一七章 〝歌う鯨〟を求めて

 キイ、キイ、キイ。

 こすれたようなかいの音が響く。

 広大な内海の上を一艘の小舟が渡っている。

 本来はこんな内海の奥深くまでやってくるような舟ではない。人ふたりが乗れる程度の大きさしかないちっぽけな舟。作りも簡素で強度も低い。長い距離を航行するための舟ではなく、岸部近くで魚を捕るために使われる単純な舟だ。

 その舟がいま、内海を渡り、奥深くへと向かっている。初老の船頭が操るただ一本の櫂によって。ある意味では自殺行為と言ってもいい。それぐらい、無謀な船旅だった。

 その舟の先頭にひとりの女性が立っている。

 揺れる小舟の上とは思えないぐらいまっすぐに伸びた背筋。地上に降りた女神を思わせる美貌。

 伯爵令嬢アーデルハイド。

 いや、もはや、伯爵令嬢ではない。家を取りつぶされ、追放され、その身にまとう衣服以外には財産とてない。

 地位と財産のすべてを奪われた元伯爵令嬢。

 いまは、ただのアーデルハイドだ。

 そのアーデルハイドが小舟に乗り、内海の奥を目指している。

 気流のせいか、それとも、内海を満たす水の特性ゆえか、常に深い霧が立ちこめ、昼なお薄暗い灰色の内海。岸辺に舟を出して魚をとる漁師以外、誰ひとりとして近づこうとしない魔境。

 ゲンナディ内海。

 そのゲンナディ内海に満ちる霧の向こう。ぼやけるようにして、ささくれ立った山の連なりのような島が見えている。その島の各所に霧にたゆたう火が見えている。まるで、島全体が青い鬼火をまとっているかのような姿だった。

 異界。

 控えめに言って、そう言いたくなる姿の島だった。

 「お、恐ろしい……」

 櫂をこぐ、初老の船頭が震えながら口にした。ガリガリに痩せた男だった。手も、足も、まるで枯れ枝のように細い。それでも、風雨を浴びてなめし革のようになった皮膚は熟練の漁師であることを告げていた。

 「ど、どうしても行くのかね?」

 その船頭が身を振るわせながら言った。その身以上に声が震えている。

 「もちろんです」

 船頭の怯えた声に対し、アーデルハイドはまるで『恐怖』というものがこの世に存在しないかのように毅然とした声で答えた。

 「わたしはあの島に行かなくてはならないのです」

 「け、けど……あの島は恐ろしいところだ。〝歌う鯨〟の本拠地だで」

 船頭は絞り出すようにしてそう言った。恐怖のあまり、喉がカラカラに渇いているのがはっきりとわかる声だった。櫂をこぐ手もガタガタと震え、手元が定まっていない。水面が静かな内海だからいいようなものの、これがもし、複雑な潮の流れが走る外海であったならたちまち遭難しているところだ。

 それぐらい、怯えていた。

 熟練の漁師がそこまで怯える。怯えさせる。それだけの存在がこの先の島にいると言うことだ。

 アーデルハイドは船頭の声に答えた。

 「わかっています」

 「恐ろしいやつらだ。ウミヘビのように内海の奥からやってきては、周辺の村を襲い、略奪していく。人を食らうという噂もある……」

 「わかっています」

 「ただの野盗なんかじゃねえ。一国にも匹敵する規模をもつ連中だで」

 「わかっています」

 「いままで何度も討伐しようとして、幾つもの国が軍隊を送ってきた。けど、ことごとく返り討ちに遭って……」

 「わかっています」

 「首領のエイハブ、悪漢あっかんおうエイハブは、人間とも思えねえ恐ろしいやつで……」

 「わかっています」

 恐れおののく船頭の言葉にアーデルハイドはそう繰り返す。

 その言葉にも、態度にも、迷いもなければ、怖れもない。

 ただ、ひたすらに、自分のやるべきことをやる。

 その覚悟が満ちていた。

 アーデルハイドは毅然とした態度を崩すことなく、船頭に言うともなく言った。

 「だからこそ、わたしは行くのです。人類に残された余剰戦力はもう、かの人たちしかいないのですから」

 「け、けど……エイハブは欲望の塊みたいな男で。あんたみたいなべっぴんさんが行ったら、どんな目に遭うか……」

 「かまいません。わたしひとりの身と人類全体の運命を引き替えにはできません」

 アーデルハイドはあくまでも毅然とした態度でそう答える。その姿はまさに、女神のごとき高潔なまでの美しさに満ちている。

 そこにいたのは紛れもなく人類最高の美女。

 反逆者としての汚名も、追放刑も、霧に包まれた灰色の異界でさえ、かの人の美しさを汚すことは出来ないのだ。

 そんなアーデルハイドの態度に――。

 船頭はすべてをあきらめた。

 溜め息をつきながらキイ、キイ、と、音を立てて櫂をこぎ続けた。

 船が島に着いた。

 アーデルハイドはその島に一歩を踏み出した。

 「わ、わしも行こう……」

 初老の船頭は言った。

 全身、枯れ枝のように痩せ細った身をガクガクと震わせながら、それでも必死に面をあげ、胸を張っている。

 怖い。

 恐ろしい。

 逃げ出したい。

 そんな思いに襲われながらなお、男として、貴婦人を守る騎士役を務めようと全力で意地を張っているのだ。悲壮なまでの決意と使命感に満ちたその表情に対し、アーデルハイドはニコリと微笑んで見せた。

 その笑顔ひとつで無数の男たちが喜んで生命を投げ出す。

 それほどに美しい笑みだった。

 「ありがとうございます。あなたの騎士道精神、たしかに受け取りました。ですが、あなたには家族がいます。どうか、ご家族のもとにお戻りください」

 「け、けど……」

 「わたしのことは心配いりません。ここまでありがとうございました。どうか、お気を付けて」

 アーデルハイドは優雅に貴族の礼をした。

 船頭もその気品に圧倒され、何も言えない。あくまでも気遣わしげに、それでも櫂をこいで島を離れはじめた。

 アーデルハイドはその姿を見送ると島に向き直った。

 キッとした視線で島を見据える。その瞳にはもう初老の船頭のことなどまったくない。

 アーデルハイドは歩きはじめた。

 昼夜を問わず霧に閉ざされた内海の島。さぞかし湿気だらけのジメジメした場所なのだろう……。

 そう思うところだろう。実際はまったくちがう。空気は乾燥し、地面も乾いている。

 その理由は島の各所で焚かれているかがり火だ。

 島のあちこちで人を呑み込む火球のようなかがり火が焚かれ、霧を払い、空気を焼き、大地を乾かしている。だからこそ、霧に閉ざされたこの島でも人が生きていけるのだ。

 ――これだけのかがり火を焚き続けるためにどれほどの燃料がいることか。それだけの燃料をそろえられるなんて、一国に匹敵する財をもっていると言うのは本当のようね。

 アーデルハイドはそう思い、島の奥目指して歩きはじめた。

 島には大勢の人たちがいた。

 野盗と聞いて思い浮かべる、脛に傷持つような風貌の男たちばかりではない。もちろん、そんな男たちもいる。島のあちこちを我が物顔で歩いている。しかし、それだけではない。女もいれば、子供もいる。年寄りまでいる。

 年寄りがいるというのは実はすごいことなのだ。仕事の出来なくなった年寄りを食わせていくのは共同体にとって大きな負担になる。小さな共同体ではその負担に耐えかねて年寄りたちを殺すか、追放するかするところも少なくない。

 それなのに、この島では年寄りたちが普通にいる。みんな、のんびりした様子でくつろぎながら酒を飲んだり、煙草を吸ったりしている。

 ――それだけ、皆が豊かな暮らしをしていると言うこと。だからこそ、仕事の出来なくなったお年寄りたちを養う余裕がある。お年寄りたち自身も悪びれることなく堂々と隠居生活をしていられる。

 アーデルハイドは島の豊かさと、人々の心の余裕に感心した。もっとも、その豊かさと余裕を支えているのは近隣の町や村からの略奪・強盗なわけだが。

 女たちは幼い子供を背負って忙しく立ち働いており、子供たちはそこら中を駆けまわっている。その姿はレオンハルトで見てきた市井の人々の姿と何もかわらない。

 野盗の群れとは言え、これほどの規模となれば男たちだけでは維持していけない。妻もいれば、子供もいる。つまりは男たち一人ひとりにきちんと家族がいると言うことだ。だからこそ、これだけの規模の集団を維持していけるのだ。

 ――これはやはり、野盗などではなく国のひとつ。なんとしても味方にしないと。

 アーデルハイドは改めてそう決意した。

 キツい魚油の匂いが鼻につく。

 広大な内海の豊かな恵み。豊富な魚介類が〝歌う鯨〟の主食と言うことなのだろう。島の至る所から魚の匂いがしている。しかし、この魚油の匂いはそれだけではない。かがり火の燃料として魚油が使われているのだ。これだけの魚油を得るためにいったいどれほどの量の魚が捕られているのか想像も出来ない。そんな暮らしをずっとつづけてきたのだとすれば……ゲンナディ内海の恐ろしいまでの豊かさを示す例だった。

 アーデルハイドの行く先々では異変が起きていた。

 それまで忙しく立ち働いていた人々が手をとめ、息を殺し、かの人の美貌に見入っているのだ。アーデルハイドの行くところ、まるで時間が止まったかのように人々が動きを止め、じっと視線を注ぐ。子供たちでさえ駆けまわることを忘れ、『信じられないものを見た』と言わんばかりに口をポカンと開けて、見とれている。

 それぐらい、アーデルハイドの美貌はきわだったものだった。そしてまた、この場にはそぐわないものだったのだ。

 アーデルハイドはまっすぐに門に向かった。

 門と言っても普通の建物の門ではない。ささくれだった岩山に直接、取り付けられた門。おそらくは、岩山の内部をくりぬいて居城としているのだろう。この巨大な岩山をくりぬき、居城とするためにどれほどの年月と労力が必要だったことか。

 ――大陸で最も古い歴史をもつ国家は〝歌う鯨〟だ。

 まことしやかにそうささやかれるのも納得の姿だった。

 アーデルハイドは門に近づいた。

 門前に立つふたりの番兵はポカンとした表情を浮かべてアーデルハイドを見つめていたが、ようやく自分たちの役目を思い出したのか、急に目覚めたような表情になった。あわてて声をあげた。

 「と、とまれ! な、何者だ、ここに何の用が……」

 ある? と、最後まで言うこともできない。

 それぐらい、アーデルハイドの美貌に息を呑まれてしまっているのだ。

 無理もない。

 本来であればアーデルハイドはこのような場所にいる女性ではない。一生、きらびやかで洗練された宮廷のなかで過ごす。貴族以外の男など生涯、目の当たりにする機会すらない。そう言う女性なのだ。

 それほどに場違いな美貌を前にしては戸惑い、うろたえるのが当たり前だった。

 「わたしはアーデルハイド」

 アーデルハイドはまっすぐに番兵を見据えて名乗った。

 「〝歌う鯨〟の首領、エイハブさまにお会いするために参りました。どうか、お取り次ぎくださいますよう」

 アーデルハイドは優美な貴族の礼をとって、そう告げた。


 エイハブ。

 悪漢王エイハブ。

 〝歌う鯨〟の首領として裏社会の人間であれば知らないものはいないと言われる男。

 そのエイハブはまさに『天を突く』という表現がピッタリくるような大男だった。

 ――大きい。

 巨漢と言うことであればウォルターで見慣れているアーデルハイドでさえ、第一印象としてそう思った。

 それぐらい大きな男だった。

 身長は二メートルを優に超えている。体重は一五〇キロはあるだろう。華奢なアーデルハイドなど、その腹のなかに胎児のように丸めて納めることが出来そうだった。

 ウォルターも熊に擬せられるほどの巨漢だが、このエイハブはそれよりもなお大きい。ウォルターよりも大きい人間を見るのはアーデルハイドははじめてだった。

 しかし、エイハブを『天を突く』大男にしているのは単に、その体格ばかりではない。

 そのオーラだ。

 雰囲気だ。

 表情は自信にあふれ、山火事のような熱気を吹き出している。事実、近くによるとムッとくるような熱風を感じるほどなのだ。恐ろしく体温が高いのだろう。つまりはそれだけ代謝が激しく、とてつもない身体能力を秘めていると言うことだ。

 そして、その雰囲気。

 人間と言うより、二本足の獣と言った方がふさわしい凶猛なオーラ。あのウォルターでさえ、ここまで凶猛なオーラをまとってはいない。

 それらのすべてがエイハブを実際の体格以上に大きく見せている。天を突く巨人として、人の目に映るようにしている。ウォルターが森を歩むひぐまなら、エイハブは氷河の上を闊歩する白熊しろくまだった。

 そしていま、アーデルハイドはそのエイハブとたったひとり、対峙しているのだ。

 岩山をくりぬいて作られた居城。

 そのなかの『王の間』でのことだった。

 あたりには〝歌う鯨〟の男たちが集まり、まるで生まれてはじめて『女』という存在を見たかのようにジロジロと無遠慮な視線を注いでいる。ある意味、それは正しいとも言えた。アーデルハイドのような気高さと気品とを併せ持つ美女を見る機会など、いままでに一度もなかった男たちなのだ。

 そんな男たちの視線すべてを、貴族の令嬢の自然な気品でやり過ごし、アーデルハイドは貴族の礼をとった。

 「お会いしてくださり、ありがとうございます。悪漢王。アーデルハイドと申します」

 エイハブは面倒くさそうに鼻を鳴らした。

 「挨拶なぞいらん。特に貴族の挨拶は性に合わん。仰々しくて回りくどい」

 体格にふさわしい野太い声だった。子供でもあればその声だけで泣き出してしまうだろう。普通の貴族令嬢であればその場で卒倒しているところだ。しかし、アーデルハイドは毅然とした態度を崩すことなく、巨漢のエイハブに対峙している。

 アーデルハイドを見るエイハブの口元には下卑た笑みが浮いている。

 挨拶にも、貴族の礼にも興味はない。

 しかし、アーデルハイドその人には大いに興味があった。

 人類の至宝。

 世界最高の美女。

 そう呼ばれるアーデルハイドのことはエイハブも知っていた。いままでは噂を聞くばかりで実物を見る機会などなかったが、ついにその本物を見ることができたのだ。しかも、わざわざ向こうからやってくるとは。

 エイハブは遠慮とか、礼儀とか言う言葉とは完全に無縁な態度で、好色な視線を送っていた。ジロジロと見つめていた。どんな女性であろうと嫌悪のあまり逃げ出したくなるその視線をしかし、アーデルハイドはそよ風のように受けとめていた。誰であろうと、かの人の毅然とした美貌を崩すことは出来ない。

 アーデルハイドは毅然とした美しさのまま言った。

 「では、単刀直入に言わせていただきます。あなた方を雇いに来ました」

 「なに?」

 あまりに意外な言葉にさしもの悪漢王が眉をひそめた。そんな表情をしてみると意外と愛嬌のある顔立ちになる。周囲では仲間の男たちもざわついている。

 「おれの聞き間違いか? おれたちを雇うと言ったように聞こえたが」

 「聞き間違いではありません。わたしはたしかにあなた方を雇うと言いました」

 エイハブは吹き出した。その風圧だけでまわりの男たちが吹っ飛んでいきそうな笑いだった。

 「こいつは面白い! 泣く子も黙る〝歌う鯨〟を雇おうとはな! おれたちを傭兵団かなにかと勘違いしてるんじゃねえのか? おれたちはそんな、金に尻尾を振る犬っころじゃねえ。独立不羈、自由奔放な盗賊さまだ。雇うとか、雇われるとか、そんな話の通用する相手じゃねえんだよ」

 「『雇う』というのがあなた方の誇りを汚す行為だと言うならお詫びします。ですが、人類に残された余剰戦力はもうあなた方しかいないのです」

 アーデルハイドはそう言ってからつづけた。

 「ご存じでしょう。いま、人類世界は鬼部おにべの侵攻を受けて危地に追いやられています。鬼部の侵攻がはじまって二〇年あまり。人類はこれまでよく戦い、持ちこたえてきました。ですが、その間に多くの犠牲を出し、抗戦も限界に近づいています。

 特に深刻なのは昨今、鬼部による補給路の襲撃が相次ぎ、物資の輸送が困難になっていることです。このままでは人と物の移動が滞り、国と国は分断され、連携が取れなくなります。各地の軍は補給もままならないままに孤立し、打ち倒されていくことでしょう。そんなことになれば人類はもう、鬼部の侵攻に太刀打ちできません。人の世は滅び、人々は鬼部の餌としてのみ生きることを許される事態となることでしょう。

 それを防ぐためには一刻も早く補給路の警備を固め、鬼部たちが手出しできないようにする必要があります。ですが、人類世界のすべての国は鬼部との戦いに全力を注いでいます。補給路の警備に兵を避きたくても、それだけの余裕がないのが現状です。ですから、あなた方が必要なのです。

 いまの人類世界で、あなたとあなたの率いる〝歌う鯨〟だけが鬼部との戦いに参戦していない。あなたたちだけが補給路を守る軍勢となれるのです。そのために、雇いにきたのです。あなた方に補給路を守ってもらうために」

 アーデルハイドのその訴えをエイハブは笑い飛ばした。

 「おいおい、冗談言っちゃいけねえな。するとなにかい? おれたちにあちこちの国に尻尾を振る犬っころになれってのか? ふざけちゃいけねえな。おれたちゃあ自由の民だ。なにものも縛られず、誰にも従わず、ただ己の思いのままに生きる。そんな自由の民なんだ。国のためになんぞ戦うわけには行かねえな」

 「国のために戦えなどとは申しておりません。ただ、わたしが個人的に雇うだけです。わたしの指示に従ってくださればそれでいいのです」

 「へえ、あんたにねえ」

 エイハブは相変わらず好色そのものの視線でアーデルハイドをジロジロ眺めている。アーデルハイドの姿を見て何を想像しているのかがはっきりわかる視線だった。

 並の神経の男ではこうはいかない。アーデルハイドの美貌を見て同じことを想像したくなっても、後ろめたさを感じてつい目をそらしてしまう。その点、エイハブは何の遠慮もない。欲望をそのまま表に出している。ここまで自分の欲望に正直に振る舞えるなどある意味、男らしいと言えた。

 「けど、わかってるのかい? 人を雇うには報酬を支払わなくちゃならねえんだぜ?」

 「もちろん、承知しております」

 「へえ。だったら、あんたはなんで報酬を支払おうってんだい? 元伯爵令嬢さんよ。あんたは家を取りつぶされた上に追放された身。もはや、無一文の身だろうがよ」

 「よくご存じですね」

 「あたりめえだろ。おれたちの家業にとっちゃあ情報は命だからな。その点に抜かりはねえよ」

 「頼もしいことです。ますすまあなた方が必要になりました。たしかに、いまのわたしは伯爵令嬢などはありません。すべての財産を失った、ただの貧乏娘です。ですが、わたしには最後の財産があります」

 「最後の財産?」

 「この体です」

 「なに?」

 アーデルハイドは立ちあがった。

 ためらいなく衣服を脱ぎすてた。

 エイハブは思わず息を呑んだ。周りでは他の男たちもいっせいに目を見開いている。これまで欲望のままにあまたの女を抱いてきた悪漢王。そのエイハブにして思わず息を呑んでしまう。それほどに、アーデルハイドの裸体は美しいものだった。

 「わたしも『世界最高の美女』と呼ばれている身。この身にいささかの自負はあります。この体をあなた方の望むままに報酬として差し出しましょう」

 おおっ、と、まわりの男たちの間からざわめきが起きた。

 「わたしの商品価値を落とすような真似ではない限り、どのような要求にも応じましょう。そのかわり、わたしの言葉に従っていただきます」

 きっぱりと――。

 何の迷いもなくそう宣言するアーデルハイドだった。

 「……なるほど。いい度胸だ。本当にどんな要求にも応じるってのか?」

 「はい」

 「この島に何人の男がいると思っている? そいつら全員の相手をしようってのか?」

 「はい」

 「アレやコレや、全部やるってんだな?」

 「あなたの言っていることが何を意味するのかはわかりません。ですが、要求されれば何なりと応じましょう」

 わたしの商品価値を落とすこと以外は、ですが。

 アーデルハイドはそう付け加えることを忘れなかった。

 「……なるほど。だが、こうは思わねえのか? おれたちは盗賊だ。報酬だけ受け取って従わねえってこともあるかも知れねえんだぜ?」

 「悪漢には悪漢の掟があると聞きます。自らの信義には従うという。その信義を信じるだけです」

 「なるほど」

 エイハブは舌なめずりした。

 「まあ、報酬としちゃあ、悪くねえが……」

 悪くないどころではない。まわりの男たちはその報酬を受け取ることを渇望し、いまにも襲いかかりそうだ。そんな男たちを一睨みで押しとどめておいて、エイハブはアーデルハイドに言った。

 「だが、あんたの言葉が本当かどうか確かめさせてもらわねえとな。今夜一晩、おれの相手をしてもらおう。それで本当におれのすべての要求に応じたなら……雇われてやるよ。そういうことでどうだい?」

 「承知しました」

 アーデルハイドは毅然とした態度でうなずいた。

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