あの夜、俺たちは始まった。

 その日は確か酷く疲れていたのを覚えてる。たぶんあのクソブラック企業に勤め始めてから、一年経ったか二年になる頃だったか。とにかくいつも通りおかしな時間まで残業をさせられたあと、その帰り道だった。

 酒でも飲んで夜を明かすか、それとも一発ストレス発散でもするか。俺は人の流れに逆行しながら、頭痛のする頭を必死に押さえて帰路を辿っていた。

 ここを歩く誰もが知らない男女で、俺とは何の関係もない、また何の関係を持つことにもならない人間たちだと思っていた。けど、その川の中に一際目立つのがいた。

 理由はよくわからない、けど俺はその知らない男ふたり組に目を奪われた。いや違う、俺が釘付けになっていたのはふたりじゃない。もう一方の男に腕を絡めている美人の方だけだ。色素の薄い、長い髪を揺らしながら楽しそうににこにこしていやがる。

 俺は、たぶん、間抜けな顔をしていたと思う。あまりにも衝撃的だった。あんなに綺麗な男がいるなんて知らなかったから。口を中途半端に開けたまま見惚れていた。

 と、すれ違いざまに目が合った。

 メイクをしてるんだろうか、真っ白なその顔に深紅の唇が映える。まるで奪い取ってくれとでも言わんばかりに。長いまつ毛が縁取る大きなその瞳は、俺を吸い込むブラックホールだ。俺はその場から動けなくなって、引き寄せられるようにそいつをじっと見ていた。

 その男はニコッと口角を上げると、明らかに俺に向けてウィンクをして見せた。何が起きたのか理解できなかったけど、今の俺の顔はたぶん真っ赤だ。それを見てか、その男は少し驚いたような顔――いや、それとも嬉しそうな顔だったのか――をしてから、それを隠すみたいにまた前を向く。

 バッグを取り落としていた。動けなくなっていた。去っていくふたりの背中を、人混みの中に消えるまで見つめていた。

 どれだけそうしていたのかはわからない、誰かの肩が俺にぶつかったことで我に返った。頬を叩いて意識をしっかり取り戻す。忘れようとするように、今の出来事はこの場に置いて行ってしまうように、俺は早足で家に向かった。のに、おかしい。気付いたらあの男のことを考えている。

 見たことないくらい綺麗だったな、しかもかわいいやつだった。あんな人が隣にいてくれたらどれだけいいか。背が高くて華奢きゃしゃで、スタイルがいい。俺とは十センチ差くらいだろうか。あいつとキスするには俺は背伸びをするのか? あんな男に抱かれたら死ぬほどいいだろうな――。

 けど決まって同じセリフが襲ってくる、「あいつは彼氏持ちだから」。

 やっと家に着いたかと思って見渡せば、さっきあいつとすれ違った場所まで戻って来ていた。彼氏とこんなネオン街を歩いていたんだ、どうせもういない。わかっているのについ探してしまう、必死になって目を動かしてしまう。きょろきょろ見渡しても、見つけられるのはうるさいネオンとそれに群がる男女たちだけだ。

 予想通りの結果なのに大きなため息が出る。やっぱりコンビニに行って、強めの酒を買って帰ろう。何がいいだろう。今日はビールの気分じゃないな、ハイボールにでもしようか。

「ね、きみ」

 後ろから声が聞こえた。俺にじゃない。誰か他の人間たちのどうでもいい会話だろう。そう思っていたが、袖を掴まれた。俺は疲れてんだ、もうやめてくれ……。

「今ひまだったり、しないかな?」

 息を切らしながら俺の袖を掴んでいるのは、紛れもなくさっき一目見て惚れてしまったあの男だった。

 ぶわぁっと顔に熱が集まってくる。嬉しくて叫び出しそうになるのをぐっと堪えて、口に手を当てる。目を合わせるなんてできない。

「もしひまならさ」彼の背後から大きな声をあげている男が走ってくる。どこかで見たような顔。「おれのこと、助けてくれないかな?」

 ハッとした。さっき腕を組んでいた男じゃないか。あいつに追われてる? なんで、彼氏じゃないのか? けど考えてるひまなんてない、俺は咄嗟とっさに彼の手を握って走り出した。さっきまで枷のようだった残業の疲れなんて嘘のように、今やどこかに吹き飛んでいた。

 夜を駆けていく俺たちは無敵だった。まるで映画の主人公にでもなった気分だ。追われているのに周りの誰もが気にしない、していないのに俺たちのために道を作ってくれる。ふたり顔を見合わせて、ふふっと笑んだ。夜が俺たちを祝福してるみたいだった。

 それから家に着いたのは、体感的にはすぐだった。玄関の鍵を閉めてドアスコープを覗く。誰もいないことを確認して安堵あんどの息を吐く。すると唐突に全ての疲れが帰ってきた。もうその場に立っているので精一杯だった。

「その……何で、追われてたんですか?」息も絶え絶え問いかける。

「あぁ、いやその……今日遊ぶ予定だったんだけど、おれが断っちゃって」

 言葉が弱くなっていったし、それに耳たぶを触りながらだ。自慢じゃないけど、俺は人間が嘘をついているか真実を言っているか、その判断は正確にできるつもりだ。

「嘘ですね? 何の理由があるのかは知らないけど……いや、そうか、なるほど。あなたは知らないやつらと――」

 胸倉を掴まれて引き寄せられる。抵抗するひまもなかった。殴られる。いやもしくは頭突きか? 目を瞑ることもできず、されるがまま。

 しかしされたのは、ぶつかるような攻撃的な口付けだった。

「そんな風に言うんだもん、おれだってムキに……」一瞬、間が空いた。何か思い出したかのように言葉を訂正する。「いや今のは嘘ね、嘘。これはビジネスでも何でもないキスだよ、きみに恋しちゃったみたい」

 元から疲れで働かない頭には刺激が強すぎた。クラクラしながら俺はしゃがみこむ。「ちょっと待て、整理させてくれ」

「いくらでも待つよ?」

 ネオン街、男ふたり、ビジネス、キス――。

 その四つのキーワードと時間があれば答えは簡単だった。つまりこの男は知らないやつらと夜を過ごすことで稼いでいるのだ。鎌をかけて言ってみたあのセリフは正に正解だったわけだ。

 俺の奥底から感情が噴火するのがわかる。一目惚れだとは言っても俺はもうこの男に魅せられてしまった。そんなクソみたいな仕事とも言えないようなことで金を稼ぐんじゃなくて、俺と一緒にいればいい。

 俺のになればいい。

「俺が全面養うから俺の家に来いよ」

 気付いたらそんなことを口走っていた。


「ってさ〜、懐かしいねぇ。ね、ひめちゃん?」

「だーもうっ! そんな小っ恥ずかしい話引っ張り出してくんなよ、バカ!」

 ベッドにふたり並んで転がっている。あの頃の話なんて、別にこのタイミングでしなくたっていいのに。

「あのときプロポーズしてくれたから、今おれはここにいるんだよ?」

「ぷろっ……」

 目を細めた綺麗な顔が近付いて、頬に唇の感触を残して遠ざかる。反射的にそこを押える。

「おまっ……!」

 ふふっと笑いながらのどかはウィンクをした。


お題:ウィンク/一目惚れ

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