一五章 熊猛将軍に捧ぐ歌
「いま、帰ったぞおっ!」
レオンハルト王国の王都、その住宅街にあるウォルターの屋敷。そこは突然の、まったく予期していなかった大嵐に見舞われたところだった。
主であるウォルターは最前線の町エンカウンに遠征しており、しばらくは帰ってこない。人類世界を席巻する
今日もまたその平穏な日々が続く……そう思っていたところに突然、大声が響き渡り、主であるウォルターが帰ってきたのだ。驚くのが当然だった。
「ウ、ウォルターさま……! なぜ、ここに……」
長年、ウォルターの執事を務める初老の男性がうろたえながら出迎えた。その顔色は、いままさに心臓発作を起こしている最中なのではないかと思えるほどに青くなっている。
ウォルターは鍵のかかったドアを軽々と引きちぎり――本人にしてみれば『普通』にドアを開けただけのことで、鍵がかかっていることにも気が付かなかったが――嵐のごとき大声をあげながら屋敷のなかに入り込んだ。
「ここはおれの家だ! 帰ってくるのは当たり前だろうが」
「し、しかし、ご予定では当面の間はエンカウンにとどまると……」
「ええい、野暮なことを言うな! 急用ができてイーディスに会いにきたのだ。イーディス、イーディスはどこだ⁉」
その叫びに――。
初老の執事は心臓がとまったのではと思わせるほどに顔色を白くした。
「お、おまちください、ウォルターさま……! 奥方さまはいま……み、みんな、ウォルターさまをおとめしろ、早く……!」
執事に言われるまでもない。
その場にいた使用人全員、必死の形相でウォルターにしがみつき、その巨体を押しとどめようとした。しかし――。
相手は『豪熊』とまで呼ばれる巨漢。その身は巌のようにたくましく、力は本物の熊を投げ飛ばすほどに強い。貴族付きの使用人が何人、束になってかかろうととめられるものではない。ウォルターは金魚の糞のごとく、使用人たちをまとわりつかせたままズンズン屋敷の奥へと進んでいく。
無駄な抵抗と知りつつ、それでも使用人たちは執事を筆頭にウォルターにしがみつき、必死にとめようとする。
それは何も、ウォルターを屋敷のなかで野放しにしたらありあまる力によってすべてを破壊してしまう……などと心配しているからではない。そんなことはしょっちゅうなのでいまさら誰も気にしない。
そうではなく、こうまでして必死にとめようとするのは、決して行かれてはならない場所があるからだ。もし、いま、その場で行われていることをウォルターが目撃したならば……。
ウォルターの怒りは火山となって爆発し、辺り一面を焦土にかえることだろう。そんなことになれば、いま、この場にいる使用人たちも全員、巻き添えとなり、血と肉の塊へとされてしまう。それはまさに千年の一度の大暴風雨が直撃したかのような光景となるはずだ。それだけは避けなければ……!
――は、早く、あの女に来てもらわなければ……!
執事はそう
クラシックな環境に育ち、貴族付きの執事であることに誇りをもってきたこの男性は、主の
伝統的な価値観のもとで育ったかの人にとって、平民の出であり、しかも、主であるウォルターの目を隠れてやりたい放題やっているイーディスの存在は嫌悪と軽蔑の対象以外の何物でもなかった。そのイーディスをさして『奥方さま』と呼ぶのはウォルターから厳命されているからであって、消して望んでのことではない。そう呼ぶたび、口の腐る思いをしているのだ。
その執事にとって、イーディスの存在を渇望したのはまさにこのときがはじめてのことだった。
――早くきてくれ! もう押さえきれん!
最初から押さえられてなどいないのだが、脂汗にまみれながらそう思う執事であった。
屋敷の奥からパタパタという足音が響いた。
執事の待ち望んだ時がきたのだ。
屋敷の奥からイーディスが姿を現わした。
「ウ、ウォルターさま、一体……」
息を切らして走ってくる愛妾の姿を見てウォルターは愉快そうに大笑いした。
「ガハハハハッ、なんだ、なんだ、その格好は! そんなにおれに会いたかったのか?」
ウォルターがそう言うのも無理はない。
イーディスの格好は控えめに言ってもだらしのないものだった。
服は着崩しているし、髪も整えていない。身だしなみ程度の化粧すらしていない。それでいて肌は紅潮し、息を切らしている。普通なら『情事の真っ最中でもあったか』と疑うところだ。とうてい、人前に出られるような格好ではない。
それを『おれに会いたいあまりに身なりも整えずに飛び出してきたか』などと好意過剰に解釈して大笑いするなど、この世にウォルターひとりぐらいのものだろう。未来の妻(の予定であった)アーデルハイドがいつも思っていたように『戦場以外のことは何も目に入らない』人間なのだ。
その点、酒場上がりのイーディスはさすがに抜け目がない。ウォルターの態度を見ると途端に心得、両腕で体を抱きしめて恥じらいの姿勢を作る。そのまま、妖艶な流し目など送ってみせる。
「……もちろんですわ、ウォルターさま。愛しいいとしいウォルターさまが帰ってきてくださったのですもの。女としての見栄も忘れて飛び出してしまうのも当然ですわ」
上目使いにささやくその声も効果抜群。さすがに酒場で多くの酔っ払い相手に鍛えた芸であった。
ガハハハハッ、と、ウォルターは豪快に笑った。
「そうか、そうか! まったく、愛いやつじゃ。喜べ! とうとうそなたを正式な妻にしてやれることになったぞ!」
「はあ?」
イーディスは思わず口をあんぐりと開け、目をパチクリさせた。
『男殺しのイーディス』
幼い頃からそう呼ばれてきた身が、よりによって愛人の前でこんな間の抜けた表情を見せるのは、生まれてはじめてのことだった。
「……というわけでだ。とうとう兄者はあの澄まし返った女を追放してくれたのだ」
ガハハハハッ。
例によって例のごとく、大声で笑いながらウォルターはことの
エンカウンで開かれた祝勝会。
その席上で起きたまさかの出来事。
アーデルハイドを含む三人の令嬢がまとめて婚約破棄され、あげくの果てに追放されるという大事件を。
「まあ。それでは、アーデルハイドさまはもうこの国にはいられないのですね?」
さすがのイーディスが目を丸くして驚いた。
「おお、その通りだ! これでもう、おれとそなたの仲を邪魔するものはいない。晴れて結婚できるというわけだ!」
右手に焼き肉、左手に杯をもち、豪快なまでに飲み且つ食らいながらウォルターは叫ぶ。
そう。『話す』のではない。叫ぶ。そうとしか表現しようのない声の大きさであり、口調だった。そのたびに口のなかからかみ砕いた肉やら酒やらが唾と共に吐き出される。そのせいで辺り一面メチャクチャな有り様。クラシックな格式を大切にする執事や、あとで掃除をしなければいけないメイドなどは思いきり顔をしかめているのだがウォルターはそんなことは気にしない。というより、最初から気が付いてさえいない。
そもそも、なぜ、いま、この屋敷のなかにこれほど大量の酒と焼き肉が用意されているのか。そんなことにも気付きはしないのだ。
いま、この場にアーデルハイドがいれば、
――戦場以外のことは何も目に入らない方。
と、悲しみの目で見たことだろう。
実はいま、この屋敷のなかに用意されているのは酒と焼き肉だけではなかった。十数人に及ぶ肌も露わな美青年と美少年も用意されていた。
主不在の間、屋敷に君臨するイーディスのために。
かの人たちはいま、屋敷の奥の中庭、イーディスが主に黙って作りあげた『秘密の花園』で見つかることへの恐怖からブルブル震えているところだった。
ウォルターが突然、帰宅したとき、屋敷ではいままさにイーディスのイーディスによるイーディスのための酒池肉林の宴が開かれているところだったのだ。中庭の噴水には酒が満たされ、木々には木の実代わりの頭ほどもある焼き肉がぶら下げられた。辺りを見渡せば国中から集められた美青年と美少年。
かの人たちを相手に戯れを楽しんでいたというのに突然の主の帰宅。中庭に来られないよう着るものも着ずに飛び出さなくてはならなくなった。
服を着崩しているのも、髪を整えていないのも当然だった。
――冗談じゃないわ。何しに帰ってきたのか知らないけど早く出て行ってもらわないと。まだまだ楽しみの最中なんだから。
美青年たち相手の戯れで火照った体はまだうずいたままだ。早く帰ってもらい、つづきをしなければたまらない。よく見れば肌のあちこちにうっすらと口づけの跡も残っているのだが、そんなことに気が付くウォルターではない。
執事をはじめ、屋敷の使用人からすればイーディスの不品行はあまりにも目に余る。腹が立つ。憤懣やるかたない。できることなら叩き出してやりたい。
しかし、何と言っても主であるウォルターの寵愛を受けている身。勝手に叩き出したりしたらどれほどの怒りを買うことか。注進したところでイーディスを溺愛するウォルターは聞く耳などもたないだろう。大切なイーディスを貶めたとしてその拳の一撃で頭を破裂させられかねない。と言って、いきなりその現場を見せるような真似をしたら……。
ウォルターがどれほど怒り狂うことか。
想像するだけで死んでしまえそうである。
と言うわけで、腹のなかで幾重にも苦々しい思いをしながらも、執事たちはイーディスの望むままに爛れきった宴の用意をしなくてはならない。その執事たちにしてみればイーディスがいま困惑していることはささやかな意趣返しになった。
「アーデルハイドさまもお気の毒に。『人類最高の美貌』とまで言われる方なのに」と、イーディスは内心の思いなどおくびにも出さずに同情してみせる。この辺りの芸達者振りはさすがに酒場の看板娘だっただけのことはある。
もっとも、アーデルハイドに同情しているというのはまんざら嘘でもない。
イーディスにとってアーデルハイドは形式上、ウォルターの寵愛を競う相手ではあった。しかし、ウォルターの思いがイーディスにのみ向いており、アーデルハイドのことは疎んじていた以上、イーディスにとってアーデルハイドの存在は脅威とはならない。敵視する理由は特になかったのだ。
――本当にお気の毒に。生真面目すぎて愛嬌もなければ、可愛げもない。まして、男を転がす手練手管のひとつも知らない。そのせいで、せっかくの美貌も活かせない。まったく、もったいないことね。自業自得だけど。
と、嗤いながら同情する程度には思いがあった。
ガハハハハッ、と、ウォルターは大声で笑い飛ばした。
「あんな澄まし返った口うるさい女のことを思ってやるとは、そなたは優しいのう。まあ、そこがそなたのいいところだからな。さて……」と、ウォルターは豪快に椅子を蹴倒して立ちあがった。そのまま野の花でも摘むかのように軽々とイーディスの肉付きの良い体をお姫さま抱っこした。
「飲むだけ飲んだし、食うだけ食った。次はいよいよ、そなたの番だな」
「まあ、いやですわ、ウォルターさま」と、イーディスは恥じらいたっぷりにウォルターの腕のなかで身をくねらせてみせる。この辺りの演技力はどんな大女優もとうてい及ばない。
――まあ、このうずきをそのままにしておくよりはいいわよね。美青年や美少年と戯れるのはなにものにも代えがたい喜びだけど、野性的な激しさも捨てがたいわ。
いまこうしている間にも秘密の花園に集められた美青年と美少年たちは、肌も露わな格好で寒さと恐怖に震えているにちがいない。それを思うと――。
――それはそれでなかなかにそそられるわね。
ペロリ、と、舌なめずりなどして妖艶に微笑むイーディスであった。
寝室のなかではたっぷりと時間をかけて濃密な愛の嵐が吹き荒れた。実際、ウォルターの激しさを受け入れられる女性などレオンハルト広しと言えどそうはいないだろう。酒場女として手練手管を鍛えられたイーディスだからこそ相手が出来るのだ。
そのウォルターはいま、ベッドの上でイーディスの膝枕に寝そべり、頬をスリスリしている。
「はああ~、やはり、そなたとこうしているときが一番幸せじゃあ~。いま少しまっていてくれよ、イーディス。おれはすぐに鬼部どもを討ち滅ぼし、人の世に安寧をもたらす。そうしたら、そなたと正式に結婚だ。天下の名士ことごとくを集め、盛大に祝おうぞ。そうして、そなたとふたり、田舎の郊外の家で犬でも飼いながらのんびりと暮らすのだ。子供は一〇人、いや、二〇人はほしいなあ」
「まあ、二〇人も? そんなに産めと仰るのですか?」
「おれは子供が大好きだからなあ。まして、そなたの子供となればかわいいに決まっておる。二〇人どころか三〇人でも四〇人でもほしいぐらいだ」
「うふふ。ワガママばかり仰って、困ったお方。ですが、ウォルターさまがそう仰るなら精一杯、頑張りますわ」
「うむ。おれも励むぞ。かわいくて元気いっぱいの子供を産ませてやるからな。ああ、そのときがくるのが楽しみでならんなあ」
何やら、やけにほのぼのとした心温まる光景だった。
その場を見れば、どんなに写実主義の画家であっても、森のなか、美女の膝枕で寝そべる熊の姿を描いたにちがいない。それぐらい、童話的な光景だった。ただし――。
女の方が本当に熊を愛していたならば。
――冗談じゃないわ。わたしが子供を産む? ふざけないでよ。体の線が崩れちゃうじゃない。大体なんで、こいつとふたり、田舎暮らしなんかしなくちゃならないのよ。そんなことにはさせない。わたしはもっともっと酒池肉林の宴を楽しむんだから。この男にはまだまだ外で戦っていてもらわないと。
最愛の女性がそんなことを考えているなどとは――。
ウォルターは生涯、気が付くことはなかったのである。
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