クリアスカイ

Slick

第1話

 少年が目を覚ました時、部屋はまだ薄暗かった。


 眠気、という名の麻酔薬で痺れた頭を億劫に動かすと、彼は腕を真上に突き出し薄い掛け布団をはねのけた。

 狭い自室の電気スイッチを探して、あたかも夢遊病者のようにフラフラと上体を起こす。

 彼にしては珍しく思いがけずの、いつもより早い起床だった。

 だが一度起きてしまったのなら、もう仕方がない。

 ひとたび目が覚めてしまえば、再び眠りの波に乗ろうとしても無駄だ。後はダラダラと惰眠を引きずるだけ……、そうと知ってのことだった。

 パチパチッと音が鳴り、安っぽい光が部屋を照らし出す。大した光量ではないが、脆い寝起きの目に思わず顔をそむける。そしてそのままヨロヨロと、明かりから逃げるように自室の窓辺へと足を引きずった。

 重いガラス窓をガララと引き開ける。目をつむったまま頭を外気に突き出すと、深く深く、胸いっぱいに深呼吸をした。

 冷え切った早朝の外気が鼻腔をすり抜け、肺に染み込み、溶けて消える。その切り裂くような冷たさが、四肢の末端、神経の隅々までを走り抜け、彼の眠気の霧を一気に晴らしてくれた。

 途端に、彼は大きなくしゃみをした。寝巻の袖で鼻をぬぐうと、ついでまだシパシパとする瞼を、拳でぐりぐりと押し回す。

 そして、目を開けた。


 眼前には、暁の空が広がっていた。

 最初に脳裏に浮かんだのは、という思いだった。

 そして『美しい』とも。

 ……赤い。紅い、ひたすらに丹い空が、目の前にはあった。隣接した戸建ての屋根の向こう、そのシャープなシルエットを覆いこむように夜明けの紅色くれないいろは天空を染め上げていた。

 空が、こんな色に変わることなどあるのだろうか? もしやこれは未だ夢の中ではないか? そう思わず自問する。

 だがそこにあるのは、まぎれもなく現実だった。

 暁の天空……、そして、空の縁に巻き付くようにたなびく筋雲。

 いつも見慣れているはずの空というものが、今この瞬間だけは全くの別物に見えた。

 紅く彩られ塗りこめられた、それでいて、どこか儚く透き通るような色彩の天球が。それを取り巻く筋雲は黄金色に輝きを放ち、地平線からの細い光条で赤みが差している。

 そしてその奥から今にも立ち昇らんとする淡い光球、もとい太陽は、それら全ての光明の源泉でありながら、同時に天球内で唯一どんな色に染まってもいないように思われた。

「綺麗だ……」

 彼は思わず、そう呟いた。そしてハッと我に返る。

 いつの間にか、体が窓枠から危険な程に乗り出しているのに気付いた。

 慌てて態勢を元に戻すと、布団を畳もうとして、部屋の中に踵を返そうとする。

「……っ?」

 ……だが、……できない?

 ……窓の外の空から……目が離せない。窓を閉めることさえ……、できないっ?

 彼の瞳は否応なしに、その景色に『魅せられて』いた。

 いつに間にか、瞼の重みは消え去っていた。

 その直後、彼はすぐに動いた。

 一旦強引に外から目を引き剝がすと、部屋の内に顔を傾け頬をスパンと叩く。乱雑に散らかる自室の机を掻き回すと、その山の中から何かを求めて、混沌の中を漁りだす。

 しばらくして、満足げな笑みを浮かべた彼の手にあったのは、一冊のスケッチブック。絵の好きだった父親から譲られた、少し上等な一冊。

 そのスケッチブックと、引き出しから掘り出した数本の色鉛筆を手に、彼は再び窓辺へと向かう。

 目的は、言うまでもない。

 あの空の模写だ。

 早く......早く、あの空に――!

 ……だが、その時には既に手遅れだった。

 太陽が、昇り切ってしまったのだ。

 暁の儚い幻想はいずこかへと消え失せ、そこには見慣れた青空が広がっているばかり。天空はその貴重な一瞬の横顔を、既に何処かに隠してしまった後だった。

 ひそかに歯噛みする彼の耳に、階下から声が飛び込んできた。

「ホラァ、早く起きなさい! 遅刻するよ!」

 ……そう、朝っぱらから叫ぶ母の声を聞き流しながら、しかし彼は未だに窓の外、既に消え去ってしまった空を見上げていた。

 いまだ、心臓は高鳴っていた。呼吸が不意に乱れ、胸が苦しくなった。

『逃した魚は大きい』

 初めて、その意味が分かった気がした。

 ……背後でバタン!と、蝶番の扉が勢いよく開く音がした。


 結局その日の間中、彼はあの暁の空に思いを馳せていた。

 何とか雑念を振り払おうとしても、網膜の裏にはあの景色が焼き付いて離れない。あの、いっそ幻想的・蠱惑的といってもいいような天空の極彩色は、艶めかしく彼の心を掴んでいた。

 彼は――彼の魂は、あの空に『魅せられて』いた。

 そして、彼はその事実を、変だとは微塵も思っていなかった。

 それほどまでに、あの光景は美しすぎたのだ。

 ……翌朝、彼は自ら早起きをした。

 再びあの『空』に会うために。

 恋人との待ち合わせのように、彼はその日以来、毎朝早朝に早起きをしては、ただ空を見上げた。

その日ごとに、様々な色に染まった空を。

 ……その翌日も。

 そのまた翌日も。

 さらにそのまた翌日も。

 闇の中、曇り空にため息をつくこともあった。

 紫紺のきらめきが滲む天空に、息を呑むこともあった。

 ほんの一瞬現れた、淡い緑の閃光に心を動かし。

 深淵からの燃えるような朱色の輝きに、目を見張ることもあった。

 彼は、空の見せる様々な表情に、ある意味恋をしていた。

 早朝に、ひと時の逢瀬を楽しんでいた。

 彼はただ、空を見上げているだけで幸せだった。

 


 季節はやがて、あの夏へと向かっていた。



 その日の朝、彼は寝坊をした。

 ……、つまり、早朝の習慣を守ることができなかった。そればかりか、今まさに学校に遅刻しようとしている。

 朝食を食べる暇もなかったが、そもそも朝食自体がこの所、味気ないものになってしまっているので特に文句はなかった。

 それは、彼にはどうしようもない、仕方のないことだった。

 学生鞄を引っ掴むと、半ば飛び出すようにして家を出た。手ぐしで寝ぐせを引き流しながら、古びた舗装道路を駆け抜ける。高い夏の朝日がジリジリと容赦なく照り付ける中、早くも胸に貼り付き始めている白い夏仕様の制服には、意識を向けないようにした。

 曲がりくねった下り坂を可能な限り速く走りながらも、近所の知り合いの家の前を通るときには軽く会釈をする。庭先の主婦たちが彼に向かってニコッと笑いかけた。何かこちらに声を掛けてくれたようだったが、口が開くのが見えた直後には、もう走り過ぎていた。

 やがて市内を流れる川に出ると、あとはひたすらに川沿いを一本道だ。

バスのまばらに行き交う車道沿いに、白線の内側を駆ける。すれ違う車体の切り裂く風をかすかに体に受けながら、ふと空を見上げた。

 地平線の向こうから立ち上る高い入道雲は、その分身を川面に透過している。大空は気持ち良いほどに晴れ渡り、澄み切った青色にその身を預けていた。並木の吹き起こすザワザワとした微風が、空の横顔を軽く撫ぜる。

 世界は平和でなかったとても、今この町には、確かに一時の平和が訪れていた。

 産業奨励館の前を通り過ぎながら、そう思った。

 ……危うくよそ見をしていたせいでカーブの所、川沿いに続く石造りの手摺に正面衝突をしかけた。


 幸運なことに、遅刻とはならなかった。担任が優しかったことに、彼はひとしきり心の中で感謝した。

 というわけで今、彼は校庭の端でクラスの同級生と共に、体育教師の掛け声一下、準備運動で体をひねっている。

 正直言って今朝はこれ以上体を酷使したくはなかったが、まぁ遅刻した身としては自業自得だろう。今日のこれからの予定を思うとため息が出たが、これも仕方のないことか。

 『屈伸!』という声に合わせて脚をほぐし、『伸脚!』に応えて今度はその足を引き伸ばす。皮膚の下で腱が伸びているのを感じ、当たり前のことながらも「生きている」ということを実感する。

 別に何に感動しようと、僕の自由じゃないか。

 そう、思った。

 準備運動は、後半に入った。

 『回旋!』に合わせて大きく体を回すと、視界で空が回転した。青い残像が目から消えないうちに、今度は大きく体を反らす。

 視界が、青一色で満たされた。

 それは彼が今まで見たどんな空よりも、美しく思えた。

 不意に一瞬注意が散り、彼は態勢を戻すと、首だけを上に向けたまま、ただ空を見上げた。

「あぁ……」

 思わず、意図せず小さな感嘆の呟きが漏れる。

 ……空が、こんなにも近い。

 吹き流れる筋雲を視界の端に収めながら、そう思った。

 ……本当に美しいものは、こんなに身近にあったんだ。

 答えはここに、あったんだ……。

 その時、彼は空を真に理解した。

 そして彼には、空も彼のことを理解してくれたかのように思えた。

 彼には、空が微笑んだように見えた。

 だから彼も笑い返した。

 こんなにも、ちっぽけな人間一人に、それでも空は最高の景色を見せてくれていた……。

 ……

 不意に、蝉の鳴き声が遠のいた気がした。

 彼は顔を下ろすと、空から顔を離して前を向き――。

 ――その瞬間、全てが変わった。

 ――彼の視界は不意に、眩いばかりの光に満たされた……。

 そして……――っ!

 ――大地が、激震した。

 ――大気が、焼け焦げる。

 ――空間が、圧壊した。

 ――彼の世界が、吹き飛んだ。

 ――……そして、全てが消え去った……。



 彼が自分の故郷の町、広島の空に立ち昇るきのこ雲を見ることは、なかった。

 ……翌日の朝、彼が毎朝見上げていたような朝日は、昇らなかった。

 全ての生活が、目標が、希望が、夢が……、消え去った日だった。

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