第7話

「スミ? あんた、大丈夫なの?」

 久々に聞く前田のおばちゃんの声は上ずっていた。この一時間足らずで、着信が二十件。心配をかけたことに罪悪感を抱く一方で、心配してもらえたうれしさが満ちる。

「私は大丈夫。あんなふうに大々的に顔と名前が出たのは面食らったけど」

「心臓が止まるかと思ったわ」

 物々しい武器を構えた隊員たちが、私を取り囲んでいる。

 ここは洞窟の内部だ。佐久間たちが「水脈」に乗り込み、命を落とした場所。相変わらず白々とした壁が目を射る。

 私はこれから「水脈」へ赴くのだ。そして自爆する。この作戦が功を奏してもそうでなくても、私の命はないだろう。だからこそ、こうして電話を一本だけ掛けなおすことを許されたのだ。

「ごめんねおばちゃん、もう時間がないの。だから、そろそろ――」

「あのね、スミ」

 おばちゃんのいつにない声音に息をのむ。こんな声は久々に聞いた――私が『ミズカラ』に入り込まれ、包丁を持ち出した夜以来だ。

「私はここで待ってるからね。いつでも帰ってきていいんよ。国中で何といわれたって、この場所だけはあんたの味方だからね」

 自分で、目が泳ぐのが分かった。左、右、それから左。桜庭さんなら、私の目が泳いだ回数をカウントしていただろう。

 やっとの思いで「うん。ありがとう」の七文字を絞り出し、通話を切った。

「もういいのか」

 屈強な隊員が尋ねてくる。その声に含まれたわずかな憐憫に吐き気がした。

「ええ」

 私は誰の方も見ずに言う。ここから先は、もう誰も頼らない。

 私の通話が終わったのを確認したのか、正面からにやけ面の男が近づいてくる。よく見知った、黒宮の後釜に収まった人間の顔だ。

「では防護服に着替えていただきましょう。もっとも、どこまで意味があるのかは疑問ですが」

「立派な指揮官ぶりじゃないの。港くん」

 港青年は褒められでもしたように「でしょう」と言う。機械に強く、頼れる技術者だった男は、今やどこから見てもマッドでサイコな人間だ。

「この二か月で自由にやらせてもらいましたよ。念願だった、カゲに入り込まれた人間の解剖もできました――あ、それは大場さんの功績も大きいですね。僕が切り刻めたのは『美鈴』さんなんですから」

「あんたがどこで何しようが知ったこっちゃない。でも、私をここまで引っ張り出すなんて、性格悪すぎね」

「ずっと本性を隠していた大場さんの言える台詞ではないですね。我々はどこかしら異常なんですよ。なんせ、カゲを体内で飼ってるんですから」

 カゲを飼っている――桜庭さんが聞いたら、鼻で笑いそうな言葉だ。もし港青年に、桜庭さんの仮説を伝えたらどうなるだろう。私たちは『ミズカラ』を抑え込めた人間ではなく、たまたま人間のころの記憶を色濃く受け継いでしまっただけの『ミズカラ』なのだ――。今の港青年なら発狂するかもしれない。実験をしたすぎて。あるいは、興味深すぎて。

「さあ、そこで着替えてください。万全を期すために、防護服の下に着用していいのは下着だけですよ」

「あなたが言う『そこ』っていうのは、つまり『この場』ってことなのかしら」

「それ以外に何があります? 更衣室でもあると思ったんですか?」

 私にはもはや人権などないらしい。銃を構える隊員たちが周りを囲む中で、何が楽しくてストリップショーをしなければならないのだ。でも、選択肢などとうにない。

 私はシャツのボタンをすべて外し、袖を抜いた。勢い、キャミソールも脱ぎ捨てる。ベルトを外してスキニージーンズをひざ下まで下げる。

「早く防護服を持ってきなさいよ、ばか」

 港青年はにたにたと笑ったままだった。これが彼の本性なのだ。洞窟の謎を解明するために奮闘し、佐久間を助けようと指示を出していた青年はもういない。

 隊員が防護服を差し出してくる。私は顔も見ずに服をひったくった。何もかもが屈辱的だ。

「どうして私が『戻ってきた者』だと分かったの」

 そう聞いたのは、興味半分、服を着るまでの間を持たせる意味が半分だった。

「黒宮の遺体を見れば一目瞭然です」

「そんなことないわ。あの晩、あそこへ私が呼ばれていたことを知っていた人間がどれだけいるのかしら。もしかしたら『ハゲタカ』を助けに来たレジスタンスの仕業かもしれないわけでしょう?」

「ふむ」

 港青年は顎に手を当てた。クイズを出された子どものようだ。

 彼は言う。

「あの時点で、僕らが水をかぶることでパワーアップすることなんて、誰も知らなかった。なのに、カゲたちの襲来を受けた際にあなたはペットボトルを投げてよこした。どうです? これだけで十分でしょう?」

 十分に予想できた答えだった。私は返事をしない。ヘルメットの金具がかちりと音を立てる。防護服の中に酸素が満ちた。港青年が私を見て満足げにうなずく。

「さて、準備完了。佐久間たちのときと同じようなテストは、もう不要でしょう」

 にこやかな、狂気をはらんだ笑みがヘルメットの向こうに広がっている。

「どうせ生きては帰れないんだ」

 私は自動ドアを抜け、クレーンアームまで押しやられた。事前に水でもかぶっておいたのか、身体に力を入れて抵抗しても港青年はびくともしない。

「結局あなたは『運び屋』にすぎません。爆薬だけをこの滝に落としても、『水脈』へたどり着く前に誤爆して岩肌を削るのが関の山ですから。ほら、こうして首元に括り付けておけば誤爆のリスクは一気に減る。人間は頭を守りますからね」

 今日の天気を説明するような声色。

「あんたって、本当最低よね」

「光栄です」

 次の瞬間、私は激流に呑まれていた。港青年が谷へと突き落としたのだ、と気づくまでに時間はそうかからなかった。

 命綱など装着していない。

 私はたった一人で、滝つぼへと落ちていくのだ。

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