(七) 約束

 翌日、俺は関東に戻った。蒸し暑かったのもあって、なんだか狐に誑かされたかのような、そんな里帰りだった。そのあやふやも、こちらの曖昧な夏じゃ相も変わらず解決しない。果たして叔父さんが彼女を釣ったのか、彼女が叔父さんを釣ったのか——なんてくだらないことを考えながら、俺はモンワリした部屋の空気を一新すべく、窓を開ける。


 すると、慣れない雨の香りが鼻を包むのを感じた。どうやら昨夜は大雨だったらしく、その残り香であるようだ。そして俺は、それと同時に、あの日の香りを思い出す。また広大な海の情景と、叔父さんのたくましい背中を思い出す。


突き抜けた笑いが込み上げた。やっと思い出した。そうだ。


 俺が小学四年生の頃、叔父さんは家に篭もりがちだった。ある日俺はどうしても海が見たくなって、親父に懇願して、そうしたら面倒がった親父が、叔父さんに俺の子守りを押し付けた。俺があまりに煩いもんだから、叔父さんもなくなく重たい腰を上げて、白ワゴンを出してくれた。


どうやら叔父さんは、海まで行くのが面倒だったらしく、近場の川——例の川で誤魔化そうとしていた。しかし前日が雨だったので地面がぬかるみ、海に向かうほかなかった。


広くて青い海を見て、当時の俺はもうそれはそれは喜んだ。だが、叔父さんはそうでもなかった。だから俺がせっついた。


「そんなんだと、デブになるよ!」

「そうかもな」

「いつもそうなの?」

「いいや、釣りが趣味だよ」

「じゃあ釣れよ!」

「なんでよ」

「もったいないじゃん、こんな綺麗な海」


叔父さんは舌打ちをして、遠くを見つめた。


「ここは、だいたい釣ったからさあ」

「人魚とかいるかもよ!!」

「人魚だ?」

「めっちゃ綺麗な女の人がつれるかもしれない!」


叔父さんは苦しそうに笑って、


「釣ってどうすんの」

「結婚しなよ」


今思い返すと、とても酷いことを言っている。


「やだよ」

「じゃあ俺がつるよ?」

「つれないよ」

「叔父さんに釣れなくても、俺が先につるもん!で、俺が先に結婚するから」

「いやいやいや」

「俺の方が叔父さんより絶対格好いいもん!」


そこで、叔父さんの目付きが変わったんだ。


「じゃあ、約束な」

「なにが?」


叔父さんは数歩前に歩いてから、海を眺める。俺はそのたくましい背中を、後ろから見る。雨と潮の香りが混ざる。



「お前よりも先に、可愛いお嫁さんと結婚してやるよ」

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