三五章 子供への約束

 アンドレアは毎日まいにち必死に働いた。

 毎日、ぽってりふくらんだ腹を抱えて冒険者ギルドにおもむき、下水道のねずみ退治たいじや畑の夜間見張り、市内の見回りなどの仕事を引き受けた。どれも、本来ならばアンドレアほどの使い手が請け負うような仕事ではない。実入りも少ない。その日の食費を稼ぐのが精一杯。腹のなかの子を冷やさないために身にまとうショール一枚、買うことは出来ない。

 しかし、妊娠の影響で遠出も出来なければ、まともに戦うことも出来ないいまのアンドレアにはこれが精一杯。いや、それですらむずかしい。

 特に下水がらみの仕事はきつい。

 貴族の令嬢として常に清潔な場所で生きてきたアンドレアだ。そのかの人にとって、汚物だらけの水が流れ、どこから紛れ込んだのかぶよぶよにふくらんだ腐乱死体が散乱している下水道はまさに、おぞましい巨獣の大腸。妊娠によるつわりと鼻の曲がるような悪臭とに襲われていったい何度、吐いたことか。

 どうせ、汚れきっている場所なので、いちいち吐いたあとを掃除しなくてもいいことだけが唯一の救いか。朦朧もうろうとするような気分の悪さに耐えながら下水網を歩きまわり、殺鼠剤さっそざいをまいていく。

 当然、鼠に襲われることもある。

 雑菌だらけのその牙でかみつかれれば病気に感染する恐れがある。そうなっても、いまのアンドレアではヒーラーの治療ひとつ、受けることはできない。

 そんな金はない。

 まちがいなく、誰かがやらなくてはならない仕事。それなのに、誰からも評価されない。褒められもしない。英雄になることなど決して出来ない。それどころか、さげすまれる。『けがれている』と忌避きひされる。

 その上、命の危険まである。それだけの思いをして仕事をこなしても、それで得た報酬は夕食のパンとチーズを買えば消えてしまう。ときには、それにすら足りないときもある。

 畑の夜間見張りもカカシのかわりになるのがやっとだった。

 本来のアンドレアであれば、畑の作物を荒らしに来る野性動物などもちろん、敵ではない。風のように近づき、流れるような剣の一撃で斬り捨てることが出来る。

 そんな、以前なら当たり前に出来ていたことが妊娠中のかの人にはとても出来ない。

 気分の悪さと何とも言えない腹の重さに気を取られ、動物たちが近づいてきたことにも気付けない。逃げる動物に追いつくことも出来ない。吐き気に耐えつつあたりをうろつき回り、人がいることを知らせて動物たちが近づかないようにするのが精一杯。そうして得られた報酬は朝の食事ひとつで消えていく。

 妊娠中だと言うのにまともな食事も出来ず、栄養を補給できない。

 ギルドを訪れるその姿は日一日とやつれ、顔色は悪くなっていく。足取りもどうにもふらついている。見かねたギルドの職員が無理して仕事を引き受けず、救民院きゅうみんいん慈善鍋じぜんなべを利用するように進めたが、アンドレアは頑として拒否した。

 「お腹の子供の生命に関わるんですよ」

 ギルトの受付嬢の言葉はもはや心配を通り越して怒りと非難にかわっていたが、それでも、アンドレアは拒否しつづけた。

 ――わたしは騎士だ! 騎士は人を守るのが役目。人に守られる立場になどなれるか! その思いにしがみつき、歯を食いしばって耐えていた。


 この日もアンドレアは、下水道の鼠退治で得た報酬で買ったわずかばかりの古いパンとチーズを抱えて部屋に戻った。

 部屋と言っても宿に泊まっているわけではない。そんな場所に泊まれるような金はすでにない。厨房の片付けをするという条件で食堂の地下室――と言うより、空いている倉庫――に、間借りさせてもらっている。

 古いボロ雑巾ぞうきんのような毛布を積み重ねただけのベッドに倒れ込むように座り込み、カチカチになったパンをかじる。

 ――涙で味付けされたしょっぱい味のパンを食べたことのあるものでなければ、人生に対する本当の闘志はわかない。

 そんな言葉を聞いたことがある。

 しかし、いまのアンドレアにはその言葉が真実だとはとても思えなかった。

 涙味のパンをかじればかじるほど、かつての自分との境遇きょうぐうのちがいを思い知り、惨めさが募っていく。

 ――スタックたちが小鬼の巣の殲滅せんめつに成功した。

 幾日か前、その報を聞いた。結局、五人目の補充は効かなかったので、そのかわり、他のパーティーと合同で事に当たったらしい。その作戦がうまくはまり、小鬼たちを全滅させ、巣を壊滅させた。冒険者ギルドはその報に沸き立っていたものだ。

 結局、スタックたちは自分抜きでも見事に依頼を達成した。

 いや、ちがう。

 『自分抜きでも』ではない。

 『自分抜きだから』達成できたのだ。

 アンドレアが意地を張って加入したままだったなら、いつまでたっても身動きが取れず、依頼は達成できなかったにちがいない。

 それがわかるだけに惨めさは募る。

 ――わたしよりずっと弱いスタックたちが依頼を達成し、英雄となっている。それなのに、わたしは……。

 悔しさに涙がこぼれる。

 その涙がパンの上にこぼれ落ち、しょっぱいパンをさらにしょっぱく味付けする。

 いったい、どうしてこうなったのだろう。

 かつては、貴族の令嬢として広大な屋敷に住み、何人もの使用人にかしずかれていた。きらびやかな部屋で生活していたのだ。『国内で五本の指に入る戦士』と呼ばれ、尊崇そんすうの目で見られ、魔物退治に活躍して賞賛されていた。それがいまや……。

 火の気もない。

 換気のための窓すらない。

 ランプの煙と油の匂いが充満する狭苦しい地下室。

 そこで、もそもそと古くなったパンをかじる。

 自分こそ、鼠になった気分だった。

 実際、いまの自分と、自分が殺鼠剤をまいて殺して回っている下水の鼠たちの間にどれだけのちがいがあるというのだろう。

 同じじゃないか。

 どちらも同じように人の残り物をあさって生きているのだ……。

 その思いがパンのしょっぱさをさらに濃く、強くしていく。

 しかし、いくら涙を流しても助けてくれるものはいない。

 いや、そうではない。

 助けてくれるものはいる。

 いるのだ。

 この町にも貧民層を手助けしている教会はある。

 貧しい人々に最低限の寝床と食糧を提供する救民院もある。

 貧民救済のために人々から寄付を募る慈善鍋も定期的に行われている。その時期に教会に行けば、いくらかでもその寄付金を分けてもらえる。

 それになにより、スタックやその仲間たちに一声かければ、いつだって喜んで生活費を工面してもらえるのだ。

 そう。

 助けてくれる相手はいるのだ。

 アンドレアはただ一言、その人たちに向かって言えばいい。

 ――助けて、と。

 しかし――。

 ――そんなことが出来るか! わたしは何としても自分ひとりの力でこの子を産んでみせる。そうでなければレオナルドの政策が正しかったと認めることになってしまう!

 アンドレアの頭のなかはその思いでいっぱいだった。

 「それ、みたことか。出産と仕事を両立するなど無理なのだ。女はおとなしく家に籠もって出産と子育てに専念していろ」

 したり顔でそう言ってくるレオナルドの顔が目に浮かぶ。

 その顔が思い浮かぶつど、『他人に助けてもらう』ことが恥辱の極みに思えて、自分自身を追い込んでいく。

 これまで、騎士としてのみ生きてきたアンドレアだ。出産や育児には他人のことでも関わったことがない。そのために、

 『出産も育児も、そもそも自分ひとりの力で出来るようなことではないのだ』

 と言うことがわかっていない。

 何としてもひとりの力で産み、育ててみせる。

 その思いに凝り固まっていた。

 「……そうとも。やってみせる、絶対にやってみせる。わたしはわたしだけの力でこの子を産み、育ててみせる。わたしは騎士だ。どんな辛い修行もこなしてきたじゃないか。それに比べればこんなことがなんだと言うんだ。絶対にやる。やってみせる」


 それからもアンドレアは歯を食いしばって仕事をつづけた。

 不衛生きわまる環境と栄養不足。それに、精神的な余裕のなさ。

 病気にならなかったのが奇跡と言っていいほどだ。

 元々、頑健がんけんな肉体の持ち主の上に騎士として鍛錬してきた成果だろう。他人に比べて丈夫で、病気に対する抵抗力もあるのは確かだった。

 その体力に支えられ、かろうじてその日その日の仕事をこなしていく。

 しょっぱいパンとチーズだけの食事をつづけていく。

 そんな日がどれだけつづいただろう。

 腹はどんどん大きくなり、重くなっていく。

 「安定期に入れば楽になるよ」

 以前、一度だけ診てもらった医者はそう言っていた。

 嘘をつけ。

 なにが楽なものか。

 つわりは一向に収まらないし、苛々は募るばかり。腹は重くなる一方。おかげで、動きはどんどん鈍くなる。まともに歩くことさえ出来ないじゃないか。

 こんなはずじゃなかった。

 こんなはずじゃないんだ。

 わたしの人生は騎士としての栄光に満ちているべきであり、こんな惨めな日々を送るはずではなかったんだ……。


 その日もアンドレアは涙で味付けされたしょっぱいパンをかじっていた。

 舌がかび臭い味を感じ取ったとき、アンドレアは――。

 キレた。

 「もういやだ!」

 叫んだ。

 「もう沢山だ! わたしは騎士だ、人々を守る騎士だ! こんな惨めな生活をしているべき人間じゃないんだ!」

 そのまま部屋を飛び出した。

 無我夢中で走りつづけた。

 このときばかりは腹の重さも、つわりの苦しさも忘れていた。

 それ以上の苦しさがすべてを呑み込んでいた。

 そのまま近くを流れる川に飛び込んだ。

 冷たい水に身を浸せば腹のなかの子を堕ろすことが出来る。

 いつかどこかでそんなことを聞いた気がしていた。その言葉が頭のなかに引っかかっており、発作的に飛び込んだのだ。

 「……はは、ははははは。これでいい。これでいいんだ。こんなもの、わたしはいらない。こいつさえ……この邪魔者さえいなくなれば、わたしは騎士に戻れる。もとの、本来のわたしに戻れるんだ」

 憑かれたようにそう呟きつつ、腹を押さえる。

 そのとき――。

 ピクリ。

 腹のなかで何かが動いた。

 その感触に触れたとき――。

 アンドレアのなかで『母』がはじけた。

 「……わ、わたしは、わたしはなにを?」

 ようやく、我に返った。

 自分が何をしようとしていたか、理解した。

 いったい、なにをやってるんだ、わたしは。

 誓ったじゃないか。

 約束したじゃないか。

 産んでみせる。

 ちゃんと産んで、育ててみせると。

 それなのに、こんなところでなにを……。

 「……すまない」

 アンドレアは腹を抱きしめながら崩れ落ちた。

 「すまない。すまない。ちゃんと産むから、ちゃんと育てるから。すまない。すまない」

 アンドレアはそう言いながら泣き崩れた。

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