第3話 悪いひと
コンサートから三日が過ぎる頃、私のところに来客があった。
午前十時を少し回る時間帯、手習いである琴の先生がお帰りになった直後のことだった。
「私にお客様? どのようなご用件でしょう?」
「お嬢様にお助け頂いたということで、お礼の品をお持ちしたとのことですが」
私が首を傾げたが、使用人が告げた名前に息を呑んだ。
「レオニード・カルナコフという方だそうです」
私は思わず声を上げそうになるのをこらえていた。
どうしてカルナコフさんがここにと、問い返すのは危うかった。使用人は続けて私に問う。
「追い返しましょうか」
「いいえ」
兄に知られたらと思う反面、私はそう言ってしまっていた。
「お会いしましょう。案内してください」
なんとかそれだけ告げると、私は使用人の後に続いた。
廊下を渡って母屋の中にある客室に足を踏み入れる。
カルナコフさんは障子を開いて朝の日差しの中に立っていた。日本家屋の中で銀髪碧眼の彼は明らかに異質で、クリスタルの細工物のように透明な輝きを放っていた。
家の中とはいえ私の側には常に人がいる。私の言動一つでもすぐに兄に伝わってしまう。
「……おはようございます」
ためらいながら私が口を開くと、彼はくすっと笑う。
『そこの彼は僕の言葉がわかるの?』
はっとして顔を上げると、カルナコフさんは悪戯っぽく首を傾げて私を見ていた。
私は彼の母国語で続ける。
『この家であなたの言葉がわかるのは私と兄だけだと思います』
彼はうなずいてさらりと言葉を口にする。
『そう、では本題に入るよ。この間は君に助けてもらったからね。お礼に、君のお願いを一つ聞きに来た』
『とんでもない。私が勝手にしたことです。それより』
私は目を伏せて首を横に振る。
『私とは関わり合いにならない方がよろしゅうございます。表からお越しになったなら、私がどういった家の者かはおわかりでしょう?』
『うん。ヤクザ屋さんだね』
カルナコフさんは驚くさまもなく続ける。
『でもそれは君に会った時からわかってたことだよ。君を監視してるその筋の人を何人も見かけたからね』
『え……』
『住所を調べた時に、君のお兄様がその頭だってことも知った』
にこりと底の見えないような笑い方をして、彼は目を細める。
『まあそんなことは僕にはどうでもいいことだよ。それで、君は僕に何を望む?』
『望むだなんて、そんな……』
『欲しくないなら何もあげないよ。今度こそさよなら。それでいい?』
私は彼の前で言葉に詰まって黙った。
「お嬢様、何の話をしていらっしゃるのですか?」
控えていた家の者が怪訝そうに近付いてくる。
私はうつむいてから、意を決してカルナコフさんを見た。
『……あなたの時間を少し頂けますか。私に、あなたと過ごす時間を』
カルナコフさんは優雅に笑い返してみせた。
『いいよ。でもそれはここでは自由にできないね』
カルナコフさんは辺りを見回して、一つ頷く。
『場所を変えよう』
ふいに離れの方が騒がしくなった。家の者たちがそちらに集まる気配を感じる。
私はあまりのタイミングの良さに、とっさに使用人へ振り向いていた。
「様子を見て来てください」
「いや、しかし」
「行きなさい」
私が短く命じると控えの者が出て行って、私はカルナコフさんと二人きりになる。
彼は手招きをして、私を玄関とは逆の方へと導いた。
巧みに人のいない場所をくぐりぬけて裏口まで来ると、彼は私を連れていとも簡単に家の外に出てしまった。
私はその手際の良さに混乱しながら問う。
「あなたは何者なのですか?」
「誘拐犯かな」
路地にたてかけてあったバイクをけとばしてエンジンをかけると、彼はヘルメットを私に投げてよこす。
「ハルカ、誘拐されてみる?」
大輪の花のような微笑を刻んで、カルナコフさんは首を傾けた。
私はそんな彼に見惚れた自分に呆れながら苦笑する。
「……あなたは悪い人なんですね」
そしてたぶん、私も。
私はヘルメットを被って、彼の差し出した手を取った。
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