第2話 恋
私が家の外に出るのは、多い時で二週間に一度くらいだ。
子どもの頃から体が弱くて学校に行けなかったことが直接の原因ではあったけれど、成長してからは兄の一言にすべてが左右されたことが大きい。
長男が絶大な力を持つこの世界では、後妻の生んだ次男である兄の立場は生まれた時から複雑だった。
――龍二は次男の器じゃない。あいつがいつか大人になると思うとぞっとする。
父にそうぼやかせたほど、兄は恐ろしく優秀な子どもだった。
単純な学業成績や運動能力だけではなかった。金儲けの才や人を動かす手腕までもがあった。
そして人目を引いた。美貌というには野生的すぎる容姿と気迫でもって、自分より何回りも年上の大人たちを簡単に自分の味方につけた。
それでも父は長兄を推していたが、長兄がもう五年以上不在であることと、父も高齢になってきたことがあって、やむなく兄に跡を継がせた。
聞けば、それに異を唱える者は誰ひとりいなかったそうだ。
ホールの中の観客席で頭を押さえていると、隣にかけた
「お嬢様、お体の具合でも?」
私は少し迷って口を開く。
「いいえ、その……。みなは、兄が恐ろしいのかしら」
「龍二様でございますか」
彼女はうっとりとしたように頬に手を当てて言う。
「上に立つ御方は厳しくなければいけません。それに男性は少し怖いくらいが素敵でございますよ」
「怖いかしら……」
私はぽつりとつぶやいて口をつぐんだ。
兄は私には優しいというか、徹底的に甘い。手を上げたことなどないし、そもそも怒ったことすら一度もない。
だけど、おそらくは怖い人なのだろう。それは幼い頃からたびたび肌で感じてきたことだ。
開演時間になって、私は顔を上げる。照明の落ちたホールの中、舞台にだけスポットライトが当てられる。
今日は都内の音大で、今期の卒業生によるコンサートが開かれている。
プロではないけれど、その道に進む学生も多いからレベルは高い。何年も前から、毎年コンサートを見に来ていた。
けれど今日は目的があって来た。たった一人の演奏者の音楽を聴くためだけに足を運んだ。
最後の演奏者になって、私は瞬きをした。
舞台に上ったのはまだ少年のような男性だった。大学の卒業生だから確実に二十歳は超えているだろうに、彼は私より年下に見えた。
隣で操さんが小さく声を上げる。
「あら。綺麗な方ですね」
彼は銀髪のセミロングに碧の瞳、透けるような白い肌をしていた。
中性的な容姿だけど、女性に見間違えることはない。ぴんと張られた一本の琴の弦のように、凛とした少年の力強さがあった。
舞台の中央に立つなり、彼は他の演奏者のように一礼することもなくおもむろにバイオリンを弾き始める。
その途端に奏でられる冷厳な音楽に、私はため息をついて聴き惚れた。
数ヶ月前にこの音大のチャペルを見学したら、彼はパイプオルガン奏者に合わせてバイオリンを弾いていた。
そのとき……生まれて初めて、恋という感情を知った。
真冬の冷え切った教会の中で繊細な音をつむぎ出す彼は、本当に天使みたいだと思った。
話をしてみたい、もっと近付いてみたいと思ったけれど、自分の立場を思うとなかなか決心もつかなかった。
異性とあらば手習いの先生すら私に近付かせない兄のことだから、私が想いを寄せているなどと気づいたらきっとその人を許しておかないだろう。
その時のパイプオルガン奏者と話をして、銀髪の彼の名前がレオニード・カルナコフで、今春卒業するということだけは聞くことができた。
演奏が終わると、私は拍手をしながら隣に耳打ちした。
「操さん。少し行ってきます」
私は花束を手に取ると、演奏者控室へと足を向けた。
一度だけと心に決めた。この卒業コンサートで一度直接話をしてみようと。
私はノックをして、声をかける。
「演奏者の方に花束を差し上げたいのですが」
「どうぞ」
……一度だけ。それですべて諦めようという誓いを胸に、私は控室の中に足を踏み入れた。
けれど中にカルナコフさんの姿はなかった。私は慌てて側の方を呼びとめる。
「カルナコフさんはいらっしゃいませんか?」
「えと……」
彼は言いにくそうに私に教える。
「あいつなら少し呼ばれていきました。花束ならお預かりします」
「直接差し上げたいのです。どちらにおいででしょう」
私が訊ねると、彼は困ったように眉を寄せた。
何となく嫌な予感を抱いて、私は彼に断って踵を返す。
初めはおしとやかに歩くつもりだった。けれど段々心が急いて来て、着物の袖を振り乱して駆けだす。
やがて私は校舎の裏で複数人の声を聞き取った。
「……少し付き合えって言ってるだけだろ?」
不穏な声に嫌な予感を確かなものにする。
「お前は付き合いが悪すぎるんだよ。飲みに来たこともないじゃないか」
角から覗き込むと、三人の男に詰め寄られているのはカルナコフさんだった。
カルナコフさんはむっとして言い返す。
「そのごちゃごちゃした言葉で話さないでくれない? 僕は日本語が得意じゃないんだ」
そっけなく踵を返そうとしたカルナコフさんの腕を、男の一人が掴んで言う。
「そう言うなよ。お前、男が好きなんだろ?」
にやにや笑う彼らに、カルナコフさんは不愉快そうに眉を上げた。
カルナコフさんはため息をついて言い放つ。
「隠しているわけじゃないけど、僕が好きなのは綺麗な男の子だよ。君らみたいな下品な野郎なんて見るだけでうんざり」
「こいつ……!」
彼らは顔色を変えて掴みかかろうとする。私はそれに怒りが湧きあがるのを感じた。
「……お止めなさい!」
私は声を上げて彼らを制止する。角から彼らの方に歩み寄って言う。
「失礼な方々ですね。お食事に誘うなら紳士的に、礼儀正しく。それも、カルナコフさんのお国の言葉でお誘いするべきでしょう」
彼らは顔を見合わせてぼやく。
「どこのお嬢様か知らないが、他人が口を出すことじゃないだろ」
「おい、ちょっと待て」
声を荒げた男を止めて、他の二人が私の前まで歩いてくる。
じろじろとぶしつけな視線が私に降り注がれる。
「すげえ……こんな美人初めて見た」
「着物着てるよ。本物のお嬢様みたいだ」
「俺やっぱ女がいい」
そのとき、私は人気のないところで取り囲まれていることを自覚して、うかつだったと顔を引き締めた。
私は顎を引いて後ずさりながら言う。
「命が惜しいのなら、私に触れてはなりません」
手が伸びてくるのを見て、私は眉をひそめた。
手が髪に触れたのを感じ取って、私は小さく息をついた。
「ぐっ」
瞬間、花束を投げて、私は彼らの懐に飛び込む。
目の前の男の鳩尾を突いて、慌てた他の二人も同じ場所を刺すように突いた。
倒れ込む彼らを見下ろして、私は低めた声で告げる。
「息が出来ませんか? でも次は本当に息の根を止めますよ」
大きく息を吸って、私は怒声を響かせる。
「散りなさい!」
慌てふためいて逃げ出す彼らを見送る。蜘蛛の子を散らすような速さだった。
後に残されたカルナコフさんは、興味なさそうに横を向いていた。私は頭を下げて詫びる。
『要らぬことをして申し訳ありません。お詫びいたします』
私は彼の母国語で話しかけることにした。
少し沈黙があって、彼が歩いてくる気配がした。
私は先ほどとは全く違う緊張に包まれて、頭を下げたまま息を呑む。
「これ、君の?」
話しかけられて顔を上げると、カルナコフさんは私の持ってきた花束を拾い上げていた。
私は苦笑して首を横に振る。
「あなたに差し上げるつもりでしたが……汚れてしまったので、私が持ちかえります」
「いや」
意外にも、彼は花束に顔を埋めて碧の双眸を閉じる。
「なら僕のだ。もらっていくよ」
彼は瞳を開いて、じっと私を見下ろしながら訊ねた。
「君、名前は?」
「春日遥花です」
「ハルカ」
彼に名前を呼んでもらえただけで、私は胸がいっぱいになって思わず微笑んでいた。
彼は少し目をまたたかせて、早口に言う。
「じゃあまた」
たぶん二度と会うことはないだろうけれど、そう言ってもらえただけで嬉しい。
「……ありがとうございます」
私は何年分かの幸せを凝縮したような喜びを感じながら、また頭を下げた。
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