンは指摘したが。
「入れ。手遅れになる前に」
「は?手遅れって何よ、私の何が悪いの」
「クソだな。自覚がねえから入れって言ってんだよエース様」
「またそれ。もういい加減にして!」とマリンはものすごい形相で大河に詰め寄ったが、そこへプロテクターを身にまとった武蔵が猛スピードで二人の間にヘッドスライディングをする形で割って入った。
「む、ムサシくん大丈夫?」とマリンは武蔵の咄嗟のアクションに呆気を取られた風に訊ねると武蔵は顔中を砂だらけにして苦笑い。
「へ、へへへ、ボクは大丈夫だよマリンちゃん」
「もう急に飛び込んで来るからびっくりした」
「だって……心配だから」
「心配って、大丈夫だよこいつとなんかケンカしないから」
「違うよ、ボクが心配なのはマリンちゃんの気持ち。今、キミの」
「え……?」
「大河くんの言う通りにして。ボクからもお願いします」と武蔵は言うと、綺麗に、深々と頭を下げた。マリンは戸惑い、目線を大河と武蔵の交互に配っていたがやがて大河の方を見て。
「教えて。私がわかっていないこと」と拳を突きだすと大河は「任せとけ」とやはり拳を突き合わせた。顔はお互い違う方角を向いてしまったが。
「あ、ああ、あああああ、いいわ、いい!」
――せ・い・しゅ・ん・ば・ん・ざ・い――と一連のやり取りを見ていた里子が鼻血を出しながら悶え苦しんでいるのを、部員たちは可哀想な目で大人を見ていた。
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