ふたり、幸せに浸かる。

 外を見てみれば、思ったより紅葉が進んでいた。周りの木々が赤く色付いて、秋の訪れを強く感じる。隣にはのどかがにこにこしながらこっちを見ている。こいつはいつだって笑ってるけど、そんなに笑っていても飽きないもんなんだろうか。

「綺麗な秋が来てるよ、すぐそこだよ!」

 今日のこいつはいつもより何倍もテンションが高い。何故かって言えば、ここがバスの中であって、向かう先が温泉旅館だからだ。もっと言えば、一緒に行く相手が俺だからかもしれない、なんて。

「だな。でもそこまで気温も低くないしラッキーだったな」

「ラッキーって言えばひめちゃんだってそうでしょ。本当良かったよね、休み取れるなんて思ってなかったもん」

「俺もそう思った」心底幸せそうに微笑むから、俺も思わずにこりとする。「死ぬ気で上司に頼み込んだら、意外といけるもんなんだな」

 しばらくバスは山の中を突き進んでいたが、徐々に開けた場所が見えてくる。そうすれば瓦屋根の古めかしい、けどの上品さがにじみ出る建物が見えてくる。どこからか湧き出てくる白い気体は湯気だろうか、ネットで調べた温泉がもうすでに楽しみだった。

「見えてきたね、旅館だよ!」

「それも天然温泉に、各部屋に貸切露天風呂付き」

「うんうん、贅沢ぜいたくだねぇ!」

 もう待ちきれない、みたいな様子の和は膝の上に載せていたリュックを背負おうとしていた。

 停車したバスからすぐに降りて、さっさとチェックインを済ませる。もらった鍵に書いてある番号の部屋まで早足で向かって、荷物を置いてすぐさま出ていく。目的地はもちろん、天然温泉の大浴場。

 外観やらサイトやらの情報であまり大規模な旅館ではないと知っていたが、これは小規模というよりは隠れ家的だった。脱衣所には俺たちふたり以外いなかったし、もちろん大浴場の中にもひとりもいなかった。つまり、こっちも貸切状態だ。

「ていうか」服を脱ぎながら隣の和に話しかける。「なんであんなの当たるんだよ、お前」

 というのも、今回この温泉旅行に来ることができたのはこいつが応募だか何だかで当たったからだった。

「えへへ、当たっちった」

「俺なんてあんなもん人生で一回も当たったことないぞ、たぶんこれからもないな」

「んー、まあおれけっこうラッキーボーイだからさ」

 上半身裸の状態でそんなこと言われたって、正直何とも言えない。なんだこいつ、としか。

「……いやボーイとか言うなよ、お前もう三十四歳だろうが」

「うわぁ、ひめちゃんひどーい!」

 脱ぐのが遅い和は置いて、俺は大浴場でさっさとシャワーを浴びる。眼鏡がないとここまで見えないかと思いながら、たぶん、ボディソープで頭を洗った。

 ガラガラっとドアが開いて和が入ってきたときは、俺は湯船に浸かる頃だった。

「あれ、ひめちゃんもう終わったの」

「ん、先に温泉もらうわ」

 足をお湯に入れる。つま先から温かさが伝わってくる。もしかしたら温泉どころか風呂に入るのも久しぶりなのかもしれない。いつもはそんな時間もなくてシャワーで済ませるから。

 ゆっくり全身を温泉に沈める。身体に積もった疲労がじんわり出ていくようだった。思わずため息がもれる。ふと視界に入った看板に近付いて、目を細めて読んでみる。流石に天然温泉だ、冷え性やアトピーに効くとか疲労回復だとかそんなことがずらりと並んでいる。視線をずらすと電子パネルに赤文字で四十二・二と書かれていた。まあまあ熱い。

 壁に寄りかかって目を閉じていると、少しずつ眠くなってくる。と、ぺちぺち水を踏む足音が聞こえてきて、気付けば隣に和が座っていた。

「ふわ〜、サイコーじゃん」

 その声を聞いて、何となく、安心する。昨日まで酷く忙しかったからかもしれない。

 段々まぶたが重くなってきて、抵抗ができなくなる。お湯の中で和が俺の手を探り当てて、握ってくる。考えることができなくなってくる。指が絡められていく。首が重力に負ける――。

「ん、あれっ、ひめちゃん? 寝ちゃダメだよ?」

 お前こそ、ここはそういう旅館じゃないぞ。言ってやりたくても無理だった。目どころか口を開くのもできない。

 すうっと温泉の温かさが消えて、足が勝手に浮いた。というか、身体全体がどこにも触れていなくて、身体の右側と膝裏、背中に和の肌を感じるだけだった。

「そっかそっか、長旅だったもんねぇ」なんていう和のつぶやきが耳元で聞こえて、それから記憶がない。

 次に視界に入ってきた景色は、木製の小さなテーブルとその奥に大きな窓。つまり部屋の中で俺は寝ていたらしい。ハッとしてスマホを掴み取り確認するが、旅館に到着してから三時間が経つ頃だった。チェックインとか温泉に行く準備とかで一時間だとしても、二時間近く眠ってたことにならないか?

「あ、ひめちゃん起きた?」

 ひょこっと顔を出した和はいつもよりうるさいくらい笑顔だった。

「あー、本当に悪い。せっかくの旅行だったのに、寝るなんて……」

「全然いいよ、だってひめちゃんのかわいい寝顔見れたし!」

 ゆっくり身体を起こして和と向かい合わせになる。あれ、そういえばこいつが着てるのはここの浴衣か? パッと目線を落とせば、俺も同じのを身につけていた。着せてくれたのかな。

「それにさ、やっぱり本命は貸切の露天風呂でしょ! あとで一緒に入ろうね」

「……ん、わかった」

 和はにこっと笑うと、思い出したみたいに冷蔵庫から備え付けの水を出してコップに注いで、俺に渡してくれた。

「ね、ちょっとくらいは疲れとれた?」

「そうだな、眠れたし温泉でもくつろげたし」

「うんうん、じゃあ良かった」和はいちばんの笑顔ってのを何度だって更新する。「それだったらおれもがんばった甲斐かいあった!」

 がんばった甲斐あったって、お前は何をしたって言うんだよ。ただ応募して当てただけのラッキーな――。

「あれ、お前さ、もしかして……」びっくりしたように目を開いて首をかしげる和を見てから、一回口を閉じる。「いや、何でもない」

 本当は俺とここに来るために仕事をいつもよりやって、それでがんばって買ってくれたのかな。応募した訳でも、何かの懸賞を当てた訳でもなく。

「貸切温泉で酒飲んだら怒られるかな」

「あれ、大丈夫って言ってなかったっけ」

「よし、じゃあ俺は日本酒で。和は?」

「おれはアップルサイダー」

「持ってくるから先行ってて」

「ん、待ってる」

 そういえばこうして遠くに旅行するのは初めてかもしれない。出張なんかはたびたびあっても、やっぱり恋人との遠出は全然違う。幸せで溢れている。これは和ががんばってくれたらしいおかげであって、仕事ばっかりの俺を気遣ってくれたってことで。俺ももう少しくらいちゃんとしないとな。

 そろそろ別の仕事でも探すか、もっと和と一緒にいられるような仕事。


お題:温泉/旅館

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