耽り耽り

アスパルテーム

第1話

 全てがなくなれば良いと思うことが、矢張り私にもあるのです。そういう時は大抵、心が鉛のように重くなり、体は変に火照ってどうにも動けなくなっています。全て滅茶苦茶にしてしまおうかと思いはするのですが、そんな容態ではどうしようも出来ません。そしてそれは数週間、又は数ヶ月に渡り続くことさえあるのです。それでも世間は、私に「生きよ」と命令します。

 苦しみ。私にとっては、ただそれでしかないのです。

 石畳を渡って、太陽はついに昇らず、本日は曇天が続くと見えました。下駄がカラコロと、足元から私を嘲笑います。しかし私は、その時はその声を思うままに鳴らせて、石畳の果ての赤鳥居を目指しました。

 午前五時。曇りの底に閉じ込められた京都の町は静かに息を潜めて、冬の森のような冷たさを湛えて、じっと私を睨み殺そうとしていました。そう自覚した途端に、胸は痛み、冷や汗が垂れ、呼吸が乱れ、歩くことも大変になるような、そんな内に漸く鳥居の元に辿り着きました。その堂々たる佇まいの元に立つは、小さく痩せ細った体の男が一人。それが私です。冬の木立のような京都の町を暖めるかのように、鳥居は赤赤とそこに立っているのですが、実際には温かい訳はありません。その冷たさはまさに骸。私はその冷たさに身震いして、呼吸をどうにか整えると、やっと鳥居をくぐったのでした。

 さて、神社という神社の全てに神様がおわすかと言われれば、そうは思いません。そもそも、私は人並みにしか神という存在を信じてはいないのですから。神様というのが本当にいらっしゃったのなら、私はどうして、こんな惨めな気持ちで手を合わせ、礼をし、五円玉を投げているのでしょう。いえ、何があったということはありません。只、幼い頃の、火傷にも似た記憶の一つ一つが、最近になって胸を焼くようになった、それだけのことです。そして、それを私ではない誰かの、神様の所為にしてしまえば、どこか安心して呼吸をすることが出来る。それだけの理由で、こうして毎朝神社に通っているのです。祈るためでも、感謝するためでもなく、ひたすらに恨むために。そうして、人としての生を繋ぐために。

 「母さん、眠れないよ」  

 十歳の頃でした。その時私は既に不眠症を患っていて、毎夜同じ台詞を言っては、母の寝所の戸を叩きました。決まって母は戸をわずかに開け、左目だけを覗かせて、

「またですか」と小さく呟くのです。そこで私は狼狽えたようになって自室へ戻ってしまうこともあったし、只突っ立って母の左目を眺めていることもありました。そしてその晩は、私としては珍しく後者でした。しばらくした後、

 「分かりました」

 細く高い声が聞こえたかと思うと、のろのろと、いかにも眠そうに戸が開けられました。その瞬間、私はいつも、自分に起こる不幸の全てから救われたような気持ちになって、部屋へ駆け込むのでした。母のために敷かれた、今では薄くなってしまった布団の上でひとしきり転げ回った後、閉められた窓を思い切り開け放って、身を乗り出し、外を見渡しました。眼下には、最終列車が身をくねらせて曲がっていくのが見えます。私には、その通り過ぎていく轟音と、それが震わす地面と空気がいつも気持ち悪く思えたのでした。まるで大蛇が、私のよく知った町をぬるぬると這い回っているかのようで。チラチラと覗く赤い舌は、きっと私を探っているのだ。窓枠をしっかり掴んだまま、唇を噛んで黙った私の肩越しに伸びて来た手が、

「もうおやすみ」

と言って、窓を閉めました。私は母に引っ付くようにして布団に潜り、その胸に顔を埋めました。背中を優しく叩く母の手の感触を、今も鮮明に思い出すことが出来ます。そしてふと天井を見上げた時の、橙色の豆電球。何故だか急に胸が詰まる思いがして、又母の胸に顔を押し付ける。それを繰り返している内、夜が明けてしまう。

 結局、不眠症は未だに治っていません。

 ふと土臭い匂いが鼻を掠めました。顔を上げるまでもなく、地面を雨粒が叩いているのが分かりました。どれ程そこに立っていたのでしょう。いつから雨が降っていたのでしょう。いずれにしても、雨の中に長くいるのは良くない。私は溜息を吐いて、とりあえず社の軒先にお邪魔することにしました。そこには既に先客が、猫が一匹座っていました。先客は一心不乱に顔を洗っていましたが、ふとこちらに気付くと、たちまち雨の中に飛び出して、すぐに見えなくなりました。

 私はかつて、猫を飼っていました。名前は、最早思い出せません。真っ黒で、ただ瞳だけが爛々と黄色に灯っている、つまらない猫でした。私は、その猫のことが嫌いでした。それはもう、大嫌いでした。人間程は求めてはいませんが、空気の読めない、阿呆でした。祖父の仏壇を荒らし、大切に飼っていた文鳥を肉塊にして。よその猫はあんなにも行儀よく凛としているのに、どうして、と、視界にうちの猫が映る度考えました。ですから、仕方なかったのです、あれは。

 「仕方ない」

横殴りに雨が降るその日、家の裏に、猫を埋めました。私の朝食のシシャモを盗って行ったのが悪いのです。それで悪びれもなく、にゃあ、と言うのですから、救いようがありません。仕方なかったのですよ。いや、この猫でなければ、私とて、シシャモ一匹で尊い命を犠牲にはしません。この猫であったからいけないのです。猫を埋めた後で、適当に取ってきた猫じゃらしを手向けてやりました。まぁ、生前一度も、猫じゃらしで遊んでやったことはないのですけれど。それにしても、未だに、時折手がぐっと重くなるのです。命のなくなった入れ物は、それはそれは、重い。そう感じるだけなのかもしれませんが。それでも、その猫が視界に二度と現れなくなったことで、私の心は幾分も軽くなりました。その代わりに、錯覚が、「重い」という幻が付き纏うようになり…、それでも、私としては、何の後悔もありません。苛立ちの根本を、私は自ら退けたに過ぎないのですから。

 今では、あの家はどこにあったのかさえ思い出せません。この京都の町のどこかにあったのでしょうが、勿論、猫の死体も、どこに埋まっているのか、今では皆目見当が付きません。

 雨は未だに激しく石畳を叩き、それはいつの日か、地団駄を踏んで菓子をねだった頃の私を思い出させました。大人になった今、仮に、同じように地団駄を踏んだとして、一体何が得られると言うのでしょうか。幼い頃から思想が飛躍しがちだった私は、何かあると、このようにすぐ悲観的になる節がありました。可愛げのない子供だったのです。

  丁度声が一段階低くなって、人生的に見るとやや難しい時期に差し掛かった頃、

私は、担任を殺しました。

猫を手にかけたことが、私の、人間としての一つのタガを外してしまったのでしょう。初対面から、私は担任のことを何となく好いていなかったし、クラスの中でいじめが起きて、それを苦にして私の幼馴染が身投げしても、担任は、表情一つ変えなかった。ただ人形のようになって、何にも言わなかった。学校も、担任の平謝りを真に受けて何の処分もしなかった。私から見れば、担任は、人間としては死んでいるように見えました。理由はそれだけです。全ては、あの猫を殺した日の延長線上に起きたこと。私には、そのくらいの認識でしかありませんでしたし、実際そうであったと思います。もし理由という理由がなかったとしても、私は生き物を殺せる。どうせ理由をあげるのならば、人間として、人間らしさの許容範囲からはみ出しているから、およそ教師らしくないから、それが理由では足りなかったのでしょうか。…ああ、理由というか動機と言えば、もう一つだけありました。

つまらなかったのです。それはもうとても。何の変化のない日常に、飽き飽きしていた。そこに、あんまりにも私の世界において何となく目障りな存在が現れた。何か一つの存在が、ある時突然消えるというのは、退屈な日常に与える刺激としては十分過ぎるのです。猫を手にかけた時に、それは確信に変わりました。しかし上手くやらなければ、変化の範囲が許容を越えてしまう。あくまで日常であって欲しいのであって、非日常と呼ばねばならないほどまでに変容する必要は全くないのです。

 さて、私はそんな過程を経て、この京都に逃げ込んで来ました。他所から見れば、一人の男が、手持ち無沙汰に社の軒下で物思いに耽っているように見えるでしょう。それはとても滑稽なことです。実際には、これからどのようにして、ありふれた、それも暇のない余生を送るか考えるにあたって、これまでの人生を復習しているに過ぎないのです。あの時、そうあの時。担任をホームから突き落としたあの時。蛇は人間を食べるということを知りました。あまり綺麗ではありませんでしたが。眠れない夜の底で、私を探して街中を這っていたあの蛇。折角なのだからと、幼い頃の思想に意識を飛ばして、猫を殺し、担任を蛇の餌にした。思いつきと思い込みだけで生きてきた人生でした。私は、私の人生に悔いはありません。私の人生にあった出来事の一つ一つが、今の私を構成しています。虫唾が走ります。悪寒がします。けれどそれも含めて私なのですから、仕方ないのかもしれません。

 みゃあ、と、足元で猫が鳴きました。目を閉じると、遠くで電車が地を揺らす音が聞こえました。私のトラウマであり、私の大切な部品。眠れないことの何が問題か。猫を殺した重みの幻覚が、今の私に何を来したか。退屈に殺される前に殺すことのどこが不合理的か。このいずれもが、欠けてしまうことのないように、この町に暫く居付くとしましょう。

 目を開いた時、猫はいるでしょうか。もしいたとして、私はその猫をどうするでしょう。

 私は目を開きました。

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