第2話
ワイングラスに注がれたシャンパンからは、細かな泡がふつふつと上っていた。
店内のジャズに身をゆだねているうちに、いつの間にか見入ってしまっていたらしい。
「改めて、任務完了おめでとう」
低い声に、はっと我に返る。
顔を上げると、正面に座った黒宮がグラスを差し出している。慌てて私もグラスを手に取り、彼のものに軽くぶつけた。キン、という涼しげな音がする。
「あれだけスムーズに実行できたのは、港くんのおかげです。機械を使う以上、その方面に長けた人材は貴重ですから」
「ああ。聞くところによると、他のチームでは機材系のトラブルに巻き込まれたところが少なくなかったらしい。対応できる人間がいるかどうかで、今回の実験は明暗が分かれたようだな」
「港くん自身は、そういった人材をもっと引き込んではどうかと思っているみたいですよ」
「至極もっともだ。国の事業である以上、限界はあるがね。進言する価値はあるだろう」
黒宮の言葉を聞き、私はほっとする。これで港青年との約束は果たせたわけだ。
黒宮は、洞窟関係の実務において実質トップの座に君臨していると言っていい。私たち実働部隊と、国の偉い方々の橋渡し役とも言える。要は、こちらの要望を伝える役目も、無茶な指示を跳ね返す役目も、彼が背負っているわけだ。
いつも変わらぬ黒スーツ姿。髪をオールバックに固め、二本だけが前に飛び出している。
周囲の仲間たちの、彼に対する印象はまちまちだ。「冷静」と見る者もいれば、「冷酷」と見る者もいる。
目の前に前菜が運ばれてくる。料理の説明は、私にとってちんぷんかんぷんだ。魚介系のマリネだということは分かった。慣れないドレス、慣れないレストラン、すでにお腹はいっぱいになりかけていた。
まどろっこしいのは苦手だ。黒宮は嫌がるかもしれないが、単刀直入に尋ねたい。
「それで、今日私をお呼びくださったのには、どんな理由が?」
黒宮はわずかに笑みを浮かべた。めったに見せない表情だ。
「任務のお疲れ様会、ではだめかね?」
「それだと港くんと佐久間も呼んであげないと」
「それもそうか。まあ、まずは食べたまえよ。腹が減っては頭も働かん」
勧められるまま、フォークを手に取る。外側に並んでいるものから使うのだ、とネット上の解説には書いてあった。
マリネとやらを口に押し込み、その美味に感動している私を見て、黒宮は微笑を浮かべた。珍しい顔ばかり見せられているような気がする。今日は彼の表情筋が緩んでいるのかもしれない。
「要件は二つだ」
黒宮は、静かにフォークを動かしながら話し始めた。
「ええ」
「今回の実験成果として、各地にある洞窟の水脈がつながっているであろうことが分かった。国内で確認されている洞窟は全部で三十二箇所。そのうち二箇所が機材アクシデントで実験不可。一箇所が、発信機を流すほどの水流を見つけられず実験不可。残りの二十九箇所で、水脈はつながっていた。実験できた洞窟としては百パーセント。残りの三箇所も、十中八九つながっているだろう」
黒宮は胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
黒地に赤い点。発信機の所在を示すデータだ。黒い日本地図上で、赤い点が一箇所に集まっている。
「東海の辺りですか?」
「いや。これは平面だから分かりづらいが、解析の結果、空中にあることが分かった」
「空中?」
「そのとおり。地面でも地下でも海中でもなく、空中に浮かんでいる。これはつまり、一種のバグだ。発信機が一箇所に集まっているのは間違いないが、それを座標上に特定できない。水源は、『ここではない世界』にあるんだ」
「異次元、ということですか」
「そう言った方が理解しやすいね」
二十九の水脈はつながっていて、どこかに水源がある。しかしそれは、ここではない別の次元にある。
出来の悪いSF映画を観ているようだ。
「目下、映像の解析を進めている。案の定、暗闇しか映っていなさそうだがね。それが済んだら、いよいよ誰かを送り込む」
「人を、ですか?」
「ああ。上はそれを望んでいる」
「少し性急な印象を受けますが。その場所が異次元であるというならば、空気中の成分にしても生物の存在にしても、より詳細な調査が求められると思います」
黒宮は「違いない」とうなずいた。
「無論、私の方からも反論はしておいた。だが、どうにも裏事情があるらしい」
「大人の汚い世界ですね」
「政治のことはよく分からんし、我々は介入する立場にない。ただ、この件に関しては覆すのが難しそうだ」
「今日、私を招待していただいたのは、実地調査の打診というわけですか」
「いや、違う。現時点の個人的な思いだが、それは佐久間にお願いできればと思っている」
なるほど、と腑に落ちた。佐久間の所属するチームBを率いているのは私だ。要は、チームリーダーの了解を取った体で、佐久間に話を回したいのだろう。
「佐久間はチームに不可欠の人材です」
「君がそう言うのも分かっていた。だが、他のチームも含め、候補となりうる人間を考えてみるといい。佐久間以上の適任はいるだろうか?」
それは私もうなずけるところだ。人を牽引する力。それと、個々あるいは組織の事情をくみ取れるバランス力。何より、肉体的にも精神的にも健康だ。
何か反論に使える素材はないだろうか。必死に頭を巡らせるが、結果は芳しくない。それどころか、彼が適任だと言える証拠ばかりが浮かび上がる。
未婚。子どももいない。両親も、早くに亡くしたと言っていた。何より、一芸に秀でていない――たとえば港青年ならば、情報機器関係の部署からストップがかかるだろう。残酷だが、それが現実なのだ。
「君が止めたいのも分かる。この1年、同じチームメンバーとして活動してきた仲間だ。君個人としても、ただの他人で済まない思いもあるだろう」
黒宮はどこまで知っているのだろうか。この人のことだから、私と佐久間の関係まで把握したうえでこの話を持ち掛けている気もする。
無茶な指令を受け、気落ちしている時に肩を叩かれたこと。その任務を無事に終え、彼が見せた笑顔。ベッドの中で見せた、想像以上にあどけない寝顔。
「それが一つ目の話というわけですね」
私には、話を逸らすだけで精いっぱいだった。しかし、黒宮はそれをものともしない。
「その一つ目の話題について、了解を得たと私は公言していいわけかい?」
「いいえ」
「ならば、チームリーダーの反対を受けた、と伝えよう。その上で、本人の許諾を得る」
短くため息をつく。佐久間ならば、笑って任務を受けるだろう。そして、私が反対した理由にも思いを馳せ、後でフォローに訪れるはずだ。絶対大丈夫、生きて帰って来る、そんなようなセリフを吐いて。
「二つ目の話とは?」
黒宮は不敵に笑った。
「単刀直入に言えば、我々の中にスパイがいる」
「スパイ?」
聞きなれない単語に、思わず聞き返す。
「上の人間は、隠語として『ハゲタカ』と呼んでいるようだがね」
「それは、レジスタンス関係ですか?」
この調査が国の事業である以上、強固な反対意見も存在する。特に偏った、強固な姿勢を示している団体がレジスタンスだ。
私たち国側は、洞窟の調査と解明を進めている。一方でレジスタンスの人間は「解明よりも対処を」をスローガンとしている節がある。要は、調査に人員と時間を割くよりも、まずは『呼ばれ』た人間たちの生存率上昇を第一とせよ、ということらしい。国としても、その問題を軽く扱っているつもりはないのだが、いかんせんレジスタンスの求める水準に達するには、払うべきコストが多すぎる。
「そのとおり。レジスタンスに情報をリークしている輩がいるようだ」
「情報とは?」
「どの洞窟にどれだけの人間が呼ばれているか。あるいは、調査の現状」
大方、国の対応にしびれを切らしたレジスタンスが、洞窟へ乗り込んだというところだろう。情報を不正に取得し、『呼ばれ』た人間たちを救出する自警団。それがレジスタンスの立ち位置だ。
「大場くん。君には、『ハゲタカ』をあぶり出してほしいと思ってね」
「なぜ私に」
「佐久間くんの件と同じだよ。君以上の適任はいるだろうか?」
私は口を閉じる。これ以上反論しても無駄だ。私には役割が振られ、それを全うするだけなのだ。
黒宮はポケットから一粒の錠剤を取り出した。
「これは市販の胃薬だがね」
それを自分のシャンパンへ落とす。錠剤は細かな泡を吐き出しながら、次第に形を失っていく。
「反体制的な感情は、目にも止まらぬ速さで拡大する」
錠剤はすでに、半分ほどの大きさまで溶解している。その粒を中心に、濁った輪がグラスの中で広がり始めていた。
「早急な対処が求められるわけだよ」
黒宮はグラスを手に取り、一息に飲み干した。まだかろうじて固形をとどめている錠剤をかみ砕く音がする。
「頼まれてくれるだろうか」
黒宮の真っ黒な瞳を覗き込んでいると、その揺るぎなさに不安がこみ上げる。私は、それとよく似た人を知っていた。
彼は、誰かを守ろうとするがゆえに、自分の手を汚したのだ。
私は深く息を吸い込み、「ええ」と答えた。
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