二四章 心の折れた勇者

 斬!

 勇者の一撃が音高く敵を斬り裂いた。だが――。

 斬り裂いた相手は鬼王ではなく、軍を率いる将軍級でさえなく、そもそも、鬼部おにべですらない。森のなかを歩いているうちに襲いかかってきた『ただの』野性動物でしかなかった。単なる獣に勇者の斬撃は強力すぎた。真っ二つに両断されただけではなく、全身の細胞という細胞すべてが溶け崩れるかのように空中に消えていく。それは確かに、勇者の強さを証明する光景ではあった。しかし……。

 「くそっ……!」

 襲ってきた獣を一撃のもとに斬り捨てた勇者は声の限りに毒づいた。

 「なんでだ、なんで勇者であるこのおれが、この程度の戦闘で疲れなきゃならないんだ!」

 苛立ちを込めてそう叫ばずにはいられない。ただし、その声は大きいだけで鋭くも、力強くもなかった。それどころか、肩で息をしながらようやく叫ぶありさまだった。

 ガヴァンの後ろでは聖女フィオナと魔女スヴェトラーナのふたりが、以前のふたりからは考えられないほどに憔悴しょうすいしきった表情でついてきている。頬はこけ、目はくぼみ、王都中の兵士たちが『一度でいいからあの笑みを向けてもらいたい!』と熱望した清楚な輝きも、数多くの男たちを崇拝者にしてきた妖艶ようえんな美貌も、そこにはない。そこにいたのは疲れはて、やつれきったただの人間だった。

 鬼界島きかいとうに乗り込んでから数日。

 勇者一行はすでに疲労ひろう困憊こんぱいしていた。

 これまではいつだって、道中の獣や魔物、標的とする首魁しゅかい以外の敵の相手は『雑兵』と見下す同盟軍に任せ、自分たちは首魁ただひとりを相手にしていればよかった勇者一行である。五分の条件での戦いならば無敵だが、力の配分を知らない。森のなかで襲ってくる獣たちの襲撃に、必要もないのにいちいち大技を使ってしまい、すぐに息切れを起こす。

 そもそも、大物狩りに特化した勇者たちには逆に、小物を仕留めるために適した技がない。首魁を倒すために鍛えられた、強力な大技しか持ち合わせていないのだ。

 そのために、一の力で倒せる敵に一〇〇の力を使ってしまう。

 あっという間に疲労が溜まって当然だった。

 そもそも、勇者一行は他の兵にお膳立てをしてもらった上で敵の首魁を倒すのが役目。目の前に見える敵だけを相手にし、目の前にいる敵だけを倒せばそれでよかった。目に見えない敵に警戒する必要もなければ、突然の奇襲を気にする必要もなかったのだ。

 いまはちがう。

 森を進んでいればいつ何時、獣が襲ってくるわからない。敵の奇襲があるかも知れない。そのために、四六時中、神経を張り詰め、警戒していなくてはならない。葉擦れの音ひとつ、獣の足音ひとつにもいちいち聞き耳を立て、正体を探らなくてはならない。

 勇者一行にとってそれは未知の経験であり、極度の疲労を強いた。

 さらに、勇者一行には深刻な問題があった。

 「グッ……!」

 ガヴァンが顔をしかめた。

 腹を押さえた。

 まただ。

 またも腹に差し込むような痛みが走る。

 鬼界島に入って以来、ガヴァンはずっと腹を下していた。

 鬼界島の水が原因だ。

 ハリエットがいた頃はこんなことはなかった。ハリエットは旅先で生水を飲むことの危険さを幾重にも学んでいた。そのために水を汲んだ場合はまず、手近な砂と布を重ねて濾過器を作り、丁寧に水を濾過することで不純物を取り除いていた。さらに、濾過した水を充分に煮立てて煮沸消毒してから飲用や料理に使ってきた。ガヴァンたちはその気遣いを『生温い水しか用意できないのか』と馬鹿にしていたが、その気遣いによって水あたりの危険から守られていたのだ。

 ガヴァンたちもさすがに『生水を飲むのは危険』というぐらいのことは知っていた。だから、煮立たせることはした。しかし、濾過まではしていなかった。煮立たせる時間も短い。そのために不純物の混じった,雑菌の死滅しきっていない水を飲むことになり、たちまち腹を壊す羽目になったのだ。

 もちろん、フィオナとスヴェトラーナのふたりも事情は同じ。鬼界島に入って以来、ずっと腹は『グルグル』と下品な音を立てていた。

 気位の高いこのふたりにとってこれほどの恥辱はなかった。

 この自分が、美貌にも、才能にも恵まれ、『国一番の魔法使い』として崇められ、将来は世界を救った英雄、勇者の妻として栄光に輝く人生を送る自分。その自分がよりによって『下痢』などと言う下品きわまる事態に悩まされるとは。

 それだけでも耐えがたい屈辱だというのに、急激な便意に耐えきれず、贅を凝らした絹製の下着に漏らしてしまったときの衝撃ときたら……!

 「……少しでも漏らしたら殺す」

 そうすごまれたときの恐怖は――。

 筆舌に尽くしがたい。

 ふたりの――もともと、大きくもなければ、広くもない――堪忍袋かんにんぶくろの緒はすでに千切れてはじけ飛んでおり、その怒りの矛先は自分をこんな場所まで連れてきたガヴァンに向けられていた。

 ガヴァンはいまやふたりから一日中、責められる立場であり、ハリエットの前で三人でイチャイチャしていた姿からは想像も付かないありさまだった。

 もちろん、水だけではなく食物にも同じ問題がついて回った。

 携帯食料はもってきたとは言え、何日、いや、何ヶ月つづくかもわからない旅の間中、ずっと賄うことの出来る量などあるはずもない。味も素っ気もない携帯食料などすぐに飽きてしまい、見るのも嫌になるという事情もある。どうしても、食料は現地調達しなくてはならなかった。しかし――。

 旅先でよく知らない草や木の実を口にするだけでも充分に無謀だと言うのに、ここは鬼界島。人間の世界とは草も、木も、すべてがちがう世界。そんな世界で調べもせずに木の実を食べたりしたら……。

 死なないだけ運が良かった。

 そう言うべきだろう。

 食べるつど、下痢、腹痛、発熱、幻覚……様々な症状に襲われた。

 ハリエットがいれば、こんなことにはならなかった。

 ハリエットであれば鬼界島に乗り込むとなればまず、同盟諸国に頭をさげて協力を申し込んでいた。あくまで低姿勢に、腰を低く、懇切こんせつ丁寧ていねいに遠征の意義を説いて協力を求めた。謝礼を約束した上で斥候隊を編成してもらった。

 出立を前にすれば眼前でいま一度、勇者一行の遠征の意義を説き、そのお膳立てを整えるための斥候隊の役目の重大さを語った。その上で頭をさげて謝辞を述べ、送り出していた。

 そして、地図の作成、獣の生息状態、食べられる植物の有無……それらすべてを調べてもらった。

 どれも、命懸けの仕事だ。

 前人未踏の地を行くと言うだけで遭難したり、未知の獣の襲撃に遭ったりと、生命を落とす危険はいくらでもある。まして、食べられせる植物かどうかを知るためには結局のところ、自分で食べてみるほかはない。食べてみて大丈夫ならそれを記録し、食用植物として登録する。運悪く食用に適さない植物を食べてしまえば……遙かはなれた異界の地で骸と化すしかない。

 そんな過酷な任務を果たそうとするのも、自分たちの任務がいかに重大であり、人類を救うために必要なことかを説かれればこそだ。

 同盟諸国がそんな危険に任務に兵士たちを派遣するのも、これまでにハリエットが幾度となく綿密な協議を行い、信頼されているからこそだ。例え、ガヴァンが同じことを望んだとしても、両手に女をはべらせ、ソファの上にふんぞり返り、『名誉を分けてやるからありがたく思え』などと言う尊大な態度で『命令』していたのでは、誰にも応じてもらえるわけがない。

 まして、ハリエットならば、たとえ、それが一介の雑兵であろうとも、生命を懸けて任務を全うし、帰還した兵がいるとなればその場に駆けつけ、手を取って感謝する。あなたのおかげで人類は戦える。そう伝える。

 そうであればこそ、兵たちも任務を全うしようとする。雑兵の生命など気にも懸けないガヴァンたちのために同じ熱意をもって任務に励むはずもない。

 その当然の結果として、勇者一行の道のりは誰の支援も受けられず、食用植物の見分けもつかず、目的地の場所さえさえわからない。前人未踏の地を勘に任せてさまよい歩くだけ、という、信じられないほどにずさんなものとなっていた。

 出発前はそれで何の不安もなかった。

 これまで知らず知らずのうちにハリエットの完璧なサポートを受けていたガヴァンたちにとって、目的地とは『ただ適当に歩いていれば』たどり着くものだったのだから。

 しかし、そのハリエットを失ったいま、そうではないことを思い知らされていた。

 ――くそっ!

 ガヴァンは心のなかで叫ぶ。

 ――くそ、くそ、くそっ! なんでだ、なんで、このおれがこんな苦労をしなきゃならないんだ。おれは勇者だ。神に選ばれた神託の勇者なんだ。いつだって格好良く、栄光に包まれているべき存在なんだ。それが何でこんなにみじめに……。

 「思い返してみるのですな。あなた方はいままで一度でも道中で野生の獣や魔物の襲撃に遭ったことがおありかな? はじめての土地で道に迷ったことは? 食料や薬品に不足したことは? 水の補給ができずに困ったことは? 野宿に適した場所を見つけ出すことができずに一晩中、歩きまわる羽目になったことは? 目前の敵以外の何者かと戦う羽目になり、苦戦させられたことは? そんなことがいままでに一度でもありましたかな?」

 モーゼズに言われた言葉が頭のなかでこだまする。

 「あなた方がそのような雑事に煩わされず、鬼部退治に専念できていたのはすべてハリエットどののおかげ。ハリエットどのはあなた方が鬼部退治に専念できるよう、我々をはじめ、諸国と交渉し、協力関係を取り付けていたのですよ。道中の地図の作成、獣や魔物たちの討伐、物資の調達、補給地点の確保、鬼部の主力以外を引きつける陽動作戦……それらすべてを手配していたのがハリエットどのなのですよ。ハリエットどのの働きがあればこそ、あなた方は鬼部退治に専念できた。勇者としての力を,目的とするただ一体の鬼に対して向けることができた。だからこそ、いままで勇者として無敵の存在でいられた。だと言うのに、そのハリエットどのを追放するとは。まさに、己の足を食べるたこ同然。愚かすぎて言葉もありませんな」

 ――くそ、くそ、くそっ!

 ガヴァンは心のなかで叫びつづける。

 ――認めない、認めないぞ! このおれの、勇者ガヴァンの業績があの役立たずのおかげだったなんて。おれは勇者だ。神に選ばれし神託の勇者なんだ。おれはおれの力で勝ってきた。あの役立たずのおかげなんかじゃない!

 それを証明してやる。

 何としても証明してやるんだ。

 その思いだけで意地になって進みつづける。

 しかし、意地で現実はかわらない。腹の痛みは一向におさまらず、下痢は治らない。体力を奪われ、全身をけだるさが包む。

 体が重い。

 熱っぽい。

 一歩、歩くのも一苦労。あえぎあえぎ進むしかない。

 もはや、そこには世界を救うために神に選ばれた勇者一行としての姿はなかった。どこに行けばいいかもわからずにさまよい歩く、惨めな難民の群れだった。

 「……いったい、どうするのです、ガヴァンさま」

 フィオナが尋ねた。

 というより、詰問した。

 もはや『さま』という呼びかけが敬愛ではなく、皮肉にしか聞こえない。それほどに棘のある言い方だった。

 「いったい、どこに向かっているのです? どこに行けばいいのかわかっているのですか? どうなのです、答えてください」

 「うるさい!」

 それがガヴァンの答えだった。

 「いちいち騒ぐな。おれに任せておけばいいんだ! 黙ってついてこい」

 「騒ぐなとは何だ。そもそも、こんな目に遭っているのは貴君が準備を怠ったせいだろう」

 と、こちらはよりはっきりと責める口調でスヴェトラーナが言った。

 「その通りです」

 フィオナは険を含んだ視線でうなずく。

 「ハリエットがいた頃はこんな目に遭うことなんて一度もなかったのに……」

 「貴公はとんだ役立たずだったわけだな」

 フィオナも、スヴェトラーナも、いまやガヴァンに対する侮蔑の念を隠そうともしない。ちょっと前まではガヴァンの寵愛を巡ってはげしく対立していたと言うのに、いまではふたり仲良くガヴァンをなじる仲である。それだけ、自分をこんな苦境に陥れた勇者に対する恨みが深い、と言うわけだ。

 フィオナも、スヴェトラーナも、ハリエットを追放することに関しては大賛成だったし、『これで足手まといがいなくなった』と喜んでいた。しかし、そんなことはふたりとも都合よく忘れている。

 「いいから、ついてこい。道なんてものは歩けば出来る。目的地なんて歩いていればたどり着くんだ」

 「あまりに無謀です。このありさまでなお、突き進もうと言うのですか」

 「なんと蒙昧もうまいな。そんな根性論が現実に成り立つと思うのか」

 フィオナとスヴェトラーナが口々にそう責める。

 ガヴァンは叫んだ。

 「うるさい! とにかく進むんだ。こんな森、すぐに抜ける。森さえ抜ければ……」

 森さえ抜ければすべてはうまく行く。

 ガヴァンはそう吐き捨てた。

 その思いにしがみついていた。

 このまま引き返すなどできるわけがなかった。

 鬼王の下にたどり着き、激戦の果てに惜しくも敗れ、撤退する……とでも言うならともかく、敵と出会うこともなく『腹を壊したので帰ってきました』などと、どうして言うことが出来るだろう。神に選ばれし神託の勇者ともあろうものが。

 言えるわけがない!

 その事情はフィオナとスヴェトラーナも同じ。

 『名高い聖女さま(魔女さま)が、遠征先で腹を壊して帰ってきたってよ』

 そんな噂をされると思うだけではらわたが煮えくり返る。

 もはや、生きてはいられないほどの恥辱。

 そう思うからこそ不満を漏らしながらも決して『引き返すべき』とは言わず、ガヴァンについて歩いているのだ。

 「森さえ抜ければ、森さえ抜ければ……」

 ガヴァンは呪文のようにその言葉を繰り返す。

 よろめきながら、進みつづける。

 そして、その日はやってきた。

 疲労困憊し、下痢と発熱とによってフラフラとなりながらも、勇者一行はついに、森の切れ目へとさしかかった。まばらなった木立の向こうからは森とはまったくちがう開けた平原がうっすらと見えていた。

 ガヴァンは狂喜した。

 「見ろ! 平原だ、ついにこの忌々しい森が終わったぞ!」

 勇者一行は喜びのあまり、駆け出した。

 残された最後の力を振り絞って森を出た。

 草原へと駆け出しだ。だが――。

 目の前に広がる光景を見たとき、勇者一行の狂喜の表情は絶望へとかわった。

 そのまま力なく崩れ落ちた。

 目の前に広がる光景。

 それは、人類世界では見たことも聞いたこともないような巨大な獣たちが無数に闊歩する世界だった。

 「……帰ろう」

 その現実の前に――。

 勇者ガヴァンはついにそう言った。


             第四話完

             第五話につづく

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