二六章 アーデルハイドの旅

 「なるほど。我が商会から食料を買い込みたいと」

 「さようです、ショーヒンさま」

 アーデルハイドは目の前の老人相手にうなずいて見せた。

 遊牧国家ポリエバトル。

 その広大な平原地帯に建てられた巨大な天幕のなかのことだった。

 〝うたくじら〟の協力を取り付けたあと、アーデルハイドは食料その他物資の補給体制を整えるべく、大陸各地の有力な商人の元を訪れていた。ショーヒンもそのひとり。遊牧の国ポリエバトルでは名の知れた商人であり、有数の規模の商会を経営している。すでに八〇過ぎの老人で、手も、足も、胴も、ガリガリに痩せており、肌の色はまるでなめした皮のよう。人間というより枯れた木の枝が動いている。そんな印象を受ける人物だ。それでも、その両の目にはまだまだ青年期の光を宿しており『老いている』という印象はまったくない。

 遊牧部族の長らしく、この歳になってもまだ何人もの妻を抱えている。そのなかにはまだ一〇代の少女さえいた。

 ――風習は国それぞれ。わたしの価値観で判断してはいけない。

 アーデルハイドはそう自分に言い聞かせた。とは言え――。

 まだ一〇代の少女が八〇過ぎの老人の妻にされてしまう、そんなポリエバトルの風習に嫌悪を感じてしまうのはどうしようもない。

 その嫌悪感を必死に隠してアーデルハイドは交渉を重ねる。鬼部おにべとの戦いに勝ち抜き、人類世界を守るためにはいくらでも食料が必要であり、この男の管理する莫大な数の家畜の肉と乳はそのためにどうしても必要なものなのだ。

 ――わたし個人の感情など云々している場合ではない。何としてもこの大商人を味方に付け、補給体制を確保しなければ。

 その思いで必死に嫌悪感を呑み込む。

 ショーヒンは枯れ果てたような老いた体には似つかわしくない、そこばかりはまだ青年期の生命力を宿している両目でアーデルハイドを値踏みするように眺めながら、もったいぶった口調で言った。

 「しかし、鬼部との戦いがはじまってより二〇年。我が部族の男たちも多くが鬼部との戦いに散った。残された年寄りや女子供だけで家畜の世話をしつづけるのは大変でな。家畜の数も以前に比べればずいぶんと減ってしまった」

 「はい。そう伺っております」

 アーデルハイドは礼儀正しく肯定した。

 実情を知らない人間が聞けばショーヒンの言葉は『絶対、嘘だ』と思ったことだろう。何しろ、この巨大な天幕の外には見渡す限り、平原を埋め尽くすように放牧されている無数と言っていい羊がいるのだから。

 しかし、ショーヒンの言葉は嘘ではない。

 アーデルハイドはそのことを知っている。ショーヒンと会う前に出会った羊飼いの老人――ショーヒンと同年代だろう――が言っていたからだ。

 「鬼部との戦争のせいですっかり家畜の数も少なくなってしまった」と。

 平原を埋め尽くす羊の群れも、このポリエバトル屈指の大商人にとってはまだまだ少ないのだろう。よその人間には理解しがたいが、それが遊牧の民の感覚というものなのだ。

 「ですが、ショーヒンさま。鬼部との戦争は人間同士の戦争とはわけがちがいます。鬼部は人間を食うために、食料とするために攻め寄せてきます。この戦いに敗れれば人間をまっているのは鬼部の食料として、家畜として、飼われる運命だけ。決して負けるわけにはいかないのです」

 力を込めてそう言い切ったあと、さらにつづける。

 「そのためには強力な軍が必要であり、強力な軍を維持していくためには強靱な補給網が不可欠です。人類と、この世界の未来のため、そして、あなた方ご自身のため、協力してはくださらないでしょうか?」

 「ふむ」

 と、ショーヒンはアーデルハイドの熱弁に対して値踏みする口調で言った。青年期の活力を宿した両目がジロジロと無遠慮にアーデルハイドの体をなめ回す。

 アーデルハイドはいま、体の線がくっきりと浮き出る薄物うすものの衣服をまとっている。寒冷な気候のポリエバトルにおいては肌寒いのを通り越して凍えるほどだ。しかし、無理をしてそんな服を着てきた甲斐はあったらしい。ショーヒンの枯れ果てたような顔に歳に似合わぬ欲望が浮かびあがった。

 「むろん、わしとて一族のものを鬼どもに食わせたくはない。人類世界を守るためと言うなら喜んで協力しよう。とは言え――」

 こほん、と、咳払いしてからつづける。

 「『無い袖は振れぬ』と言うからのう。それに、わしには昔からの付き合いのある相手も多い。おぬしに畜肉を卸せばそのものたちに対して卸せなくなり、不義理を働くことになる。そこを無理しておぬしに融通するからには、それなりの見返りが必要になるが……」

 「何なりと」

 迷いなく、アーデルハイドは答えた。

 「あなたのどのような要求にもお応えします」

 ショーヒンの両目に好色な光が宿った。

 ……奥の部屋でふたりの時間を過ごしたあと、ショーヒンはニコニコと上機嫌で戻ってきた。アーデルハイドの方はいつも通り、気品ある超然とした態度を崩していない。そんなアーデルハイドに対し、ショーヒンは嬉しそうに言った。

 「いやはや、意外じゃったなあ。しょせん、貴族の小娘。見た目がいかに良くても手練手管てれんてくだの方は何も知らぬと思っておったが……なかなかのものじゃったぞ」

 ショーヒンの好色丸出しの発言をしかし、アーデルハイドは表情ひとつかえずに受けとめた。

 「わたしも貴族の娘。夫となる方を喜ばせるため、閨房けいぼうでの技に関しては教え込まれております」

 「ほほう。レオンハルトの貴族は娘にそのようなことまで教えるのか」

 「他の貴族の家のことは存じません。我がエドウィン家では代々、そうしてきたということです」

 エドウィン家は武力や謀略よりもむしろ、婚姻政策によって勢力を築いてきた家系。それは国内のみならず他の国との間でも同じであり、各国の有力貴族のもとに一族の子弟を送り込んできた。

 そのことから外交に関する案件の多くを担ってきた一族。そのエドウィン家にとって娘は、相手の家系に取り入るための貴重な道具であり、婿となる男を喜ばせ、気に入られるため――そして、あわよくばその技の数々で操るために――閨房での振る舞いを教え込む伝統があった。

 アーデルハイドもまたそうして磨かれ、育てられてきた娘であった。

 ――見た目ばかりで男を転がす手練手管のひとつも知らない。

 ウォルターの愛人であるイーディスはそう思っていたが、その認識は正しくなかった。たしかに、普段のアーデルハイドは媚態びたいを示して男を誘うような真似はしない。しかし、閨房において相手を籠絡ろうらくするとなれば話は別。代々、受け継がれてきたエドウィン家の技は、無数の男相手の実戦で磨かれた酒場女の技量と比べても劣るものではなかった。その技量を持ってアーデルハイドはすでに、何人もの商人から協力を取り付けていた。

 アーデルハイドの返事にショーヒンはますます上機嫌になった。

 「ほうほう、それは頼もしい。ぜひともまたお相手願いたいものじゃな」

 「取り引きに応じてくださる限りにおいては、いつ何時たりとも要求に応じましょう」

 「ほうほう。それではさっそく、もう一度お願いしようかの」

 「かしこまりました」

 ……そして、一度目に勝るほどの時間をかけたあと、アーデルハイドは巨大な天幕の外に出た。そこではまだ一〇代の愛らしい少女が馬の世話をしながらアーデルハイドをまっていた。

 「お帰りなさいませ、アーデルハイドさま」

 「またせたわね、カンナ」

 「いいえ、だいじょうぶです。チノと遊んでいましたから」

 と、カンナと呼ばれた少女はヒマワリのような明るい笑顔で言う。

 『チノ』と言うのはポリエバトルに来て以来、移動用に使っている馬のことだ。カンナは〝歌う鯨〟の首領、エイハブによって従者として付けられた少女だ。従者と言っても監視役も兼ねていることは言うまでもない。協力関係を取り付けたとは言え〝歌う鯨〟はあくまでも野盗集団。その認識は甘くはない。

 カンナも〝歌う鯨〟の一員であるからには当然、その本拠地であるゲンナディ内海に浮かぶ島で生まれ育った。ポリエバトルにくるまで本物の馬など見る機会も、さわる機会もなかった。当然、馬の世話をした経験などない。

 ところが、ポリエバトルに来てチノに引き合わされると妙に『ウマが合った』らしい。チノはすぐにカンナに懐いたし、カンナも熱心に世話をした。空いた時間にはいつも『ふたりで』遊んでいる。

 カンナはまだ一〇代の少女であり、アーデルハイドのような神々しいまでの美しさなどはもちろん持ち合わせていない。それでも、年相応の明るさと愛らしさに満ちた快活な少女であり、アーデルハイドもその素直な性質が気に入っていた。

 そのカンナはいま、愛らしい顔を曇らせていた。

 「……それより、アーデルハイドさまが気にかかります」

 「わたしのことが?」

 はい、と、カンナはうなずいた。

 「いくら、人の世のためとは言っても、ご自分のお体を汚すような真似をされて……」

 汚すような真似をされて。

 そう言われてアーデルハイドは意外そうな表情でカンナを見た。

 「わたしの体が汚れる? どう言う意味?」

 「だ、だって……! 食料を確保するために、もう何人もの男たちにご自分の体を開かれて……」

 〝歌う鯨〟の協力を取り付けたあと、アーデルハイドが交渉に臨んだ商人はすでに十指に余る。そのすべての相手と枕を共にすることで協力関係を取り付けてきたのだ。

 その意味ではカンナの言うことももっともだとは言える。しかし、アーデルハイドは当たり前のように言った。

 「それがなぜ、わたしの体が汚れることになるの? わたしは人の世のために必要なことをしているだけ。わたしの体は汚れてなどいないわ」

 そう断言するアーデルハイドには神々しいまでの輝きがあり、カンナはその輝きに圧倒された。

 確かに――。

 アーデルハイドの美貌は何人の男と肌を合わせても汚れたりはせず、それどころかますます気高さを増していくように見える。少女はまぶしそうに女主人の姿を見ながら、アーデルハイドが男たちを惹きつける理由を悟った。

 人類最高の美貌。

 そう呼ばれる外見もたしかに大きな要因にはちがいない。しかし、それだけではない。アーデルハイドのもつその気高さ、汚れることを知らないその凛々しさこそが最大の理由だった。

 汚れることを知らない存在だからこそ汚してやりたい。

 屈服くっぷくさせ、隷従れいじゅうさせたい。

 アーデルハイドのもつ高貴なる雰囲気が男たちのそんな下卑た欲望に火を付け、燃え立たせる。だからこそ、アーデルハイドは男たちを惹きつけるのだ。

 カンナも悪漢集団である〝歌う鯨〟のなかで育った身。まだ一〇代の身とはいえ、男の欲望に関してはよく知っている。それだけに――。

 男たちの欲望を一身に受けてなお、汚れることを知らずに美しく光り輝くアーデルハイドがまぶしく見えた。

 「アーデルハイドさま!」

 少女は思わず叫んでいた。

 「あたし、アーデルハイドさまのためならなんでもします! 何なりとお申し付けください」

 アーデルハイドは少女のその勢いに驚いた様子だった。しかし、すぐに落ち着くとクスリ、と、笑って見せた。そして、言った。

 「ええ。頼りにしているわ」

 言われてカンナは舞いあがった。

 これは実は歴史的な出来事だった。

 いつも冷静なアーデルハイド、その崩すことのない美貌から『氷の令嬢』とも噂されたアーデルハイドが他人に向かって笑顔を浮かべて見せたのだ。

 アーデルハイドの笑顔を見たものがこの世にいったい、何人いることか。

 そう言えるほどにめずらしい出来事だった。

 それだけ、この素直で愛らしい少女はアーデルハイドにとって特別な存在になったのだった。


 それからも、アーデルハイドは各地を巡り、商人たちと交渉を重ねた。

 休む間もなく移動にいどうを重ねる強行軍。カンナとの身軽なふたり旅だからこそ可能なことだった。

 その日、アーデルハイドはとある町の宿屋に泊まっていた。部屋でひとり、これまでに協力関係を築いた商人たちの記録を確認していた。

 カンナは例によってチノの世話をしながら遊んでいるはずだった。

 「これまでは順調と言っていい。各地を巡って有力な商人との協力関係を築くことができた。けれど……」

 アーデルハイドは呟いた。

 そう。たしかにこれまでの旅は順調なのだ。それでも、アーデルハイドの声には不安の色が強く漂っていた。

 「……食料品の価格は軒並み高騰している。大陸中で食糧が不足しつつある」

 原因はひとえに人手不足だった。

 二〇年に及ぶ鬼部との戦乱。そのなかで多くの若い男たちが戦にとられ、食われていった。本来であれば農夫として大地に根を張って生き抜き、人々のために多くの食料を生産していた男たちがだ。

 主な働き手である男たちを失った農村では残された年寄りや女子供たちが作物の栽培をしなくてはならず、収穫量は大きく落ち込んでいる。しかも、その食料の多くは前線の兵士たちのもとへと送らなければならず、その過程で鬼部の襲撃を受けて失われてしまう分も多い。

 そして――。

 この傾向は戦乱が長引くにつれ、ますます悪化することはあっても良くなることはまず考えられない……。

 「このままでは、いくら金を払っても買うものがなくなってしまう。この戦乱はきっとまだまだつづく。早く手を打たなければ。人手の減った農村でも以前通りに、いえ、それ以上に作物を栽培出来るようにしなくては。でも、いったい、どうしたら……」

 教養豊かで明晰なアーデルハイドとは言え、農業に関してはずぶの素人。名案など浮かぶはずもない。途方に暮れているとドアが遠慮がちにノックされた。

 「どうぞ」

 アーデルハイドの声に応じて入ってきたのはお付きの少女、カンナだった。

 「アーデルハイドさま。アーデルハイドさまにお客さまです」

 「お客さま?」

 さしものアーデルハイドも不思議そうに尋ねた。この旅先で自分のことを知る人間などいないはずだった。

 カンナはうなずいた。

 「はい。食料の件でお話がしたいと」

 「会いましょう」

 アーデルハイドは即座に答えた。

 食料と聞いては黙っていられない。カンナに案内されて外に出ると、そこには何台もの馬車を連ねた隊商がまっていた。

 先頭に立つひとりの女性がアーデルハイドに近づいた。

 「お初にお目にかかります、アーデルハイドさま」

 女性はそう前置きしてから名乗った。

 「『ジョニー・アップルグランパ』代表、リーザと申します。以後、お見知りおきを」

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