第3話 争点の整理

十三時ちょうど、三人の裁判官が評議室に現れた。

 午後は萩原裁判長が司会進行を務め、争点と照らし合わせながら、意見交換する形が取られた。

「是非、自由に意見を述べて下さい。別に法律的なことに合っていなくてもいいのです。法律的なことは我々三人がフォローします。なお、被告人の名前ですが、審理の場でも明らかになっておりますように、離婚が成立しておりますので、浮田京香ではなく、立花京香で統一したいと思います。あ、では早速五番さん。」

家電メーカー勤務の五番裁判員は、お茶でのどを湿らせてから、顔を挙げた。

「無実に決まっているじゃないですか。議論するまでもない。DVを受けていたんでしょ。それで精神もおかしくなっちゃってさ。で、裁判中もずっと、よく分かんない歌を歌っていたしさ。被告人を見ていて、めちゃくちゃ僕は哀れに見えましたよ。早く評決して、被告人に無実を伝えましょうよ。」

五番裁判員はやや早口で私見を述べ始めた。早く評決が終わって欲しい様子がモロに伝わってくる。

「まだ、評議も始まったばかりですからね。三つ目の争点である、計画的犯行については、どうお考えですか。」

向井裁判官がゆっくりと眼だけ動かし、五番裁判員の方を見る。

「計画性も何も、常日頃から暴力を受けていた人でしょう。また暴力を受けるかもしれない、と言う恐怖に連日さらされていた人ですよね。自己防衛のためにマイナスドライバーをもった。そしたらたまたま真っすぐに刺さった。それだけのことでしょう。そのように被告人も話しているし。」

「では、被告人の発言はすべて信じるのですね。」

「だって、殺害現場を見ていた人がいないんだから、信じるしかないでしょう。もう、評決取りましょうよ。」

「五番さん。」

萩原裁判長の低くよく通る声が、不意に評議テーブルに転がってきた。

「どうしても仕事の方が気になるようなら、補充裁判員と交代しますが、どうされますか?先ほどからの五番さんの発言並びに、行動は評議にはふさわしくないと感じます。人一人の人生がかかっています。そして死者も出た事件です。集中して挑めないようならば、交代します。」

萩原裁判長の強い言葉で背中を殴られたような形になり、五番裁判員は急に黙り込んだ。日頃から頭を下げて、腰を屈めて生活している人は、ちょっと日当たりの良い場に出ると、光に慣れていないからか、途端に足を滑らすものだ。

「五番さん、今から会社戻ろうが、明日戻ろうが、明後日戻ろうが、謝罪することには変わらないんだよ。だってあんた、会社は裁判員の特別休暇をくれたんだろ。それなのにもかかわらず、あんたに謝罪に行け!って指示を出す上司が本来悪いんだよ。そういう指示を出すくらいなら、元からあなたが裁判員に選ばれた段階で、仕事があるから断りなさい、特別休暇は出せない、ぎりぎりの人員でやっているんだから、行ってはいけない、と言うもんなんだよ。」

仕事の愚痴を一番聞いてあげていた一番裁判員が諭すように語る。横から二番裁判員も口を挟む。

「そうよ。ここに居ましょうよ。で、全てが終わったらお客様のところに謝罪に行きなさいよ。お客様はあなたが裁判員をしていることを知っているんでしょ。さっき、そう電話で話していたじゃない。最初は納期が遅れたことは怒るかもしれないけど、あなたが必死に謝ったら、きっとその後、『で、裁判員はどうだった?』みたいに会話が始まりますよ。だってあなたは他人がめったに経験できない経験を今、しているんだから。ネタにしたらいいんですよ!」

「すみません、二番さん。我々には守秘義務がありますからね。評議がどのような過程を経て結論に至ったのかということや、評議において裁判官や裁判員が表明した意見の内容、評決の際の多数決の数等は絶対に他人には話してはいけないのですよ。あと、評議の過程についても評議の秘密に含まれますので、判決に至るまでに議論された内容であれば、判決の内容とならなかった事項であっても守秘義務の内容となりますからね。」

そこまで厳重に守秘義務について規定しているのなら、このようなお喋りおばちゃんや定年後で時間を持て余しているような暇なじいさんを、端から裁判員ができない人々として排除すべきなのだ。暇人を掴まえておいて、守秘義務について、こんこんと語られても説得力は皆無である。郁恵は笑いたい衝動を必死に抑え込んだ。目の前では、実に滑稽な光景が繰り広げられていた。     

二番裁判員のおばちゃんは人から指摘され慣れていないのか、不快感を思いっきり出してきた。

「まぁ、マスコミで報道されることは話しても大丈夫ですよ。あくまでもこの評議室の中で起きたことを話してはいけないだけですからね。」

濁った空気を察したのか、向井裁判官が重ねてフォローを入れた。

「四番さん、いかがですか?あなたは四日間の審理をずっと真剣に聞いていましたよね。ぜひ、意見を聞かせてくれませんか?」

まだ四番裁判員をするのは、時期尚早ではないか。もう少し評議の場が温まってからの方が、彼女は話しやすいのではないか。ほとんど誰とも言葉を交わしてこなかった人である。郁恵は『意見を聞かせて欲しい』と話を振った萩原裁判長を、人間観察力が弱い人物と判断した。

 四番裁判員は、なかなか顔を上げようとしない。他の裁判員も指名ミスだよと黄色い視線を裁判長へ送り始めた。

「感じたこと、思ったこととかないですか?例えば、そうで・・・・。」

「DVをするような人間ですよ。ああいう奴は平気で嘘をつくんです。そしてしばらくすると、少し優しい素振りを見せて相手を油断させた後、また自分勝手な暴力でもって、服従を強いてくる腐った奴なんです。真実なんて、どうでもいいんですよ。大した理由がなくても、やつらは暴力を振るってくるんです。守るべき対象に値する人種なんかじゃない。奴らは生まれる前から腐った連中なんですよ。」

萩原裁判長の穏やかな声を遮り、四番裁判員から出た台詞は、彼女に対して勝手に抱いていた我々のイメージを大きく狂わせるものだった。彼女が必死の思いで隠し持っていた、悲しみのスイッチがしっかりと押されたのか、彼女は堰を切ったように話し始めた。

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