三二章 望んだ帰還 望まぬ結果

 その日、レオンハルト王国国王レオナルドと熊猛ゆうもう将軍しょうぐんウォルターのもとに待ちにまった報告が届いた。執務室の扉を蹴破るような勢いで飛び込んできた兵士のひとりが泡を吹きながら叫んだのだ。

 「勇者ガヴァンさま一行、ただいまお戻りになられました!」

 その叫びを受けて――。

 「おお、ついにか!」

 レオナルドは喜色きしょく満面まんめん、座っていた椅子を蹴倒して立ちあがった。

 獅子王ししおう

 厳格げんかく辣腕家らつわんか

 容赦ようしゃなき治世者ちせいしゃ

 そんな、おどろおどろしいふたつ名でばかり呼ばれるこの国王が、これほどまでに素直に人前で喜びの表情を見せる。それは、生まれてはじめてのことだったにちがいない。そのことが、いまのレオナルドの置かれている立場がいかに苦しいかを物語っていた。

 「うむうむ。さすがは我が弟。必ずや無事に戻ってくると信じておったぞ」

 と、こちらは、いつでも内心の思いを声と表情に出してしまうウォルターが『ガハハハッ!』と笑いながら叫んだ。いや、本人はただ普通に話しただけのつもりなのだが、部屋を揺るがすほどの大音声になっている。

 レオナルドもウォルターも疑っていなかった。

 自分たちの自慢の弟、神託の勇者ガヴァンとその一行が見事、鬼王を打ち倒し凱旋がいせんしたことを。

 これでもう、慣れない戦や補給に頭を悩ませることはない。

 自分の得意分野に没頭していられる。

 そう信じた。

 ――ガヴァンたちが鬼王を倒してきたと言うなら、なによりもまずそのことが報告されるはず。

 そんなことにはまるで気が付かなかった。

 ただただ『これで救われる』と言う安堵の思いだけに囚われていた。

 ふたりは執務室を飛び出した。このときばかりは厳格な国王も、豪快無比な猛将も、立場を超えて弟を思いやる兄として行動していた。ふたりとも凱旋した弟を抱きしめ、胴上げし、戦勝を祝うつもりだった。ところが――。

 一目見た途端、そんな気分は消し飛んだ。

 そこにいたのは出立時の栄光に満ちた姿とはほど遠い、惨めな敗残者だった。

 顔色は紙のように白く、やつれ果て、頬骨が浮いている。

 『その剣の試作品一本分で兵士一〇〇〇人の装備を調えられる』と言われるほど巨額の予算を費やして開発された装備品はことごとく失われ、ようやく着物一枚を着ているだけの姿。その着物もあちこち破れ、すり切れ、ボロ雑巾ぞうきんのようになっている。

 露出ろしゅつした肌は傷だらけでしかも、その傷口にはえが卵を産み付け、うじが湧いている。そこからは、ひどい腐臭ふしゅうが漂っていた。その匂いのきつさたるや、その場に居合わせた全員が顔を背け、鼻を押さえているほどだ。

 自力ではもはや、まともに立っていることもできず、どこで拾ったのか木の枝を杖がわりにしてようやく立っている有り様。

 動く死体。

 もはや、そう言った方がいいような姿だった。

 レオナルドもウォルターも言葉を失った。まさか、自分たちの自慢の弟、神託を受けた勇者であるガヴァンのこんな姿を見ることがあろうとは、ふたりとも思ってもいなかった。

 いくら兄馬鹿のふたりでもこの姿をみれはわかる。

 『弟は鬼王討伐に失敗したのだ』と。

 それでも、この時点ではまだ、ふたりの兄の弟に対する信頼は揺らいではいなかった。鬼王を倒すことは叶わなかったにせよ、それは、多数の鬼を相手に奮戦し、力尽きた結果。決して恥ではない。

 そう思っていた。

 まさか、旅の途上で水あたり食あたりに襲われ、腹を壊し、下痢と発熱に悩まされ、体力を使い果たして戦いもせずに逃げ帰ってきた……などとは想像もしなかった。

 「と、とにかく、医者に見せよ! 話はそれからだ」

 レオナルドは急遽きゅうきょ、そう指示してガヴァンとふたりの仲間、聖女フィオナと魔女スヴェトラーナとを医務室に運ばせた。

 「極度の疲労と衰弱。そして、飢餓きが。当分は絶対安静ですな」

 診察した医師はレオナルドにそう告げた。

 「疲労と衰弱、それに飢餓だと? 神託の勇者であるガヴァンがそんなひどい目に遭ったと言うのか?」

 「はい。むしろ、よくここまで帰ってこられたものだと。これが神託の勇者さまならではの『神のご加護』というものですかな」

 神のご加護。

 医師がそう付け加えたのは皮肉だったろうか。

 そう思わせる医師の口調と表情だった。

 とにかく、勇者の身に何かあったら鬼部おにべとの戦いに勝つことは出来ない。と言うわけで、レオナルドはガヴァンたちのために集中医療体制を整えた。

 医務室をかの人たち専用にし、他の怪我人たちを追い出した。医師も、看護師も、ヒーラーも、薬品も、とにかく、三人を治療するために最優先で使われ、一般の兵士たちは後回しにされた。それだけのことをしてもなお、勇者ガヴァンが病室の外に出られるようになるまで一ヶ月近いときがかかった。それほどに心身の衰弱は激しいものだったのだ。

 もちろん、その間も鬼部による襲撃は朝となく、夜となくつづいていた。

 熊猛ゆうもう紅蓮隊ぐれんたいとエンカウンに残った数少ない警護騎士たちが必死の奮闘を見せて鬼部の侵攻を防いでいる間、勇者とその一行は医務室に籠もりきりで何の役にも立たなかった。

 この現実を前にすれば勇者の威光も当然、地に落ちる。

 信頼も敬意も失われ、揶揄やゆの対象となっていた。

 『勇者ガヴァンは鬼界島に乗り込み、無数の鬼部を相手に奮闘した。惜しくも鬼王を倒すことは叶わなかったが、鬼部たちに多大な痛手を与えた』

 レオナルドは勇者の威厳いげんを保つためにそう発表した。

 嘘の発表をするなどそれだけ追い詰められ、弱気になっている証拠。しかし、レオナルドとしてはそう発表するしかなかった。まさか、『勇者一行は腹を壊して下痢に悩まされ、鬼一匹倒すことなく逃げ帰った』などと発表するわけにはいかないではないか!

 医師や看護師たちにはもちろん箝口令かんこうれいを敷いて、その事実が公にならないようにした。少しでも漏らしたら死刑にする、と、そう脅しつけた。しかし、いつまでも隠し通せるはずがない。事実はほどなくして漏れ出し、一般の兵や市民の共有するところとなった。

 「聞いたか? 勇者どのたちは自分たちだけで鬼王を倒せると自惚うぬぼれ、鬼界島に乗り込んだあげく、水あたり食あたりで腹を壊して逃げ帰ってきたらしいぞ」

 「ああ、そうらしいな。なんでも、聖女さまたちも我慢できずにお漏らしなされたとか」

 「はっはっ。お漏らし令嬢か。そいつは見物だったろうな」

 ガヴァンの日頃の態度のでかさへの反感もあって、兵士たちは容赦なく勇者一行をわらいものにした。とは言え、その道化となった勇者たちが広大な医務室を独占し、貴重な医師や看護師、ヒーラー、薬品に至るまで、すべてに優遇されているとなれば笑ってばかりもいられない。鬼部との戦いはつづいており、重傷の仲間たちは日いちにちと増えているのだ。その状況下で役にも立たない期待外れの勇者どものために貴重な医療資源を注ぎ込むとは国王レオナルドはいったい、何を考えているのか!

 「ジェイ団長ならばこんな真似はなさらなかった。いつだって最前線に立つ兵士のことを最優先に考えてくれた」

 「そうとも。ジェイ団長ならば例え、大怪我しているのが自分だったとしても医務室を独占したりはしない。おれたちのために空けておいてくれる」

 その思いがあればなおさら、勇者一行への厚遇振りが腹立たしい。

 勇者を嗤う声は次第に怒りへとかわり、それはそのまま『役立たずの勇者』を『ひいき』する国王レオナルドへの避難に向かった。

 自分たちを嗤いものにする市井しせいの噂はもちろん、病室のガヴァンたちのもとへも届いていた。栄光に包まれているべき勇者一行にとってこれほど腹立たしいことはない。できることならそんな噂をしている連中まとめて殺し尽くし、勇者とその一行の実力を見せつけてやりたいぐらいだ。

 もちろん、そんな真似をすることはできない。

 そんなことをすれば勇者の名は地に落ちる。恥の上塗りもいいところだ。末代まで『町の噂にぶちギレ、民を虐殺した愚かな勇者』として語り継がれ、嗤いものになるだろう。

 ガヴァンたちにもまだそのことを予測する程度の理性は残っていた。だから、黙って屈辱に耐えた。耐えるしかなかった。何しろ、市井の噂はすべて事実だったのだから。

 そして、一月あまりの時間がたち、ようやく、ガヴァンは医師から外出の許可を得た。御前に参上した弟を前にして、さしもの弟には甘いレオナルドも苦り切った表情をしていた。

 「……お前には失望したぞ、ガヴァンよ」

 その兄の言葉を受けて――。

 ギリッ、と、ガヴァンはそんな音が聞こえるぐらい強く歯ぎしりした。

 一ヶ月にわたり医師や看護師、薬品類、貴重なヒーラーまでも集中的に投入した結果、見た目ばかりは以前のものに戻っている。王都の貴族令嬢から市井の少女たちまでも騒がせた勇者らしい精悍な顔つきに戻っている。しかし――。

 その身からはある何か、勇者を勇者たらしめていた何かが抜け落ちてしまっていることは一目瞭然だった。

 「こ、今回はちょっと油断しただけだ」

 『それを言ったら人間、お終いだよなあ』

 聞いた誰もがいくらかの哀れみを込めて苦笑するにちがいないことを、ガヴァンは言った。

 自分自身、この台詞を言うことの惨めさはわかっていた。何しろ、幼い頃から自分に負けた相手が同じことを言うのをさんざん嗤ってきたのだから。それでも、言わずにはいられない。それがいまのガヴァンの心境だった。

 「今度は……今度はもっとちゃんとやる。きちんと準備して、仲間も増やして……」

 『今度はきっと勝ってやる!』

 自分に負けたあと、そう叫ぶ相手に向かい、いままでに何度『『今度は』なんて言った時点で負け犬なんだよ!』と嗤ってきただろう。嗤ってきた相手と同じことを言う立場に成り下がった。それは、ガヴァンにとって目も眩むほどの屈辱だった。そして――。

 「もういい!」

 追い打ちをかけたのは次兄ウォルターの落雷のような一声だった。

 「そもそも、たった三人で敵の本拠地に乗り込むと言うのが無謀なのだ。お前が失敗した以上、今度はおれの番だ。鬼王の首は我と、我が熊猛紅蓮隊が取ってみせる! いや、鬼王だけではない。鬼界島に乗り込み、鬼という鬼すべて一匹残らず退治してくれるわ!」


 熊猛将軍ウォルターの豪放な叫びが領主館に満ちた頃。

 医務室にはふたりの女性が歯ぎしりしながら居座っていた。

 聖女フィオナと魔女スヴェトラーナである。

 ふたりとも、すでに医師からは退院の許可はおりている。しかし、病室に閉じこもったまま外に出ようとはしない。

 どうして、外になど出られると言うのか。

 自分を嗤いものにする噂で満ちている世間などに。

 お漏らし令嬢。

 そんな、はらわたの煮えくり返る言葉まであふれていると言うのに。

 「……それもこれもあの女のせい。あの女が素直にわたしの言うことを聞かないから」

 フィオナもスヴェトラーナも共に行き場のない怒りを相手にぶつけていた。

 「……このわたしにこんな恥辱を与えあの女。あの女だけは許さない。この手で八つ裂きにしてやる」

 聖女フィオナと魔女スヴェトラーナ。

 本来であれば手を取り合い、協力して人類を鬼部の脅威から救い出す立場にいるふたり。

 そのふたりの関係はいまや、抜き差しならないものになっていた。

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