第2話 花
突然、バンっと静かな空気を切り裂き玄関の扉が開いた。家主が帰ってきたのだ。喧嘩中の僕は当然彼を出迎えにいくことはない。
彼はズカズカと短い廊下を歩き僕のところまできた。僕の予想に反して彼はひどく怯えた顔をしていた。
彼のその顔はまるで、鬼、いや西洋の言葉で言うと悪魔をみているようだった。
ああ、いいさ。君がそんな顔をするのならば。
気分を害された僕は、その場を立ち去ろうと、ふと、彼の手元を見ると彼の手は一輪の花をぎゅっと握りしめていた。
動植物が好きな僕にはすぐにわかった、この花言葉の意味が。純白の花びらを垂れさせて俯くその花はスノードロップだ。そして花言葉は「希望」「慰め」だ。喧嘩の終わりには少し不適切かもしれないが、ガサツなこの友人にとってはまだいい方であろう。僕はクスッと笑うと、彼の手の中からその花を受け取った。そして、
「ありがとう、ところでお腹は空いてないかい?少し冷めているかもしれないけれど一緒に食べよう」
と、それだけで嬉しくなった僕はできるだけ柔らかく彼に声をかけた。我ながらそんなことで彼の暴挙を許してしまうとはと自嘲しながら話した。
そして、軽い足取りで箪笥に近づくと、その上に置いてある新品のラジオの電源を切った。ラジオの歌謡曲がなくなると、僕たちの間に沈黙が流れた。聞こえるのは、外で無邪気にはしゃぐ子供達の声だけだ。いつの間にかあの豆腐屋は帰ってしまったようだ。子供達の声もだんだん遠のいていく。その代わりに、夕方を知らせるチャイムだけが僕たちの空白の時間を埋めた。
この長い長い時間の間にも彼は答えようとしない。
僕は彼の意思を汲み取るように彼の背を押すと、彼の足は僕にされるがままにちゃぶ台の前に歩みを進めた。
「僕の料理が冷めてしまうじゃあないか。ここにあるものは全て目玉の料理なんだよ。是非食べてくれ」
と僕が言うと、彼は口を真一文字に閉じ、後ろにいる少し背丈の高い僕を見上げると、彼は自分の鼻と口を覆い、僕から距離をとった。
「一体何が不満なんだ」
優しくしたにもかかわらず、先程から表情を変えない彼に僕は少しイラつきながら尋ねる。
真っ赤なケチャップがかかったオムライスにジャガイモやにんじんの入ったスープ。なぜなんだ。僕には彼の思考がさっぱりわからない。
彼は見たことのない顔でこちらを見ていた。見開いたその目からは恐怖以外の感情を読み取ることができなかった。一体何に怯えているのだろう。
わからない。僕は彼の顔をみて見ぬふりをして先程と変わらない口調で
「さあ、食べよう。もう日も沈んでしまったよ」
と、言った。それから、僕はあぐらをかいて座り、箸を持ってスープの中の具材を一つ摘み上げた。部屋の中は薄暗く料理を照らし出しているのは頭上についたたった一つの小さなランプだ。その光を受けて、てらてらと光るその球体はうっとりとするほど美しい。
そうして、それを口の中に運んでいく。うん、やはり美味しい。口の中でトマトのようにプチッと割れ、中身が口いっぱいに広がる。その味を堪能しながら、
「君も早く食べなよ」
と、僕が笑いながら彼の手を掴むと彼はその手を振り払って、
「もうやめてくれ」
と呟くように言った。
その体は震えていた。僕は彼の言葉の意図がわからなかった。もう一度料理たちを挟んで対面上に立っている彼を見る。日本人特有の黒い髪で隠された彼の額には汗がうっすらと浮かんでいて、真っ黒の目は僕の方を見ていなかった。唇は血色を失い、半開きの口はマラソンの後のように浅い息を繰り返していた。
僕が思考に耽っていると彼は、
「お前なんか友人じゃない。出て行ってくれ」
と、そう冷たく言い放つと意を決したようにスープを投げ、冷蔵庫の横を通り、玄関へ向かおうとした。
突然さっき終わったチャイムが部屋の中に響き渡った。転調され、曲調が怪しくなりつつある音楽はそれでも構わないと言うように演奏を続ける。
彼の方を見ると彼は自身で口と鼻を覆い、振り返ってこちらを見ていた。何か恐ろしいものを見ているような顔をして、数度口を動かしたかと思うと、ようやく動かせるようになった足を止めまいとその勢いのまま扉を開けて外に飛び出していった。
たった1人部屋に残された僕は再び席につくと、かちゃかちゃと箸を持って料理を食べ進めた。
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