料理の目玉

小林

第1話 家

 僕には彼の考えていることがわからない。




 真新しい壁に囲まれた6畳の部屋の中には音の籠ったラジオから流れる巷で人気の歌謡曲と豆腐屋の来たことを知らせるラッパの音が響いている。数時間前まで僕と親友であるこの家の家主の罵声が飛び交っていたのが嘘のように静かだった。


 決して街中とはいえないこの緑の中の小さい部屋には相応の冷蔵庫やちゃぶ台、箪笥、戸棚が静かに陳列している。


 箪笥の上のラジオには埃どころか塵一つさえかぶっていない。その隣の赤と白の卓上カレンダーは7月を指している。


 風の入ってこないこの部屋は分厚い綿の学生服には少し暑い。上着を脱ぎ、袖を肘のあたりまでまくると席を立ち、新築にしては立て付けの悪い窓を開けた。ガタガタという音を立てて窓が開く。網戸の小さな小さな隙間から夏の蒸し暑い空気を纏った風が僕の横をすうっと過ぎ去る。それでさえも僕は涼しく感じてしまう。



 彼が出て行ってからどれくらいの時間が経っただろうか。


 日はもう傾いた。僕は小さなちゃぶ台の上に並べられた色とりどりの料理を眺める。夕暮れ時の橙色の光に照らされ、ほんのりと色を帯びた料理たちは今見てもいい出来栄えだ。最近の流行を取り入れた少し洋風の料理たちに僕はうっとりとした。


 しかし、僕の料理を馬鹿にするとはあいつもいい度胸だ。ふんっと鼻を鳴らして僕は戸棚に向かった。そこから袋いっぱいに詰まった珈琲の粉を取り出す。少しくすんだ色とりどりのデザインの袋を開けるとふんわりとコーヒーの匂いが広がった。


 僕はポットの蓋を開け、お湯を沸かし始めた。この珈琲は僕のお気に入りのものだ。彼はそのことを知っていて準備しておいてくれたのであろう。


 そんなことを考えているとポットはピーっと甲高い音を鳴らして僕に湯が沸いたことを知らせた。


 お湯を注ぐと泡を吹きながら粉の色がみるみるうちに濃く変化していく。珈琲の粉の間を縫って出てきた雫がフィルターに染み渡る。染み込みきれなかったお湯がコップに滴り落ちてゆく。その様子を眺めていると、袋の中の珈琲の匂いとはまた異なる香ばしい匂いが僕の鼻をくすぐった。


 雫が溜まったカップを手に持って冷蔵庫に向かう。じんわりと暖かい温度が僕の手に伝わってくる。


 熱すぎる温度を好まない僕は、冷蔵庫から氷を取り出すと出来たばかりの珈琲に2つほど入れた。氷がパキパキという音をたてながら溶けてゆく。


 ぼんやりとそれを見ながら僕はまた氷を2つほど取り出して口の中に入れた。この氷もまた僕の口の中でパキパキという音を鳴らしながら溶けていく。熱気の溜まった部屋の中にいた体に染みわたりながら、冷たい氷が僕の熱い熱い口内を冷やしていった。

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