(二) 川

 翌朝。俺は寝ぼけたまま、パジャマを着替えた。対する叔父さんは、俺が起きた頃には既に車のエンジンをかけて、クーラーをきかせ始めていた。身支度も終わり、俺が車に乗り込むと、中はひんやり快適だった。が、叔父さんの白いワゴンは、砂を被っているのと年季が入っているのとで、お世辞にも綺麗とは言えなかったし、なんか変な匂いだってした。


「買い替えれば」


俺の提案にうんともすんともいわず、叔父さんは車を走らせた。しかし、海に向かうはずの車は何故か山へと走り出し、狭くて急な坂道を登り出す。俺は不思議に思って、叔父さんに行き先を確認しようとしたが、叔父さんの低く長い痰の絡んだ咳が、それを許さない雰囲気を醸し出す。また叔父さんの目は据わっていて、なんならそこだけ見る限りは居眠り運転しているようにも見える。


 次に車が止まったのは案の定山の中、それも海が見えないほどの小路の奥深くだった。そこでは虫が酷くとんでいて、四方からのセミの声がうるさくて、かと言って木々から離れると、全身からの汗が止まらない。否、この汗は怖くて出ているのかもしれない。


叔父さんは俺の震えにも目を留めず、釣具を持ったまま、ひょいひょい草を掻き分ける。やっぱり怖かったが、でもふと空気が妙に涼しくなったのを感じて、俺の気持ちも自ずと和らぐ。


 川だ。幅7-10mくらいの、深さは膝元くらいのせせらぎが、急に眼前に現れた。叔父さんはその流れの淵にまで足をすすめると、釣具を出すわけでもなく、ただ腰を下ろして汗を拭いた。


「ここ、魚いるの?」

「……魚はいない」

「じゃあなに」

「かっぱ」

「は?」

「ウソ、人魚」

「いやいやいや」

「人魚はほんとだよ」


目が据わっているというのは語弊がある表現だったと、俺はその時気づいた。叔父さんの目はただただ真っ直ぐひたむきで、どうやら川中のそれを捜しているようだった。


「五年前の夏、急に出てきやがったんだ」

「人魚が?」

「ああ。それで『海の魚を食わせてくれたら、お前を夫に貰ってやる』だと」


叔父さんの離婚は、俺が小学生か幼稚園の頃だったか。もう覚えていないけれど、なんとなくそれ以来、叔父さんの家での肩身は狭くなっていった気がする。


「まさか、それっきり?」

「ああ」

「熱中症かなんかの、幻覚だろ。蜃気楼とか」


俺のその言葉に、叔父さんはだんまりを決め込んだ。そうして上流と下流を交互に見渡してから、


「だといいんだけどな」


と笑った。

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