第11話 イチハの物語

 行き倒れの名は、イチハといった。

「気付いたらここにいたの」

 以前いた場所の記憶はあるが、なぜここへ来たのかは思い出せないのだという。

 それまでは仕事ばかりだったから。毎日会社へ行って、残業して遅くに帰宅。とても自炊する気力はなく、閉店間際のスーパーやコンビニで惣菜を買って帰る。休日には死んだように眠りこける。といって、仕事もぱっとしない事務仕事でひたすらテンプレの書類を作成してまとめるばかり。スキルといえばブラインドタッチが速いってくらい。だけど、そんなのここではくその役にも立たないよね。とくに趣味もなかったから、もとの世界の知識を生かして活躍したりもできない。たとえば、アロマオイルを手作りするとか、家電を発明したりとか。チートスキルどころか、基本的な生活能力もないの。炊事洗濯さえろくにできない。三十でこれでは、この世界じゃあ終わってるよね。

「えっ。さんじゅっさい?!」

 思わず声を上げると、行き倒れイチハがじろりと睨んだ。赤い目が据わってる。旅人ドゥークが葡萄から作った酒をがばがば飲んだ挙句、ひとりくだを巻いている。

「ここでは幼少時から家業を手伝ったり、就学年齢には職に就いたりするからね。十代のうちに大抵結婚するし。皆大人びてるよね。それにもとの世界では質のいい化粧品もたくさんあるからね」

 ああー化粧品作れたらぼろ儲けだよなあ、むりーつくれなあい。そう言ってイチハはまた葡萄酒を流し込む。

 けど、改めて気付いちゃったんだよね。私ここでは何もないけれど、もとの世界に戻ったって結局同じじゃん。アラサーのなあんにもない女よ。

「だから私は迷ってる。もとの世界に戻るかどうか」

 焚き火の炎を挟んで、イチハの顔がぐにゃりと歪んで見えた。

 そんな何もないイチハを救ってくれた人がいた。

 最初に目を覚ました場所が村の中で本当によかったわ。この世界ではどこの村も要塞のようにぐるりと柵で囲まれていて、通行証やなんかがなければ中に入ることもできないから。まったく情報もないまま荒野を彷徨うことになっていたら、あっという間に野垂れ死ぬところだった。

 といっても、何もできない年増女の世話してくれる人なんていなくて、露店の食べ物をくすねたり、空き家に忍び込んで雨風をしのいでいた。凍えそうだった。

 一週間を過ぎる頃には衰弱して、水を汲みに出た泉のほとりでぶっ倒れていたところを、保護されたの。

 気絶して、次に目を覚ましたのはあたたかい布団の中だった。

 木樵の男と、その老母が二人で暮らす、村はずれの小さな家。おかあさんの作る茸スープはとてもあったかくて美味しかったな。木樵は適齢期をとうに過ぎたのに、木を伐るか本を読んでいるばかりで、ちっとも嫁を探そうともしない。おかあさんはよくぼやいていたけれど、二人はとても幸せそうだった。そこで私はこの世界のことや、文字や料理なんかを学んだ。木樵は言葉は少なかったけれど、何も知らない私の質問に根気よく丁寧に答えてくれて、彼が出掛ける際にはいつも一緒について行った。恋に落ちるのにそう時間は掛からなかった。

 私達は結婚を決めた。おかあさんはすごく嬉しそうだった。私も彼女の娘になることが嬉しかった。彼が目を細めて微笑む。ささやかな結婚式に向けてこつこつ準備を進めた。とても満たされていた。

 だのに。結婚式当日の朝、私は村を追放された。村の警備隊が私を取り囲み、「魔女」だの「化け物」だの責め立てた。私がこの世界の人間ではないことが露見したのだ。

 ――どうしてばれたの? 僕はイチハに尋ねた。イチハの姿はここの人間の姿かたちと何も変わるところがないのに。

「ハートを持っていなかったからよ」

 イチハは言った。

「この世界の生き物ならば、必ずハートを持っている。一欠片だけでもね。ハートがゼロになるのは死んだ時だけ。だからハートを持たずに生きる存在などありえないのよ」

「でも、姿も同じで話もできて心もある。なのにそれっぽっちのことでつまはじきにするなんて。ひどいや。木樵は助けてくれなかったの?」

 僕が憤慨すると、イチハは目を伏せて小さく笑った。

「彼よ」

「え?」

「木樵が警備隊に密告したのよ」

 結婚の儀は、互いのハートを交換することにより執り行われる。それを知ったのは式の前夜だった。持っていないと言うと、彼はひゅっと息をのんだ。翌朝、警備隊が小さな家を取り囲んだ時、彼の姿を探したけれど、どこにもいなかった。

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