第四話 日出処の女王と日沈処の勇者

一九章 勇者起つ!

 エンカウンの町がこんなにも深い夜の闇に覆われたのは町が作られて以来、はじめてのことだったかも知れない。たい鬼部おにべようの常識外れに高い防壁のなかに並ぶ家々の半分以上にはもはや灯は点いていない。かつては毎夜まいよ決して絶やすことなく点けられていた見張り台の灯も、いまはほとんど点けられないままだ。

 国王レオナルドによって男爵令嬢ハリエットが追放された後、レオナルドを見限った多くの警護騎士と市民たちがハリエットを追って町を出て行った。そのために、エンカウンの町は灯を点けるものもいない閑散とした有り様になっていた。

 それでも、残ったものたちは鬼部の侵略がつづくなか、日々の暮らしを送ろうとしていた。そんななか――。

 エンカウンの防壁を越えて人々のもとへ侵入しようとする幾つもの影があった。


 「熊猛ゆうもう将軍しょうぐん、起きてください、熊猛将軍!」

 エンカウンの住宅地。

 ごくありふれた家々が建ち並ぶその一角で、狂騒に駆られた声が響いた。

 レオンハルト王国、いや、人類最強の軍勢である熊猛ゆうもう紅蓮隊ぐれんたいを率いる熊猛将軍ウォルターの家である。正確に言うと領主館内に用意された部屋をきらったウォルターが、エンカウンでの住み処を探して住宅地を巡っていた際、『おお、この家ならイーディスも喜びそうだ』という、世の女性たちを泣かせるような理由で気に入り、持ち主が出て行って不在なのをいいことに占拠した家、と言うことだ。

 そのウォルターはいま、占拠した家の寝室で眠りの園に埋没していた。夫婦ふたりが余裕をもって寝られるダブルサイズのベッドも、ウォルターの巨体の前では育ちすぎた子供をもてあますベビーベッドのようにしか見えない。

 その寝室のドアを、ウォルター配下の金熊長のひとりが必死の形相で叩きながら切羽詰まった声を張りあげているのだ。ウォルターはと言えば、死者さえ飛び起きそうなほどに必死なその声にも気が付かないようで、安逸な眠りをむさぼっていた。

 「むふふ、いやつじゃのう、イーディス。もそっとこっちへ来い……」

 イーディスを模した、子供の作った人形のような抱き枕――実はウォルターのお手製――を抱えながら、幸せそうに寝言をこぼす。

 主のそんな姿も知らず、金熊長きんゆうちょうは力の限りにドアを叩き、声を張りあげる。

 「起きてください、熊猛将軍! 町が大変なことになっているんです、鬼部どもが侵入してきて……!」

 鬼部おにべ

 その言葉に反応したのか、ウォルターはようやく身じろぎした。大きなあくびをしてのそのそと動き出す。

 その姿はどう見ても人間ではなく、冬眠から起きたばかりの熊にしか見えない。

 「ふわああ……」と、あくびをしながら立ちあがる。

 ドアに近づき、鍵のかかったノブに手をかけた。いくらも力を入れたようにも見えないのに、ノブはいとも簡単にねじり切られていた。

 わざとやったわけではない。本人としてみればただ普通にドアを開けようとしただけだ。ただ、なにぶん力がありすぎる。その上、半分、寝ぼけた状態なので力の加減が出来ない。そのため、こうなってしまう。

 相手が無生物で幸運だった。人間だったら腕の一本ぐらい簡単に根元から引っこ抜かれているところだ。

 ともかく、ドアノブが引きちぎられたことでようやくドアが開いた。金熊長は目の前に立つ巨漢の将軍に向かって早口でまくし立てた。

 「一大事です、将軍! 早く、出撃のご準備を!」

 「ふああ。なんなんだ、いったい?」

 いまだ寝ぼけ眼のまま、頭などをポリポリかきながらウォルターは呟く。本人は呟いたつもりなのだがはたから聞けば『叫んだ』と言いたくなるほどの大声である。

 そのウォルターはいま、かわいい熊のプリントのいっぱいついた寝間着とボンボン付きのナイトキャップを身に付けていた。実はこれもウォルターのお手製。ウォルターが手ずから一枚いちまい縫い付けたものだ。

 熊が人間の振りをしているとしか思えない、このひげ面の大男の趣味が実は手芸、というのは何度、聞いても違和感がありすぎる。しかし、この際ばかりはそんなことを気にしている場合ではない。

 金熊長は文字通り泡を食いながら報告した。

 「鬼部が……! 鬼部の群れが防壁を越えて市内に侵入しました! 市内各所で民を襲い、虐殺の限りを尽くしております!」

 「なんじゃ、そんなことか」と、ウォルターはエンカウンの民が聞けば怒り狂うにちがいないことを言ってのけた。

 「わしら、熊猛紅蓮隊の役割は鬼部どものもとへと進軍し、頭の首をとることだ。町の防衛なんぞという地味な仕事は警護騎士どもに任せておけ」

 その言葉には金熊長も怒りを通り越して呆気にとられた。

 とは言え、さすがにこのがさつな熊男相手に『何を呑気なことを言っているんだ⁉』と、怒鳴りつけるわけにもいかない。そのかわり、金熊長は改めて事情を説明した。

 「で、ですから、その警護騎士はもうほとんどいないんです! 追放された男爵……いえ、ハリエットを追って出て行ってしまって……」

 もう何度も報告したでしょう!

 そう叫びたい苛立ちが含まれている声だった。

 もともと、熊猛紅蓮隊とは対鬼部用に国家を越えて編成された特別な軍。レオンハルトの近衛騎士団を中核にしているとは言え、その実体は各国の精鋭騎士たちを集めた寄せ集め。この金熊長もレオンハルトの人間ではない。

 ――鬼部の侵略から人の世を守る。

 その使命感によってまとまっているだけで、ウォルター個人に対する敬意や忠誠心があるわけでもない。こんな態度を見ると怒鳴りつけたくもなるのである。

 ……もっとも、ウォルターのがさつさと、その拳の破壊力を知る身としてはそういうわけにも行かず、怒りをグッと呑み込んでこらえるしかないわけだが。

 「おお、そうだったな」と、ようやく事態を飲み込んだらしいウォルターが大あくびをしながら口にした。

 「では、熊猛紅蓮隊、出撃と行くか。姑息な小鬼どもにこの世の覇者が誰なのか教えてやらんとな」

 他にどのような問題があろうとも、そう言ってニヤリと笑うウォルターは確かに――。

 人類最強の常勝将軍なのだった。


 エンカウンの各所でかがり火が焚かれ、炎の明るさと夜の闇が争っていた。

 その争いのさなか、闇に包まれたなかで悲鳴があがり、肉を食らい、血をすするおぞましい音が漏れてくる。それに次いで鋭い金属が骨ごと肉を断ち切る音。

 エンカウンの市内は全域がすでに戦場となっていた。

 いくら指揮官が安眠をむさぼっていたとは言え、そこは熊猛紅蓮隊。さすがに全人類のなかから選ばれた精鋭軍だけあって、指揮官不在だからと言って詰め所に引っ込んで何もしない、などということはない。銅熊長どうゆうちょう銀熊長ぎんゆうちょうの指揮のもと、市内各所に散って鬼部狩りをはじめていた。

 見かけるはしから民を襲い、殺し、食らっていた鬼部たちも、熊の記章を付けた騎士たちの手によって一体、また一体と数をへらし、劣勢に追い込まれつつあった。

 そのなかでもひときわ音高く、鬼部の群れを相手に奮戦している戦士がいた。その周囲にはすでに数えることも出来ないほどの鬼部の死体が転がっている。いずれも一刀のもとに斬殺された、もはや芸術品と言ってもいい切り口の死体ばかり。

 まるで、市内に侵入した鬼部たちすべてを引き寄せる大渦巻きのように鬼部の群れに囲まれながら、いささかも揺らぐことなく、目につくはしから斬り倒しているのは勇者ガヴァン。

 人類最強の戦士。

 鬼王を倒す運命の人間。

 そう呼ばれるにふさわしい戦い振りだった。

 また一体、ガヴァンの剣に斬られ、死体となった鬼部が地面に倒れる。

 それを見て愉快な気分にでもさせられたのだろうか。このような酸鼻な場とは思えないほど陽気な声が響いた。

 「おうおう、ガヴァン。ずいぶんと張りきっとるなあ」

 ノシノシと音を立て、食料を求めて回遊する熊のように現れたのは熊猛将軍ウォルター。その手にはいまだに血のしたたる鬼部の首が三つ四つ握られている。いずれも切り口は乱暴なもので剣や斧で斬ったのではなく、素手で引きちぎったのだと一目でわかる有り様だった。

 人間よりもはるかに強靱な体力を誇る生物。

 鬼。

 その鬼を相手に素手で挑み、素手で首を引きちぎることの出来る人間。

 それが熊猛将軍ウォルターだった。

 「よう、兄貴! 遅かったな」

 鬼部の群れに囲まれて休む間もなく戦いながら、笑みさえ浮かべる余裕を見せて、兄の訪れを迎えるガヴァンだった。

 ガッハッハッハッ、と、ウォルターは豪快そのものの笑い声を立てた。

 「すまん、すまん。イーディスの抱き枕の抱き心地があんまり良くてなあ。ついついぐっすり眠っておったわ」

 「やれやれ、相変わらずだな、兄貴」と、ガヴァンは苦笑した。

 ウォルターの手芸好きはガヴァンももちろん知るところである。

 「まあいい。いままで眠っていたなら元気いっぱいだよな。後は頼むぜ。おれはさすがに疲れてきたんでな」

 「おう、任せろ!」

 嵐のようにそう答えてからウォルターはあることに気が付いた。

 「そう言えば、おぬし。いつも一緒のふたりはどうした? いかんぞ。惚れた女はいつでも手元に置いておかんとな」

 言われてガヴァンは再び苦笑した。

 「フィオナは負傷者を助けるために走り回ってる。スヴェトラーナは……市街戦ではあいつの魔法は強力すぎて使い道がないからな。この機に乗じて鬼部の軍勢が押し寄せてきたときのために防壁の上だ」

 「なるほどのう」と、ウォルターは納得したように、感心したように言った。

 ブン! と、音を立てて手にしていた鬼部の首を放り投げた。人間の手で投げられたとはとても思えない、まるで投石機から撃ち出された石のような勢いで生首が飛んでいき、数体の鬼部をまとめてなぎ倒した。

 ウォルターは身構えた。

 のっそりと、と、言いたくなるような動作なのに不思議と、のろいとか、緩慢だとか言った印象がない。来たるべき爆発の瞬間のために力を溜めている。そんな印象がある。

 「では、おぬしは女たちのもとに行ってやれ。ここはおれに任せろ」

 「おう、頼むぜ、兄貴!」

 心得た様子でガヴァンが身軽に跳びすさる。その瞬間――

 「ゴウガアアアアッ!」

 すさまじい咆哮と共に熊猛将軍の巨体が鬼部の群れ目がけて突撃した。


 そして、おぞましき一夜は開けた。

 肉片。

 血だまり。

 折れた剣。

 市内各所に残る激闘の跡を朝の光が容赦なく照らし出す。それでも――。

 そのすべてはすでに過去のものだった。

 勇者ガヴァンと熊猛紅蓮隊の奮戦によって市内に侵入した鬼部たちは夜のうちに一掃された。敵の侵入を防ぐための高くてぶ厚い防壁は、立場をかえれば侵入した敵が逃げ出すことを阻む牢獄の壁ともなる。勇者ガヴァンと熊猛紅蓮隊は侵入した鬼部の群れを一体、また一体と防壁の手前に追い詰め、斬り倒していった。それは確かにかの人たちの戦士としての有能さを示す出来事だった。心配されたこの機に乗じた襲撃もなく、市内は平穏を取り戻した。とは言え――。

 被害はたしかに大きなものだった。

 侵入した鬼部の総数の数倍もの市民が食い殺され、熊猛紅蓮隊は精鋭揃いだけあって死者こそ出なかったものの、突然の強襲と言うこともあって幾人もの負傷者が出た。残った市民の間から熊猛将軍ウォルターと熊猛紅蓮隊、そして、すべての統帥者たる国王レオナルドに対する不満と非難が噴出するのは当然だった。

 そもそも、夜中のうちに鬼部の侵入を許すなど失態以外の何物でもない。

 ジェイが警護騎士団長になって以来、こんなことは一度もなかった。

 ジェイとアステス、このふたりの指揮のもと、明確な綱紀こうきによって統率された警護騎士団はいついかなるときも警戒を怠ることはなく、夜ともなれば交代で警備に当たり、一秒の隙もなく市外全域を監視していた。

 それはまさにアリの這い出る隙もない鉄壁の監視であり、事実、鬼部の侵入を許すことなど決してなかった。それなのに、昨夜は……。

 すべてはジェイにかわり市内の警護責任者となったウォルターの責任。自ら攻め込むことばかりに特化し、防衛戦の経験をもたないウォルターには『襲撃に備えて警戒する』という発想がなかった。当然、部下に対して警戒するよう指示することもなく、監視はろくに行われなかった。その結果である。

 怠慢、無能とそしられても文句は言えないところだった。

 そのウォルターはいま、領主館のなかに作られた臨時の玉座の間で兄である国王レオナルドと対峙していた。国民に対する過酷なほどに厳しい態度とは裏腹に、弟たちには意外なぐらい甘いレオナルドであるが、さすがにこのときばかりは厳しい目を向けていた。

 ウォルターはと言えば兄からとがめだてされる視線を受けて、母親に叱られた子供のようにねた表情をしていた。

 「とんだ失態だな、ウォルター」

 厳しく、しかし、他の臣下に対するときと比べればかなりの甘さを含んだ声でレオナルドは言った。

 「お前がいながらあんな襲撃を許すとはな」

 「しかしな、兄者……」

 ウォルターは不満たらたらといった様子で答えた。

 レオナルドは素早く、しかし、肉親の情をにじませながらたしなめた。

 「いまは公務の場だ。『陛下』と呼べ」

 むう、と、ウォルターは唸った。

 不満ではあるが正論なので文句も言えない。

 そう言う表情だった。

 「それでは、陛下」と、ウォルターは言い直した。

 「それは無理な注文というものですぞ。我ら熊猛紅蓮隊の役割は鬼部のもとに向かい、これを殲滅せんめつすること。町を守るなどと言う、そんな地味な仕事ではござらん。そんなことは地元の警護騎士団の役目ですぞ」

 「……警護騎士団か」

 今度はレオナルドが苦虫を噛み潰す番だった。

 「……まさか、警護騎士団がハリエットを追って町を抜け出すとはな。しかも、国境沿いの廃墟に集まって何やらコソコソやっているらしいが……」

 「放っておいていいのか、兄者。兄者の命令さえあれば、おれが直々に出向いて全員、連れ戻してくるぞ」

 「そ、それは行けませぬ!」

 エンカウンに残った数少ない警護騎士のひとり、ジェイの先々代の団長の頃から仕えている古参の騎士があわてて止めに入った。

 「そのようなことをしている間に鬼部の襲撃があったらどうなされます⁉ 警護騎士団が町を去り、さらに熊猛紅蓮隊までいなくなったとなれば、エンカウンは丸裸同然! 襲撃されてはひとたまりもありませんぞ」

 「むう……」

 「しかし、やつらは言わば反乱者だ。反乱者どもを放っておくわけにはいくまい」

 ウォルターが呻き、レオナルドが呟いたそのときだ。

 「あんなやつらは無用だ!」

 清新な活力に満ちたりんとした声が響いた。

 視線か集中する。

 声と共に颯爽さっそうたる立ち居振る舞いでその場に現れたのは国王三兄弟の末弟、人類最強の戦士、勇者ガヴァンだった。

 奈落の底が水を呑み込むように資金を注入して開発された勇者の装備を身にまとい、自信の笑みを浮かべてやってくる。その左右にはいつも通り聖女フィオナと魔女スヴェトラーナが控えている。

 ガヴァンが、フィオナが、スヴェトラーナが、レオナルドの前でひざまずく。

 「陛下。国を守る責任を放り出して逃げ出すような雑魚など無用。この勇者ガヴァンとその一行がすべてを終わらせてご覧に入れましょう」

 「なに?」

 「いまこそ勇者一行の真価を発揮するとき。そういうことですわ、陛下」

 「陛下。どうか我らにお命じください。『鬼王を討て!』と」

 「陛下のご命令さえあれば我ら勇者一行、鬼界島きかいとうに乗り込み、必ずや鬼王の首を取ってまいります」

 フィオナが、スヴェトラーナが、そして、ガヴァンが、口々に言う。さすがにレオナルドは目を丸くした。

 「なんだと? いまだ誰も足を踏み入れたことのない鬼界島。そこに乗り込み、鬼王の首を取ってくると言うのか」

 「さようですわ、陛下」

 何を当たり前のことを。

 そう言いたげな、それでも、少しも優雅さを損なわない口調と態度でフィオナが言った。

 「それこそが勇者と、勇者を支える聖女であるわたくし、フィオナの役割。いかなる困難があろうとも臆するものではございません」

 「この魔女スヴェトラーナ。唯一無二の勇者のパートナーとして見事、鬼王討伐を果たしてご覧に入れましょう」

 「と、言うわけだ、兄貴」

 ニヤリ、と、自慢げな笑みを浮かべてガヴァンは言った。

 「パーティー唯一の役立たずだったあの女が追放されて、おれたちは真に無敵となった。いまのおれたちなら鬼界島に乗り込んで鬼王の首を取るなど赤子の手をひねるようなもの。おれたちに任せて朗報をまっていてくれさえすればいい。ウォルター兄貴はその間、この町を守っていてくれ。なあに、大した時間はかからないさ。すぐに鬼王の首を取って戻ってくる」

 「むう、しかし……」

 ウォルターがそう言い淀んで渋い表情をしたのは、任務の過酷さに怯んだためではない。その反対だった。

 「それではお前ばかりがいい目を見ることになるではないか。弟のお前が鬼王退治に向かい、兄のおれが雑魚の相手など。何だか不公平という気がするぞ」

 不満を漏らした次兄をなだめたのは長兄のレオナルドだった。

 「そう言うな、ウォルター。神託によって勇者に選ばれたのはたしかにガヴァンなのだからな。鬼王退治は勇者たるものの役目だ」

 「それは確かにそうだろうが……」

 それは遙かな伝説。

 かつて、遙かな古代。人の始祖と鬼の始祖とがどちらの種がこの世に誕生するかを懸けて争った。両者は一歩も引かず、その戦いは永遠に続くかと思われた。

 そんななか、一柱の神がひとりの人間を使わした。

 鬼を倒すもの。

 勇者を。

 勇者は人の始祖と共に戦い、鬼の始祖を倒し、ここに人の世ははじまった……。

 伝説である。

 もちろん、誰ひとりとしてその伝説が事実だなどとは思っていない。

 しかし、ただひとつ、この荒唐無稽な伝説にも事実は含まれている。

 それは勇者。

 鬼部の襲来があるたびに神託によって勇者が選ばれ、そのものが鬼王を倒すという。

 そして、今回の襲撃に際して神託を授かり、勇者に選ばれたのが国王三兄弟の末弟ガヴァンなのだった。

 「……まあ、仕方あるまい。たしかに勇者に選ばれたのはおれではなくガヴァンだからな。鬼王退治は任せるとしよう」

 ウォルターは渋々といった様子でそう言った。

 渋々でもなんでもそうして認めてやれるあたり、実は相当に仲の良い兄弟なのだった。

 国王レオナルドがうなずいた。

 「よろしい。では、これで決まりだ。勇者ガヴァン、聖女フィオナ、魔女スヴェトラーナ。レオンハルト国王としてそなたたちに命を下す。即刻、鬼界島に赴き、鬼王の首を取って参れ!」

 「御意ぎょい!」

 ガヴァンが、フィオナが、スヴェトラーナが、声を揃えて返答する。マントを翻して颯爽と立ちあがり、その場を去って行く。

 残されたウォルターはやれやれとばかりに首を振った。

 「……弟に手柄を譲ってやるのも兄の役目か。仕方がない。つまらん役目だが町の防衛に専念するとしよう。どうれ、軍の配置でも確認してくるとするか」

 そう言って退出しようとするウォルターに対し、レオナルドか声をかけた。その表情は獅子王と呼ばれる厳格な王のものではなく、弟に対する兄ものだった。

 「ああ、ところで、ウォルターよ」

 「なんだ、兄者?」

 「お前の趣味にとやかく言う気はないのだが……あの、お前手作りのイーディスの抱き枕。あれだけはやはり、何とかした方がいいと思うぞ」

 「なんだ、兄者。兄者もあの抱き枕が欲しいのか?」

 「い、いや、そう言うことではなくてだな……」

 ガッハッハッハッ、と、ウォルターは笑い飛ばした。

 「いくら兄者と言えどそれは聞けんぞ! 何しろ、あの抱き枕は大切なたいせつなイーディスの分身だからなあ。イーディスのやつ、おれが何度、言っても『主が留守の間、屋敷を守るのは自分の務め』と言って王都の屋敷から離れようとせん。まったく、かわいいやつよ。あの抱き枕にはイーディスがせめてもの心づくしとしてもたせてくれた髪の毛が入っておる。おれの勝利の女神だ。誰にも渡せんよ」

 そう言って――。

 豪快に笑い飛ばしながらその場をあとにするウォルターだった。

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