そこは優しい悪魔の腕の中

真木

第1話 兄と妹

 十九歳の春ほど、私の身の回りがめまぐるしく変わった時はなかった。

 その日、私は朝から機嫌が悪かった。でも家の人たちの手前、そんな顔もできなかったのを覚えている。

「おはようございます、お嬢様。お出かけでしょうか?」

 私は怒りを表に出さないように気を付けながら返した。

「いえ、ちょっと覗いただけなので。すぐ戻ります」

 母屋の方に出てきただけで五人以上と似たようなやり取りをした。

 この家はやたらと人が多い。それも私の身の回りの世話をする使用人以外は、ほとんど眼光の鋭い男性ばかりだ。

「今日はおでかけの予定でしたね。足りないものなどございますか?」

「ありがとう。大丈夫ですよ」

 その苛立ちも、外出の予定を考えると少し気が晴れた。

 いつまでも子どもみたいに不機嫌にしていてはいけない。気持ちを切り替えようと、踵を返した時だった。

遥花はるか、ここにいたか」

 廊下の向こうから歩いてくる長身の姿をみとめた瞬間、鎮まりかけていた私の怒りが一気に沸点まで達した。

 彼は力強い面差しに見る者を怯ませるほど鋭いまなざしをしている。黒いスーツ姿が彫像のように引き締まった体躯に似合っていた。

 けれど私を見下ろすまなざしは砂糖がけのように甘くて、私はそんな彼を下からでもにらむようにして言う。

「……お話があるのですが、私の部屋までお越し願えますか」

「うん? いいよ。何だ?」

 彼はとろけるように笑って、先に離れの方に歩き出した。

 私は決して背が低い方ではないのに、彼は私よりゆうに頭二つ分は大きい。それも鍛え上げられたがっしりした体格をしているものだから、後ろから見るとまるで壁のようだ。

「はるか?」

 私の居室に通してすぐ、屈みこんで優しく尋ねる気配を後ろに感じた。

 私は障子をぱたんと閉じて、沈黙が一瞬あった。

「……にいさまの馬鹿!」

 私は振り向き様に顔面めがけて肘鉄を繰り出す。

 直撃したら鼻が折れる一撃を、兄はやんわりと片手で受け止めて首をひねった。

「遥花が元気で嬉しいが、兄は何か遥花の気に障ることをしただろうか」

「しました!」

 私は勢い込んで言い返す。

「私のチューリップ、勝手に植え替えたでしょう!」

 私は毎日チューリップの絵日記をつけている。だから朝真っ先に見に行ったら、昨日まで葉だけだったチューリップが華々しく咲き誇っているのを見て呆然とした。

 兄は言いよどんでから口を開く。

「遥花……言いにくいが、あのチューリップはもう枯れていたんだよ。兄は綺麗な花にしてやった方が喜ぶかと思って」

「葉っぱだけでもよかったの! 楽しみにしてたのにひどい!」

 私は涙が溢れて来て、ぐすぐすと泣きだす。それを見て兄がひどくうろたえた。

「ああ、すまない。兄がとんでもないことをしてしまった。泣かないでくれ」

 兄は慌てて私の頭を撫でながら言う。

「すぐに葉の状態のチューリップを植えさせる。他にも遥花の好きな花を何でも取り寄せるから」

「そういう意味じゃないの! にいさまは何にもわかってない!」

「悪かった、悪かった。兄が馬鹿だった。すまない」

 兄はひたすら低姿勢で頭を下げて謝り続ける。

 こんなしおらしい姿を家の者や会社の者が見たら目を疑うに違いない。面子が物を言う世界で、上の立場にある兄が頭など下げたりしない。ましてや自分が馬鹿などと口が裂けても言わない。

 私もそれがわかっているから、怒りをどうにか押し殺して言葉を切る。

「もういい!」

 頭を撫でる兄の手を振り払って、私は涙を拭うために何か探す。

 ちょうど棚の上に庭いじり用のタオルをみつけてそれを顔に当てようとしたら、ひょいと横から手が伸びて来て奪われた。

 兄はタオルを見て周りを見回すと、私に対するとはまるで違う冷たい声で問う。

「おい、誰だ。こんな安物を置いたのは。どうしてこんなものがここにある」

 兄は眼光鋭く家の者に問いかけた。私はきょとんとして兄に返す。

「庭いじり用に借りてきたの。汗を拭くためなんだから安物でいいの」

 兄はそこで、ああ、と口調を和らげて私を見下ろした。

「はるか、そうだったのか。兄はもちろんはるかに怒ったりしてないぞ。兄が失敗したなと思ったんだ」

 兄は首を横に振って、優しく私をたしなめる。

「はるかをこんなものに触れさせてしまった。遥花はいつも一級品に囲まれてないといけないのに」

 彼はポケットからハンカチを取り出して私の目元を拭う。

「一回使ったら捨てる。遥花はそれでいいんだ」

 丁寧にアイロンがかけられたそれは、肌触りで絹だとわかった。

 私が困った顔をしていると、兄は私の涙が止まったのを満足そうに見てうなずいた。

「今日は街に出かけるんだってな」

「ええ」

 私がまだハンカチのことを気にしながら頷くと、兄は柔らかく微笑む。

「気に入った店があったら兄に言うんだぞ。店ごとはるかにあげよう」

 彼は冗談ではなく、本当にそうしてしまったことがあった。私はとっさに兄を見上げて口の端を下げていた。

 兄である龍二りゅうじは半年ほど前に、二十七の若さで関東においてもっとも勢力のある暴力団の組長という地位を父から受け継いだ。

 二週間後にはその次点を取り仕切る組の婚約者と祝言を挙げる。

 だから私などに時間もお金もかけているべきじゃないと思うのに、兄はいつも真綿で包むように私を扱う。

 兄はしなやかな眉の下の黒く美しい目を細めて、ん?と少し屈んで問いかけてくる。

「……にいさまは馬鹿だわ」

 本当はこんな言葉を兄に言いたいのではなくて、こうして甘やかされている自分をどうしていいかわからない。

 きっと私が子どもだから。もっとちゃんと大人になったら、兄だって一人前扱いしてくれる。

「行ってくるわ」

「ああ。ゆっくり楽しんでおいで」

 兄に認めてもらうためには、しっかりしないと。私は自分に言い聞かせて、支度に向かった。

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