第10話 きっかけ
二
裁判員候補者名簿に登録されました、という文面が記載された封書が届いたのは期末テスト作成で忙しい、十一月下旬のことだった。一緒に就職禁止事由や客観的な辞退事由に該当しているかどうかなどをたずねる調査票も入っていたが、中学三年生の受験対応の忙しさにかまけて返送することを忘れていた。
「郁さん、裁判員裁判の件、どうなったんですか? 」
各高校に送る、調査書を書き終え、後輩の米沢君に裁判員裁判の話題を出された時、ようやく郁恵は裁判員候補者名簿に登録されていたことを思い出した。
「米ちゃん、よく覚えていたね。」
「五日前の忘年会の席で、郁さん、酔っぱらって言っていたじゃないですか。石川県は犯罪が少ないから、もし選ばれるとしたら、確率は〇・〇九%のなんだよー。すごいねぇって二次会で話していたじゃないですか。」
そうだったのか。ひどく酔っていたのか、さっぱりと覚えていない。
「忘れとった。調査票、返送してないわ。」
「それ、まずくないですか?」
「え?でも調査票の返信率って二〇%未満なんでしょ。」
「別に返送しなかったからと言って処罰されることはないと思いますけど、俺ら教育公務員ですし、とりあえず出しといた方が良くないっすか?」
米沢君は若いくせに、結構律義な意見を寄せてくる。公務員としては正しい姿勢だが、気の小ささもたびたび感じてしまう。
「大丈夫っすよ。この間、青年部の組合に行ったときに、たまたま裁判員制度の話題が出たんですけど、教師は選ばれにくいって。客観的な事態事由には該当しないけど、職業欄とか書くところはあるわけですから、そこに教職員って書けば、まず選ばれないですよ。だって一年を通じてずっと忙しいでしょ。夏休みも部活指導だし。ブラック業界だって裁判所も把握しているわけですから、選ばれないですよ。どうしても心配だったら、裁判員になれない職業です、とでも書いておいたらどーですか?」
「廣田先生、すみません、話に割り込んで。あたしは廣田先生が選ばれたら参加した方がいいと思うんです。」
今年、初任で八尾中学校に赴任して、郁恵が指導教諭として面倒を見ている田口優奈が、そう言いながら、郁恵の机にどうぞ、とチョコレートをおいた。
「ありがとう。なんで?」
「先生、社会科の先生だから。」
「社会科って言ったって、あと三年でお役ごめんよ。」
「でも大量退職時代を迎えて、再雇用のお声がかかり、六十五歳まで臨時的任用講師として勤務している先生も増えてきたじゃないですか。先生も優秀だし、声がかかると思うんですよ。裁判員に選ばれたら絶対参加した方がいいです。これからの生きた教材になりますよ。あたしだったら、行くなぁ。」
外には出せない事情で持って、定年退職後も勤務しなければならない状態に置かれている郁恵にとって、今の田口の指摘は一瞬で胃に来た。
「生きた教材ねぇ・・・。」
郁恵は帰宅後、机の引き出しにしまっておいた調査票を取り出し、個人情報を記入し、「遅れてすみませんでした。」という一文を添えて、翌日ポストへ投函した。
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