三六章 地獄がはじまる

 「よおし、そうだ。それで良い。では、次にナイフとフォークの使い方だが、レオンハルト王国ではこの国とちがって……」

 アンドレアは自らナイフとフォークを手にとり、一〇歳と一二歳のきょうだい相手にレオンハルト風の宮廷作法の手ほどきをしていた。その表情は穏やかかつ朗らかであり、明るい生気に満ちている。贅沢ではないが清潔に手入れされた青いマタニティドレスがよく似合っている。

 日銭を稼ぐために下水道を這いずり回って殺鼠剤さっそざいをまいていた頃とは大違いのその姿。その頃のアンドレアしか知らないものがいまのアンドレアを見ても同一人物だとは思わないだろう。それぐらい、見た目から与えられる印象にちがいがあった。

 精神的に追い詰められ、発作的に川に飛び込んでから一月あまり。アンドレアは裕福な商人の家の家庭教師の職を得ていた。

 アンドレアがレオンハルト王国の貴族の出であることを知った地元の商人が、

 「やがてはレオンハルト王国にも進出したいので、子供たちにレオンハルト風の宮廷作法を教えてもらいたい」

 そう言って、ふたりの子供の家庭教師を依頼してきたのである。

 アンドレアは最初、ピンとこなかった。

 下水道を這い回り、涙で味付けされたしょっぱいパンをかじる日々のなかで、自分が貴族の娘であることなど忘れていた。それになにより、伯爵令嬢であるアンドレアにとって宮廷作法など身に付けていて当たり前。それを教えることが仕事になるという発想がなかった。しかし、考えてみれば自分だって家の雇った家庭教師について学んだのだ。その自分が教師となって教える側になり、報酬を得てもおかしいことはない。

 「ぜひ、ぜひ!」

 と、やけに熱心に乞われたこともあり、アンドレアは商人の家の家庭教師を務めることになった。

 それ以来、すべてがかわった。

 家庭教師としてはごく平均的な報酬額で、特に高く雇われているわけではない。それでも、下水道を這いずり回って殺鼠剤をまくよりはずっと良い金になる。

 もう、火の気もなければ、換気用の窓すらない地下倉庫に間借りして、涙で濡れたしょっぱい味のパンをかじる必要はない。狭いが暖炉付きのまともな部屋を借りることができるようになったし、たっぷりの肉の入ったシチューも食べられるようになった。

 まだまだ遊びたい盛りの子供相手と言うことで手こずらされることも多かったが、悪臭漂う下水道を這いずり回り、鼠にかじられて病気をうつされる危険を冒しながら殺鼠剤をまいていくよりはよっぽど楽だ。

 生活環境が改善されて精神的・肉体的な余裕が出来たせいか、栄養ある食事を食べられるようになったからか、はたまた妊娠安定期に入ったためか、おそらく、それらすべてが重なった結果なのだろう。最近では気分もかなりよくなり、つわりに襲われる回数も減った。

 医師にもきちんとかかるようになった。

 一月前までは医師にかかる金もなかったし、『他人に頼るなど騎士の恥だ!』と、意地を張ってもいた。だから、医師にかかることもなかった。しかし、ひとたび、生活が改善され、心理的にも、金銭的にも余裕が出来ると、さすがにそこまで意地を張るのは馬鹿げていると思えるようになった

 「妊婦を雇っておいて気も配らず、流産させてしまった……などと言うことになっては我が家の名誉に傷が付きますからな。我が家の家庭教師を務めている間はきちんと医師に通っていただきますよ」

 もとより、他家の名誉に傷を付けるなど騎士としてあるまじき振る舞い。雇い主の商人にそう言われたこともあり、定期的に医師のもとに通うようになった。

 いったん、医師を頼るようになるとこれが実に楽だった。体調に応じて薬を処方してもらえるし、生活全般に関して様々な忠告も受けられる。妊娠中の苦労について愚痴やぼやきも聞いてもらえる。誰にも頼れず、ひとりで耐えていた頃にくらべれば、まさに天国。

 「どうして、もっと早く医師にかからなかったんだ?」

 そう思えるぐらいのものだった。

 「しかし、まさか、単なる常識と思っていた宮廷作法を教えるだけでこんな良い金になるとはな」

 アンドレアはホクホク顔だ。

 最近はすっかり気分が良い。

 「どうだ。見たか、レオナルド。わたしはちゃんと、誰にも頼ることなく、ひとりで妊娠と仕事をこなしているぞ」

 そう思うとついつい頬が緩んでしまう。人目もはばからず勝ち誇った笑みを浮かべてしまいそうになるのだ。

 アンドレアは知らない。

 かのの状況を見かねたギルドの受付嬢がスタックに相談に行ったことを。

 スタックがあちこちを駆けまわり、レオンハルト風の宮廷作法を教えてくれる家庭教師を探している商人を見つけてきたことを。そして、その商人にアンドレアを紹介し、さらに、自分の紹介であることは決して言わないよう、固く口止めしたことを。

 スタックはもちろん、アンドレアの正体は知らない。しかし、レオンハルトの貴族出身であることはその立ち居振る舞いを見ればわかる。特に、その剣技はレオンハルトの騎士独特のものであり、やんごとなき身分の出であることを告げていた。

 もし、アンドレアの正体を知ればスタックも、商人もひっくり返って驚いたことだろう。まさか、レオンハルト屈指の大貴族の令嬢であり、しかも、ほんの少し前まで国王レオナルドの婚約者であったなどとは。

 「さて。それでは今日も務めを果たすとするか」

 その日も、アンドレアは意気揚々と家庭教師の仕事に出ようとした。

 この仕事に就いてからすでに数ヶ月。妊娠予定日も間近に迫り、腹は満月のようにふくらんでいる。まわりはそろそろ仕事を休み、出産準備に取りかかるよう忠告したが、アンドレアはそれを無視して家庭教師をつづけていた。

 生徒である子供たちは順調にレオンハルト風の宮廷作法を身に付けて行っている。この調子なら間もなく、レオンハルトの社交界にデビューしても恥ずかしくないだけの作法と教養を身に付けることが出来るだろう。アンドレアは何としてもそこまで、ふたりの子供を教育するつもりだった。

 果たすべき役割をもち、その役割を果たすことが出来る。

 それはやはり、なんとも気持ちの良いことだった。

 特に、アンドレアのように真面目で、上昇志向の強い人間にとっては必須の感覚だと言ってもいい。

 しばらく前までのアンドレアなら考えられないことだが、陽気な鼻歌などを歌いつつ、ドアノブに手を駆けた。そのとき――。

 ズシリ。

 大きな岩が動くような感覚があり、腹部に激しい痛みが襲った。

 ――ま、まさか……。

 出産予定日まではまだ余裕がある。もちろん、予定日はあくまで予定日であり、早くなることもあれば、遅れることもある。医師からそう説明は受けていた。しかし――。

 「い、いや……まだだ。まだ、大丈夫……なはず。医者も言っていたじゃないか。陣痛がきたからってすぐに産まれるわけじゃないって」

 アンドレアは自分を安心させるためにわざわざ口に出してそう言った。引きつったような笑みが浮いているのは不安の裏返し。

 「……そう。大丈夫。まだ大丈夫」

 必死に自分に言い聞かせる。しかし――。

 激しい痛みは襲いつづける。

 動けない。

 声も出せない。

 突然――。

 股間から大量の液体があふれ出た。

 破水だった。

 アンドレアは恐怖に襲われた。

 どんな強力な魔獣を前にしても怯えたことなどない屈強な騎士がこのときばかりは、ドレスを身にまとった深窓の令嬢のようにうろたえた。

 ――だ、誰か……!

 声にならない声で必死に呼びかける。

 アンドレアが誰かに助けを求めたのは、これが生まれてはじめてのことだったかも知れない。

 ドアにすがりつくようにして身を預け、何とかこじ開ける。

 股間から液体をしたたらせたまま這いずり出す。

 そこで、力尽きた。

 身動きもとれず、声も出せず、ただただ恐怖と不安に震えていた。

 悲鳴があがった。

 たまたまやってきた家主の娘が倒れているアンドレアを見つけたのだ。

 すぐに医師が呼ばれ、出産の準備がはじまった。

 アンドレアはベッドに寝かしつけられ、医師と看護師、それに、助産婦たちに支えられながら未曾有の苦痛を味わっていた。貴族らしい気品のある顔が苦痛に歪み、苦しみのあまり筋肉質な体がのたうち回る。正体を失って暴れ回る騎士の体を押さえつけるのはこの手の仕事に慣れている助産婦たちにとっても大変なことだった。

 ――くそ、くそくそくそ! 負けるか。わたしは騎士だ。こんな痛み、この程度の苦しみ……これぐらいなら……。

 「魔獣に食い付かれた方がマシだあっ!」

 アンドレアにして思わずそう叫んでしまう激しい苦痛。

 そんな時間がどれだけつづいただろう。

 ――もういい! もう産まれてこなくていいから全部、消えて!

 思わずそう願った。

 そのとき――。


  おぎゃあ、

  おぎゃあ、

  おぎゃあ!


新たな生命の誕生を言祝ことほぐ泣き声が部屋のなかに響き渡った。

 ――う、産まれた……。

 アンドレアはぼうっとした頭でそれだけを思った。

 「おめでとう! 元気な男の子だよ」

 そう叫ぶ助産婦の声も、どこか遠い異世界のもののように聞こえた。

 それでも、助産婦の腕に抱かれて元気に泣く赤ん坊の姿は見ることを出来た。

 ――ああ、産まれた。これが……わたしの子供。

 高熱に浮かされたようにぼうっとした頭でアンドレアは思った。いや、感じた。

 ――これで解放される。もとのわたしに戻れる。

 その喜びに涙が流れた。だが――。

 アンドレアは知らなかった。

 『女』という生き物にとって、人生最大の地獄がこれからはじまることを。

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