第3話
『保護スーツのサーモ正常。空気圧を調整します』
人工音声が白々しく響く。それと同時に、私の右隣から、シューッという音が聞こえた。
「お、空気が入って来た」
くぐもった佐久間の声が聞こえる。そちらを見ると、大昔の潜水服のようなヘルメットの向こうで、佐久間が微笑んでいた。
「元気そうね。不安じゃないの?」
「今さら不安になってもしょうがない。楽しもうぜ。いざ、人類未踏の地へ」
「その精神力がうらやましいわ。周りを見てよ。笑ってるのなんてあなただけ」
無機質な白い壁に囲まれて、いくつもの精密機器が作動している。その中を、隊員たちが右往左往していた。港青年などは、目の下に隈を作ってコンピュータとにらめっこをしている。昨日から泊まり込みなのだ。
私は正面の巨大な窓に目を向ける。壁一面が強化ガラス製だ。中央の一部だけ、開閉ができるよう自動扉になっている。そして、ガラスの向こうには、荒々しい岩盤の群れに、深い谷が口を開けていた。その谷に向かうように、巨大なアームが三台備え付けられている。
振り返って反対側の壁を見つめる。頑強な鉄製のシャッターが二つ閉ざされ、外部の音は一切聞こえない。その向こうには、銃器を構えた隊員たちが五名ほどいるはずだ――『ミズカラ』の侵入を防ぐために。
「俺はあのアームで吊るされるわけだな。まるでバンジージャンプだ」
「バンジーとは比べ物にならないほど頑丈よ。特注のワイヤーを使ってるんだから」
「安全性は心配してないよ。ただ、釣られたブラックバスの気分が味わえそうだ」
この白い部屋は、『ミズカラ』たちのいる洞窟の内部に作られた。そして、私たちの眼前に開けた谷は、水脈へとつながっている。
これから、佐久間を含む三名の隊員が、水脈へと踏み入るのだ。
「不満を言わないの。この設備を作るのに、どれだけの犠牲が払われたか」
「ま、それもそうだな。軽口には気を付けよう」
実験場所を確保するために綿密な検討がなされた。『ミズカラ』の出現率、洞窟内の広さ、水脈へのアクセス。それらをクリアしたのがこの場所だったのだ。
洞窟への入口は、巨大な灯台である。地下へ降りる階段は閉ざされ、数字合わせ式の錠前が掛けられているのだが、ある特定の番号――開錠の番号とは異なる数字――を合わせることで、この洞窟へつながるのだ。
水脈への踏査実験がこの洞窟で実施されると決まってから、幾人もの隊員たちが資材や工具を運び込み、この実験設備を作り上げたのである。壁の組みあがっていない当初は、護衛と作業に分かれ、『ミズカラ』を退けながらの建設だった。正確な数字は知りえないが、どれだけの犠牲が払われたのか、想像に難くない。
「あ、う」
佐久間が苦しそうな声を上げる。
「どうしたの?」
空気の供給が途絶でもしたのだろうか。それとも、サーモスタットが故障して、スーツ内の温度が急上昇でもしたのだろうか。瞬時にそんな想像が脳裏をよぎり、私は慌てた。
「鼻がかゆい」
佐久間の一言に、全身を覆っていた緊張が一気に弛緩する。
「そんなの我慢しなさいよ」
「いや、これ着てみたら分かるよ。思うように顔を触れないって、なかなかつらいんだぜ」
「想像つくわよ。心臓に悪いから、本当に変なこと言うのはやめて」
佐久間はくっくっと笑い声をもらした。私のことを元気づけようとしている――あるいは緊張をほぐそうとしているのは分かる。だが、時と場合をわきまえてほしい。
耳障りな軋みを立て、鉄のシャッターが片方開いた。銃を抱えた隊員に囲まれるようにして、黒宮が入って来る。
「順調かね」
港青年が立ち上がり、「ええ。まあ」とうなずいた。
そのまま彼は、準備の進行について簡単に説明する。黒宮は軽くうなずいた後、私たちのもとへと向かってきた。
「もうすぐ出発だな。どうだ」
「元気もりもりです」
佐久間は調子を崩さない。黒宮が口角を片側だけ上げて笑った。
「これは最重要かつ史上初の実験だ。洞窟の解明が君の肩にかかっている。頼むぞ」
「俺だけじゃないです。RL姉弟の同行が頼もしいですよ」
「もちろんだ」
佐久間は一人で行くわけではない。アームは三台、つまり、一度に三名までを水脈へと送り込むことができる。今回佐久間のほかに選ばれたのは、桐谷みぎりと桐谷左京の姉弟だった。桐谷みぎりはいかなる場面でも冷静沈着であり、判断が素早い。予期せぬ事態が起きたとき、退却する勇気を持ち合わせている。実験と人命の優先順位について、かなり的確なバランス感覚を有していると私は考えていた。だからこそ、彼女の同行は心強い。一人で突っ走りがちな佐久間を、きっと引きとめてくれるはずだ。
左京は射撃の名手として、隊員たちの中でも有名だった。一度だけ私は同じ任務に配置されたことがあったが、百メートル以上離れた『ミズカラ』たちを制圧したのはすさまじかった。後方支援としてこれほど頼もしい人間はいない。
隊員たちは、彼ら姉弟のことを、親愛を込めてRL姉弟と呼んだ。みぎりと左京、だからRとL、という安直なネーミングだ。
佐久間と同じように、RL姉弟も保護スーツへと着替え終わり、温度調節と空気供給が正常に動作したようだ。ガチャリガチャリと重そうな音を立てて歩いてくる。
黒宮は「では」と言い残し、足早にそちらへと向かった。RL姉弟に先ほどと同じような言葉をかけているのを見て、佐久間が鼻を鳴らす。
「何が『君の肩にかかっている』だよ。人を使い捨ての駒としか思ってないくせに」
「しっ、聞こえるわよ」
佐久間の肩をこづく。彼が黒宮のことをよく思っていないのは知っていたが、今ここでそんな態度を取られるのは好ましくない。
「分かってる。まずは任務だ」
「ええ、無事を――」
「大丈夫、必ず生きて帰って来る!」
そう言って、「なはは」と相好を崩した。
「ちょっとくさかったかな」
ビーッというサイレンと共に、人工音声が再び流れ出した。
『アーム動作異常なし。ワイヤー設置完了。これより実験を開始します』
佐久間が私の肩に手を置いた。ヘルメットの中で、彼の金髪が揺れるのが見える。
「じゃあ、一丁釣られてくる」
返事を待たずに、彼はアームの方へと歩いて行ってしまう。その後ろをRL姉弟が続く。
自動扉を抜け、強化ガラスの向こう側へと踏み込んだ三人に、アームの操作を担当する隊員たちがてきぱきとワイヤーを取り付けていく。
「三人とも聞こえますか? 聞こえたら返事をお願いします」
港青年がヘッドマイクを通して声を掛ける。
室内に設置されたスピーカーにザザッとノイズが走り、RL姉弟の『異常なし』という声がそろって流れた。佐久間はマイクのスイッチを探し当てるのにもたついていたが、やがて『こっちも大丈夫だぁ』と能天気な声を響かせた。
港青年は巨大なモニターを三台起動させる。
「次にカメラのテストです。ちょっと辺りを見回してみてください」
三人のヘルメットに取り付けられたカメラから、モニターに映像が送られてくるのだ。画質がいいとは言えないが動きのカクつきは少なく、ある程度の状況は見て取れる。今モニターには、深い谷を覗き込む映像、周囲の岩壁やアームを見回す映像、そして近くにいる隊員にピースサインを要求している映像が表示されている――最後のは佐久間のカメラだ。
「通信デバイスも万事OK。いつでも行けます」
そう言って港青年は黒宮へとヘッドマイクを渡す。黒宮は咳ばらいをした。
「三人には大きなリスクを背負わせてしまうことになるが、これは洞窟調査の大きな一歩となる。やがては、若者を守り、カゲたちを駆逐し、犯罪を減らすことにつながるはずだ。心身をすり減らして準備に当たってくれた者たちにも感謝する。――では、始めよう」
鈍い音を立ててアームが動いた。佐久間らの足が地面を離れ、吊り下がる格好になる。そのままアームは伸び、三人の体は谷の中央へと移動した。
『わはは、これ結構怖い。UFOキャッチャーだ』
佐久間は相変わらずだ。モニターを見ると、果てしない闇が彼らの足元に口を開けていた。
『降下を開始します』
人工音声が流れると同時に、ワイヤーがゆっくりと降り始める。想像以上に緩慢な動きだが、これ以上速いと人体によくないらしい。
私は、固唾をのんで見守っている港青年へと近寄った。私が何か言う前に、彼は口を開いた。
「もうしばらく下降すると水流に行き当たるはずです。地面はなだらかに傾斜していて凹凸もない。スライダー方式でその中を通り抜けると、いよいよ水脈です」
「異次元に突入するわけね」
「ええ。ただ、異次元にあると言っても、ワイヤーが断絶するわけではありません。空間を超えるだけで物質的にはつながったままです。だから、こちらで巻き取れば、佐久間さんたちを異次元から引き戻すことができる」
「少しでも危険を感じたら、頼むわね」
「もちろん」
ほどなくして、スピーカーから流水の音が響き始めた。
『水が見えた。俺はもう岩場に足が着くぞ』
佐久間が言い、ワイヤーが一旦動きを止めた。
『こちらも岩場に到着。周囲、装備に異常なし』
これは桐谷みぎりだ。
『適当な岩場が見つからない。アームを少し左に寄せてもらえるだろうか』
桐谷左京の声。耳をふさぎたくなるような音をたて、アームがわずかに位置を変えた。
モニターを見ると、左京の足が岩場へ伸ばされている。
『OK、ありがとう。こちらも到着だ』
港青年がマイクのスイッチを入れる。
「では、そのまま滑って行ってください。速度はワイヤーで調整されますから、無茶な動きさえしなければ危険はありません」
『了解』
三人の声が重なる。スピーカーからの流水音がさらに大きくなり、モニターには水の中をくぐり抜けて滑っていく様子が映し出された。ウォータースライダーを主観カメラで撮影したらこんなふうなのだろう。
『フゥーーーーー』
佐久間が間抜けな声を上げている。私は頭を抱えた。
「およそ十秒で異次元突入です」
PC上のグラフとにらめっこしていた港青年が言う。
「五、四、三、二、一――」
モニター上に軽いノイズが走り、三人は暗闇の中へと転がり込んだ。流水の音が遠ざかり、代わりにぴちょん、ぴちょんという水音だけがやたらと響く。
『平らな場所に出た』
佐久間が言う。みぎりのカメラに、銃を構えて警戒する左京の姿がうっすら映っている。ざぶり、ざぶりと音がするので、彼らの足元には水が溜まっているのだろう。
「暗いので、ライトを作動させてはどうでしょう」
港青年がそう伝えると、佐久間は『暗いって?』と反応した。
『むしろまぶしいくらいだぜ。一面真っ白だ。真っ白な――なんて言うんだ、神殿?』
モニターを見つめている隊員たちがざわつく。佐久間たちには何が見えているのというのだ。
「こちらには、暗い空間しか見えていません。桐谷さんたちはどうですか」
『私も佐久間さんと同じ。とても広い場所です。石畳の床に、大きな柱が複数本。正面に、石段があります。すべてが真っ白』
『ええ。僕にもそう見えています』
三人には、共通して真っ白な神殿が見えているらしい。しかし、モニターは相変わらず暗い洞窟を映しているだけだ。
「皆さんの足元に水があります。カゲたちが出てくるかもしれません」
『水?』
三人の声がそろった。膝まで溜まった水をかき分けて進んでいるのに、まさかそれにも気付いていないのか。
「そうです。水が溜ま――」
ガンッと音が響いた。室内の全員が振り返る。右側のシャッターが、こちら側へ歪んでいた。
もう一度、ガンッという音。そして、シャッターがさらに膨らんだ。
「襲撃だ」
誰かが言い、隊員たちが各々の武器を取る。見張り役の五人はどうなったのだろうか。私は想像するのをやめた。近くにあったペットボトルを手に取る。
私はまだ誰にも『ミズカラ』の力のことを話していない。余計な混乱は起こすべきでないと思ったからだ。しかし最悪の場合、ここで力を行使する必要があるだろう。
『なんだこれは、扉か?』
佐久間の声が聞こえる。しかし、今はモニターへ目を向けている余裕がない。
「不用意に開けないでくださいよ」
港青年が釘を刺している。
メリ、とシャッターが裂けた。
そこから黒い腕が伸びる。その指先から赤い液体が垂れた。
近くの隊員が斧を構えて近づき、その腕を切断した。ぎょおお、という声が聞こえ、床に転がった腕はしばらくのたうった後に水へと還った。
間を置かず、別の黒い腕がシャッターの裂け目から突き出された。それは斧を持った隊員の顔面を貫き、灰色の脳漿を握った指先が後頭部から現れた。
タラララ、という音を響かせ、別の隊員が発砲する。
「ばか、撃つな」
誰かの制止する声が聞こえる。しかしシャッターには穴が穿たれ、そこを引き裂くようにして、何匹もの『ミズカラ』が侵入を試み始めた。
「佐久間さん、開けてはだめですっ」
港青年の声に、私はたまらずモニターを振り返った。
暗い洞窟で、何もない空間に佐久間が手を伸ばしていた。何かに魅入られたように、恍惚とした声を出している。
『だって、これ、ほら、こんなに光って――』
「佐久間さんっ」
モニターの中で、佐久間の脇に立っていた左京の身体が、突然浮かび上がった。何かにつかまれたような動きだ。
『あああああっ』
左京が悲鳴を上げ、その腰元から懐中電灯が滑り落ちた。その拍子にスイッチが入ったのだろう、水に浮かびながら周囲を照らし出す。
港青年は言葉もなく立ち尽くしていた。
佐久間たちの周囲を、無数の『ミズカラ』が囲い込んでいたからだ。
暗闇に手を伸ばす佐久間を映し出していた画面が大きく揺れた。とてつもない勢いで後方へと移動し、砂嵐に変わる。みぎりも『ミズカラ』たちに捕まったのだ。
残る映像はただ一つ、佐久間のものだけとなった。『ミズカラ』たちがうごめく中で、佐久間の両腕が何もない空間をまさぐっている。
「早くっ、ワイヤーを巻けっ」
港青年が叫び、その襟首を一匹の『ミズカラ』がつかんだ。本部はすでに3匹の『ミズカラ』に侵入を許していた。
私は叫ぶ。
「港くんっ」
ペットボトルを放った。港青年は『ミズカラ』に引きずられながらそれを受け取る。
『あ、開いた――』
佐久間の怪しい呂律。
港青年は水を頭から振りかける。
彼の足を握る『ミズカラ』が拳を振り上げる。
別の『ミズカラ』が、隊員の足を潰す。
ワイヤーが巻き上がる。
耳をつんざく音。
港青年が『ミズカラ』の頭部を潰した。
ワイヤーが佐久間を吊り上げる。
けたたましい音が鳴る。
隊員たちが発砲した。
2匹目の『ミズカラ』が水に還る。
シャッターを潜り抜けようとしている『ミズカラ』たち。
制圧のために隊員たちが発砲する。
港青年が3匹目の頭部も潰した。
力なくワイヤーにぶら下がる佐久間を、整備班の隊員たちが下ろす。
「無事?」
私は港青年に問いかける。
「無事」
彼は答える。
港青年もまた、『ミズカラ』に入り込まれるもそれを制圧した存在。
皆は彼を『戻ってきた者』と呼んだ。
意識を失っているらしい佐久間を、隊員たちが三人がかりで本部へ運び込む。
『呼吸停止。ただちに救命措置を』
人工音声。
私は彼に駆け寄る。
隊員の一人が、佐久間のヘルメットを脱がした。
誰かが悲鳴を上げた。
佐久間の顔面に、無数の指が生えている。
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