しゃり、かじる音。
鍵を回してドアを開ける。リビングの照明はついていないが、キッチンの小さな明かりがうっすら見える。今日もだ、今日も
「ひめちゃん、おかえり」俺の考えやら気遣いなんて知らないみたいに、太陽みたいに微笑む和。「りんごあるよ、今日は食べれそう?」
何だかそれが腹立たしくて――明確な理由なんてものはないけど――断った。「いや、いらない」
鞄はそこら辺に落としておく。どうせ明日も同じものを持っていけばいいし、どこにあったって何も変わらない。けど毎朝同じ場所にあるのは、やっぱり和がやってくれているんだろうな。罪悪感がひとつ落ちる。
着替えることなんてしないで、そのままベッドに入った。最近はもう寒い。内側から冷やされていくような社内と凍えそうな風が向かってくる屋外、それから、優しく温かく接してくれる和に嫌な態度をとった俺への嫌悪感。心も身体も、愛も、寒さに震えているようで。
何より、和の温度を断る俺のことがいちばん嫌いだった。俺がここまで疲れて帰ってくるから
使えない上司も常識のない後輩もできる新卒も、全部同じくらい嫌いだった。期限ギリギリで書類を俺に寄越すな老害、未だに俺にパソコンの使い方を聞くな四年目、俺より仕事ができるからってマウント取ってくるなガキ。年上の後輩が敬語を使わないのは百歩譲って許すとしても、子ども扱いしてくるのは気に食わない。年下の上司が笑顔で優しくしてくれるのは良いが、俺とお前じゃ担当が違うんだからわざわざ来るな。考え始めたらキリなんてない。こんな会社なら俺ひとりで回した方が良い、邪魔者がいなければこんな苦労なんてしないのに。
ゆっくり目を閉じて寝返りを打った。壁側を向いていると圧迫感を覚える。そんなものを感じるのなんて、会社だけで十分だ。
冬用のシーツに冬用の掛け布団、少し転がっていただけでも俺の体温が戻ってくるみたいだった。
カチャ、と小さな音が聞こえた。ドアが開いたのかもしれない。建付けが悪いこの家は、外の風が強いと勝手にドアが開いてしまうらしい。仕方ないから閉めに行こうか、しかしここまで眠れそうなのに起き上がるなんてしたくないし……。
「今日もがんばったね、ひめちゃん偉いね」
頬に優しく触れながら言う和は、もしかしたら俺がまだ寝ていないことに気付いていないのかもしれない。さらさらと、さっき果物にしたみたいに撫でてくれる。あんな風にあしらったのに、こいつはとことん甘やかしてくれる。
頬から和の手のひらの温度が溶けだして、俺の中に染み込んでいくみたいだった。癒される。なんてひとりでほのぼのしていると、その手が消えた。前髪を上げられたかと思えば、知っている柔らかな感触がやってきた。びっくりして目を開けそうにもなる。
「無理はしないでね……おれ、ひめちゃんが心配なんだよ」
それからしばらくは何もなかったけど、目の前にあった和の気配がふわっと消えた。リビングの方に戻る足音が聞こえた。目を開けて見れば、少しだけ開いたままのドアの向こうには、やっぱりキッチンの小さな明かりを感じる。それなのに、何だか、存在自体が消えてしまったように感じられて、寂しくなった。
おでこに手を当てて、でもやっぱりあいつはいるよな、なんてバカみたいなことを考える。……俺の恋人はどこまでかわいいんだ、俺が起きてることを知ってやってるのか? ぼうっとそんなことを考えていたらドアから差し込む光の筋が大きくなった。
「あれ、もしかして起こしちゃった?」
「……あぁ、いや別に」バレないようにさりげなく手を戻す。
「もし夜中にひめちゃんが起きちゃったら――って言っても、今ももう一時半だし夜中なんだけどね――お腹減ってるだろうからって、置いておこうかと思ったんだ」
和の手には林檎の載った皿がある。ラップはされているけど、こいつにとってそれは格闘だったんだろうな、なんて思わされるあとが残っている。それが何だか、愛おしい。
「ん、ありがと、今食べる」
「でも食欲ないんじゃ」
「いや、ちょっと寝たら腹空いたからさ」
ひとくちかじれば、しゃり、と音が鳴る。新鮮で蜜がたっぷり入った、甘い林檎だった。
――俺たちもこんな実なのかな。それなら、そうだ、早くしないと。この林檎が落ちてしまう前に、俺はこいつとふたりで笑い合えるようにしないと、並んで寝られるようにしないといけないんだ。
だから俺は、和の頬に触れて――。
お題:林檎/頬
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