三〇章 女神たちの旅立ち

 エンカウンの町はいよいよ風雲急ふううんきゅうを告げる事態となっていた。

 昼夜を問わず繰り返される襲撃。

 疲れはて、腹を空かせた兵士たち。

 もはや、熊猛ゆうもう将軍しょうぐんウォルターがどれほど声を張りあげようと応える気力もありはしない。剣を振るう体力もなく、次々と襲い来る鬼部おにべの群れに抗う術もなく、食われるだけ。

 補給物資は一向に届かず、もはや援軍の当てもない。

 町民からなけなしの食糧を奪い取ることで何とかしのいできたが、それももう限界。徴発ちょうはつしようにももはや、徴発すべきなにものもなかった。町民が隠している(ことを期待する)食糧を見つけ出すために家という家を巡り、屋根裏を探し、床や壁を引きはがし……それでも、麦の一粒すら出てこない。

 誰もが飢えていた。

 誰もが腹を空かせていた。

 いまや、人類を鬼部から守る最強の城塞都市たるエンカウンの町は、防壁に閉ざされた巨大な墓場と化しつつあった。

 本来であれば――。

 このようなときにこそ国王レオナルドや将軍ウォルターが事態を打開するために行動を起こさなければならないところだ。しかし、レオナルドは各国に対して無意味な脅迫めいた文言を繰り返すばかり。ウォルターもまた『食い物がなくなる前に勝てばいいのだ!』と、繰り返すばかり。かつては紛れもなく、その威厳をもって人々の上に君臨していたふたりはいまや、坂道を転げ落ちるように人望を失っていた。

 レオナルドは国内の統治に関しては並外れた辣腕家だったが、外交交渉となるとまったくの素人だった。ウォルターは戦場においては無双の猛将だったが、戦場以外のこととなるとまるで気が回らなかった。

 本来、それは責められるべきことではない。ひとりですべてをこなせる人間などいない。自分の持ち場における最高位の能力があるだけで立派なものだ。責められるべきは自分の欠点を自覚せず、その欠点を補ってくれていた存在――アーデルハイドとハリエット――を軽視し、ついには追放してしまったこと、その一点にあった。

 すべて自分だけで出来る。

 他人の手など借りる必要はない。

 そう思い込んだ短慮たんりょとうぬぼれがレオナルドやウォルターをはじめ、エンカウンに集まる人々すべてを追い詰めていた。そして――。

 レオナルドとウォルターが最後の頼みとする末弟、神託によって選ばれた勇者ガヴァンとその一行は、未知なる土地を旅する労苦に心を折られ、惨めな敗北者として足を引き摺りながら帰途の旅に付いているところだった……。

 もはや、レオナルドと町民の間には修復不可能なほどの亀裂が生まれていた。

 レオナルドにとって町民は役にも立たないくせに不平不満ばかり言うゴロツキであり、町民にとってレオナルドは鬼部の侵攻を防ぐことも出来ないくせに自分たちを苦しめることだけはする弾圧者に過ぎなかった。

 毎日のように町のどこかで暴動が起こり、そのたびに腹を空かせた兵士たちが鎮圧に向かわされた。夜ともなれば夜陰やいんまぎれ、町を脱出しようとするもので門はあふれかえった。

 「ひとりたりと門の外に出すな! この町にとどめるのだ」

 国王レオナルドは重ねてそう命じていた。

 衛兵たちはその命に従い、脱出しようと門に殺到する人々に剣を振りかざし、槍を突き立てた。だが――。

 この期に及んでそんなことに何の意味があると言うのか。

 日々、鬼部の襲撃に遭い、あるいは自分が、あるいは自分の家族や友人が食われていく。食糧も水も、暖をとるための毛布や燃料も、何もかもが足りない。飢えに苦しみ、寒さに震え、腹が減って眠ることも出来ないなかで寒さに負けて死んでいく。

 そんな状況にある人々なのだ。

 いまさら剣や槍を突きつけられたからと言って何を怯むことがあると言うのだろう。

 「やるならやれ! どうせ、このままこの町にいたって鬼どもに食われるか、飢え死にするかだけなんだからな!」

 男たちはそう叫び、自ら自分の身を槍に突き刺した。そうして衛兵たちを足止めしておき、女房子供だけでも脱出させようとした。

 こうなっては、衛兵たちにもどうしようもない。

 もとより、衛兵たちの倒すべき敵は鬼部であって町民ではない。町民を守るために衛兵になった人間たちなのだ。こんな覚悟を見せられてなお、剣や槍で脅し、町にとどめておくなど出来るはずがなかった。

 国王レオナルドがいかに布告を出そうともすぐに見て見ぬ振りをするようになった。それどころか、町民と一緒に脱出する衛兵たちも現れはじめた。

 衛兵だけではない。

 鬼部との戦いに勝利するために大陸中から選ばれた精鋭中の精鋭、熊猛ゆうもう紅蓮隊ぐれんたいのなかにさえ、逃げ出そうとするものが現れはじめていた。

 この日もまだ二十歳になったかどうかと言う若い兵士ふたりが夜陰に紛れて防壁の外に出ようとしていた。ふたりのうち、気の弱そうな方がおずおずと声をかけた。

 「な、なあ、本当に逃げちまっていいのか?」

 「いまさら何言ってんだ⁉ このまま、この町に残ってたって飢え死にするだけなんだぞ!」

 「で、でもさ……おれたちがここで逃げたら町の人たちはどうなるんだ? それに、この町が陥ちたら次は他の町が狙われるんだぞ」

 「そのためにも! おれたちは生き残らなきゃならないんだろ。他の町を鬼部から守るために。そうさ。これは逃げるんじゃない。生き延びて人類世界を鬼部から守り抜くための一時的な撤退なんだ」

 「で、でも……」

 「何だ!」

 いつまでもグズグズと言い続ける相棒の態度にさすがに苛立ったのだろう。その兵士は逃げだそうするものにはあるまじき大声でがなり立てた。その声に気の弱そうな兵士は首をすくめた。

 「銅熊長が言っていたじゃないか。きっとアーデルハイドさまが食糧を届けてくれる、それまでの辛抱だって。おれ、もう少し、ここにとどまってみようかと思うんだ」

 「馬鹿言え!そんなもん、当てになるかよ。所詮、追放された女じゃないか」

 「で、でも……」

 なおも言い立てようとしたそのときだ。

 「キャアアアアッ!」

 町のなかから悲鳴が響いた。

 何が起きたかはすぐにわかった。またも鬼部の襲撃があったのだ。町中に侵入した鬼がわずかに残った人々を襲っているのだ。

 気の弱そうな兵士は血相をかえた。

 「お、おれ……やっぱり、町に戻る! 自分だけ逃げるなんて出来ない!」

 見た目はどうあれ、大陸中から選ばれた熊猛紅蓮隊の一員。その勇気、使命感はどこに出しても恥ずかしくないものだった。

 腹を空かせ、疲れ切った体に残された最後の力を振り絞って剣を抜く。悲鳴のあがる現場に駆けつけようとする。いまの体力で鬼に勝てるはずもない。戻ったところで食われるだけ。それはわかっている。わかっていてもなお、戻らずにはいられなかった。そのとき――。

 「おい、まて!」

 「なんだよ」

 そう言って振り向いたとき、その兵士は門の外に信じられないものを見た。

 それは、砂塵を巻きあげてやってくる馬車の群れ。その数、実に一〇〇台以上。その先頭に立つ巨漢の男はこれみよがしに両手に豚の丸焼きを掲げていた。

 「またせたな、皆の衆! 〝うたくじら〟が食い物を届けに来たぞ!」


 〝歌う鯨〟の参戦によって戦況は一変した。

 〝歌う鯨〟のもたらした大量の食糧――米、麦、パン、干し肉、干し魚、そして、色とりどりの山のようなリンゴ……。さらには、何十という大樽に詰められた水と葡萄酒ぶどうしゅ。それらをむさぼるように食べ、飲んだ兵士たちはたちまちのうちに生気を取り戻し、鬼部と戦いつづける気力を取り戻した。

 〝歌う鯨〟の悪漢あっかんたちが戦場に立ったことも大きかった。

 もとより、〝歌う鯨〟に集まっているのは騎士道もへったくれもない無頼ぶらいやから。卑怯もくそもない喧嘩戦法はむしろ、鬼部相手の無秩序な戦闘においては騎士剣法以上に有効だった。

 「さあ、ここからはおれたちの出番だ! お前らは飯でも食って休んでろ!」

 エイハブを筆頭にそう叫んで鬼部に突撃を繰り返す〝歌う鯨〟のおかげで、熊猛紅蓮隊はしっかりと時間をかけて食事と休息をとれるようになった。それによって気力と体力を取り戻した兵士たちは本来の姿、人類世界を鬼部から守るために選ばれた精鋭中の精鋭としての姿を取り戻し、鬼部の群れを押し返した。

 いったい、何日ぶりだろう。

 エンカウンの町に、人間たちの勝利の雄叫びが響いた。


 その日は久々に飲めや歌えの大騒ぎとなった。

 騎士も、兵士も、町人たちでさえ、〝歌う鯨〟のもたらした山ほどの食糧や葡萄酒を思う存分、食らい、飲んだ。みんな、泣きながら、食い、飲んでいる。

 それほど辛かった。

 それほど嬉しかったのだ。

 この日ばかりは町民たちにも領主館が解放され、騎士や兵士、宮廷の重臣たちに混じって思う存分、飲み食いすることが許された。国王レオナルド直々の布告によって許されたのだ。

 レオナルドは厳格で容赦のない、辛辣しんらつな統治者だったが、それだけではなかった。恩恵を与えることの必要性も充分に認識しており、実際に与えることができた。その点が単なる弾圧者などではない、非凡な統治者である証明なのだった。

 「ガハハハハッ!」

 パーティー席上で見上げるばかりの巨漢の男がふたり、向かい合って大声で笑い合っている。

 熊猛将軍ウォルターと〝歌う鯨〟首領エイハブである。

 ふたりともに見上げるばかりの大男。それだけではなく、とにかくゴツい。毛深い。分厚い。どう見ても人間ではなく人間の振りをした獣。そのふたりが向かい合い、笑い合う姿というものはとにかく暑苦しくて仕方がないのだが、鬼部の襲撃にさらされるいまの場合はひたすらに頼もしい。

 「いや、見事な戦い振りだったぞ。〝歌う鯨〟よ。噂には聞いていたが、その名に恥じぬ戦い振りだった」

 「何の。熊猛紅蓮隊こそさすがの一言。大陸中から選ばれた最強軍だけのことはあったぞ」

 互いに褒め会い、『ガハハハハッ!』と笑い合う。

 山の熊と海の鯨。

 共に王であり、神でもある獣のようなふたり。

 そのふたりが笑い合う姿はどう見ても『怪獣大戦争』。迫力に満ちているのはもちろんなのだが、どことなくユーモラスで、笑えてしまう。疲れ切った兵士たちもその姿を見て思わず笑みを漏らし、疲れを忘れたのだった。

 「しかし、よく来てくれたな。礼を言うぞ」

 国王レオナルドがエイハブに近づき、礼を述べた。

 もちろん、国王であるからには頭をさげたりはしない。堂々と胸をそびやかしての謝意である。しかし、言葉に込められた感謝の意は本物だった。『獅子王』にして素直に感謝するほど苦しい状況に追い込まれていたのだった。

 「おう、任せておけ。これからもいくらでも食い物を運んできてやる。もちろん……」

 ニヤリ、と、エイハブは笑って見せた。

 「もらうもんはしっかりもらうがな」と、指で金を意味するマークを作ってみせる。

 レオナルドは鷹揚おうようにうなずいた。

 「もちろんだ。充分な金は払う」

 レオナルドは厳格ではあるが、吝嗇ケチではない。

 生粋きっすいの政治的人間であるだけに取り引きはきっちりこなす。代価をごまかすような真似はしない。逆に、もし、相手が不正を行えば――例え、それがリンゴ一個分のわずかな額であったとしても――即座に首をねる。それが『獅子王』と呼ばれる厳格な統治だった。

 支払いに関して不安はなかった。レオンハルト王国の国庫には唸るほどの財貨が蓄えられている。代々、蓄えてきた財貨に加え、レオナルドが即位して以来、他国との戦争に勝利して奪い取った財貨が山のように眠っているのだ。その財貨をそのまま食うことさえ出来ていれば誰も飢えることはなかった、と言うほどに。

 「しかし、おぬし。なぜ、いまになって我らに協力する気になったのだ? 〝歌う鯨〟と言えばなにものも媚びず、従わず、自らの道を行く無頼集団だと聞いていたがな」

 「ふふん。それはだな……」

 ウォルターの素朴な疑問に、エイハブはニヤリと笑って言ってのけた。

 「ひ・み・つ、だ」


 その頃――。

 宴を尻目にエンカウンの町を離れようとする三人の女性の姿があった。

 対鬼部戦役たいおにべせんえきの間中、人々の胃袋を満たしつづけ、『食の三女神』と呼ばれることになる三人の女性、アーデルハイド、カンナ、リーザである。

 「……いいのかい、ハイディ。あんたが文字通り、体を張って届けたってのに一言も言ってやらないで」

 「そうです! アーデルハイドさまに助けられたんだって思い知らせてやるべきです!」

 リーザが気遣わしげに言うと、カンナは憤懣やるかたないという様子で叫んだ。

 アーデルハイドはふたりの言葉を涼やかに受け流した。

 「構わないわ。ウォルター将軍やレオナルド陛下の気性では、わたしに助けられたと知れば素直には受け取らないでしょう。それでは意味がない」

 「でも……」

 「必要なのは人の世を鬼部の侵攻から守ること。わたしの名誉など小さなこと」

 きっぱりと――。

 そう言い切るアーデルハイドであった。

 アーデルハイドはすでに一〇〇人以上の男の相手をしていた。食糧を運ぶ代価としてその身を求める男たちすべてを相手にした結果だった。

 拒む、などという選択肢はなかった。

 そう言う条件で雇ったのだから。その契約を反故にし、代価を踏み倒すなど、アーデルハイドの貴族としての矜持が許さなかった。

 「あたしもやります!」

 カンナはそう叫んだものだ。

 「アーデルハイドさま、おひとりにそんなことさせられません! 体が代価だって言うならあたしも一緒に……!」

 カンナはまだ一三歳。もちろん、生娘きむすめである。その生娘が男たちの欲望を受けとめようと言うのだ。その決死の姿を見てリーザは迷った。

 ――ハイディどころか、カンナみたいな子供まで覚悟を見せている。あたしもやるべき?

 そう思ったのだ。

 ――と言っても、美女とはとても言えないあたしみたいな田舎女を欲しがる男なんているわけがないし。

 リーザが迷うなか、アーデルハイドはカンナに向かってきっぱりと言った。

 「かの人たちが求めている代価はわたしであってあなたではないわ、カンナ」

 こうして――。

 アーデルハイドはただひとり、欲望をたぎらせた男たちの相手をし続けた。

 一緒に風呂に入ったとき、カンナは泣きながらアーデルハイドの体を洗った。少女のこぼした涙は石鹸の泡と一緒になって風呂場の床に落ちた。

 「なんで泣いているの、カンナ」

 「だ、だって……」

 「言っているでしょう。わたしは必要なことをしているだけ。わたしの体は汚れてなどいない。泣くことはむしろ、わたしに対する侮辱となるわ」

 アーデルハイドはそう言い切った。

 そこにいたのは断じて売女ばいたに身を落とした哀れな元令嬢などではなかった。何があろうと決して汚れることのない、真に高貴な生まれの貴族だった。

 「は、はい……」

 アーデルハイドに言われたとおり、カンナは涙を拭った。

 歯を食いしばってアーデルハイドの体を洗い続けた。

 そしていま、カンナはアーデルハイドの乗る馬車の御者として、馬の手綱を握っている。

 「それに……」

 アーデルハイドは言った。

 「わたしにはウォルター将軍やレオナルド陛下を相手にしている暇はない。この戦いに勝つために一刻も早く強靱な補給網を築きあげなくてはならないのだから。リーザ。あなたもリンゴの木を大陸中に広めなければならないのでしょう」

 「も、もちろん!」

 「だったら。こんなところでグズグズしているわけにはいかない。すぐに次の場所に向かわないと。さあ、カンナ。馬車を出して。すぐに次の目的地に向かうわ」

 「はい!」

 カンナは言われるままに馬を煽り、馬車を走らせた。

 『食の三女神』がいま、かの人たちの戦場に走り出したのだ。

              第五話完

              第六話につづく

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