第25話
「茜ちゃん、いる?」
部室の扉を開きながら当たり前なことを聞いた佐久間は部室内を見て愕然とした。乱雑に置かれた机と椅子、床にばら撒かれたプリント、開け放たれた窓からは風が入り込み、カーテンがゆらゆらと揺れている。そんな学級崩壊した教室かと錯覚するような部室で鹿島は窓際の床に体育座りした状態で泣きじゃくっていた。佐久間はそんな彼女の元へ歩きながら近づいていく。
「どうしたの? こんなに散らかして。」
拗ねた子供に優しく問いかける母親のように佐久間は鹿島に話しかけた。鹿島は時折鼻を啜りながらゆっくりと口を開いた。
「先輩たちがいなくなって、私、どうしたらいいでしょうか。」
この部室の惨状も全て彼女の不安からやられたものだった。佐久間はそれを悟ったようで、それに怒ることはせずに彼女を励まそうとした。
「茜ちゃんはどうしたいのかな? 1人になっちゃったし、無理に応援部を続けなくてもいいんじゃないかな。」
佐久間はこの時点で鹿島を応援部から辞めさせようと考えているようだった。それは決して顧問を続けるのが面倒だからなどという邪な気持ちではなく、彼女を心配しての心からの言葉だった。彼女が中学の頃にバレーボールを不完全燃焼のまま卒業してしまったことを知っていた佐久間は今が潮時だろうと考えたのだろう。だが鹿島の反応は佐久間の想像とは真逆のものだった。
「私、応援部を続けたいです。私を救ってくれた先輩たちのためにもこの部活を終わらせちゃ駄目なんです……。それにきっと私みたいに応援部に救われるべき人がいますから。」
彼女はまた涙を流し、額を膝につけるように視線を落とした。そんな鹿島を佐久間はそっと抱き寄せると鹿島の想いを尊重するように、彼女の耳元に優しく語りかけた。
「大丈夫よ、これまで応援部として頑張ってきた茜ちゃんならきっと続けられるから。」
当時の佐久間はこれが正しいと思っていた。実際、これが間違っていると考える者は少ないだろう、鹿島本人が応援部を続けたいと言ったのだから。
それからの彼女は段々いつもの明るさを取り戻していき、4月の部活紹介では素晴らしい紹介をした。その甲斐あって城ヶ崎努が応援部に入部し、さらに冴山絋も続いた。応援部としてはこの1ヶ月はまさに順調の滑り出しだと言えた。だからこそ鹿島が応援部を辞めるという選択肢を取りづらくしているとも言える。そんな状態になってしまって初めて佐久間は自分のあの日の言葉が正しかったのか疑念を抱き始めたのかもしれない、その疑念を確実なものとしたのが先日の自販機前で鹿島を見かけた時だった。あそこまで取り乱した彼女を2ヶ月ぶりに見た佐久間は穏やかな声色や調子で彼女のことを励ましただろうが、内心は焦りや後悔があったのかもしれない。これまでのことを色々と思い出していた佐久間は独り言のように城ヶ崎に向けてささやかなエールを呟いた。
「頑張れよ、城ヶ崎君。」
佐久間は眉間に皺を寄せて彼の成功を祈るように両手の
佐久間のいた保健室を後にした城ヶ崎は教室に戻り、次の授業に備えて教科書類の準備をしていた。しかし授業が始まってからは明日の藤宮と部室で会う事についてばかり考えており、先生の話していることなど右から左へと聞き流していた。ずっとボーっとしているように見えたせいか、先生に数学の問題を解くよう指名され、上手く答えられず恥をかいたくらいだった。そんな彼にとって恥ずかしい時間が過ぎ去り、下校する時間になってから工藤が話しかけてきた。
「城ヶ崎君大丈夫? さっきから難しい顔してるけど。」
そんなに顔に出ていたのかと城ヶ崎は途端に恥ずかしくなり目を逸らした。
「いや、ちょっと面倒なことになってるんだよ……。」
城ケ崎は覚悟を持って佐久間から託された鹿島についてのことを改めて考えていたが、藤宮の依頼以上の難題を抱え込んでしまったことが城ケ崎にとって大きな悩みとなっていた。藤宮の依頼を鹿島が請け負うことになっているので城ケ崎は自分で背負った責任を果たさなければならなかった。毎度力を借りているようで申し訳ない気持ちがあったが、藁にもすがる思いで工藤から何かヒントを得られないかと彼は考えた。
「なぁ、鹿島先輩っているだろ? その先輩を応援部からいなくなるようにするにはどうすればいいと思う?」
いきなりこんな質問をされれば誰でも戸惑うだろう、だが城ケ崎にはそんな余裕もないほど切羽詰まっているようだった。工藤は城ケ崎の突然の相談に目を丸くした。それも当然で工藤からすればいきなり友人から部活の先輩を消したいと言われたのだ。そんな物騒な話をいきなり真顔で言われれば驚くのも無理はない。
「え、えーと鹿島先輩に何か恨みでもあるのかな?」
戸惑いながらも工藤は城ケ崎の話を理解しようとした。彼はそんな戸惑いを見せる工藤のことなど気にかける様子もなく自分の思考にふけっていたが、工藤の反応を聞いて自分が鹿島に復讐をしようとしているように聞こえることに気づき、慌てて訂正した。
「いや、恨みは無いんだけど、どうにかして応援部を辞めても大丈夫だって安心させたいっていうか。」
城ヶ崎は自分の意図を簡潔に説明した。そこで工藤は理解したようだが、やはりなぜそんなことを言い出すのか疑問を持っているように首を傾げた。
「どうして鹿島先輩を辞めさせたいの?」
工藤が投げかけた素朴な疑問、確かに普通ならこんなことを望まないだろう。英明であればレギュラーに地位に居座る部員への妬みからそのような感情を抱く生徒はいるかもそれないが、城ヶ崎の中にある感情は彼女を思ってのことだった。以前に鹿島の境遇を聞いていたので自分と似ているという親近感を抱いていたがそうではないのだと思いしらされていた。彼女がまだバレーボールに未練があるというのならばもう一度やってみて欲しいと彼は考えている。城ヶ崎はその気持ちを工藤に伝えようとした。
「鹿島先輩、実はバレーボールがやりたいみたいなんだ。だから応援部に自分がいなくても大丈夫だって思えたら気兼ねなく辞められるんじゃないかって思った。」
工藤はそれから少しの間を空けた。何を考えていたのかは分からない。しかし城ヶ崎の方を見て微笑みながら一言呟いた。
「……城ヶ崎君はすごいな。」
相談を持ちかけたというのに賞賛されたものだから城ヶ崎は工藤が何を言いたいのか分からず戸惑った。
「え……?」
城ヶ崎が固まっていると、工藤はなぜ自分が彼のことを褒めたのか説明し始める。その表情には照れなんてものはなく、ただ純粋に彼のことを心からすごいと思っていることが表れているように城ヶ崎には映った。
「だってさ、入部してまだ1ヶ月とかの部活だよ? その部活の廃部危機を脱したと思ったら今度は部長のために応援部を辞めさせたいだなんて良い人すぎると思わない?」
何の躊躇いもなく良い人、なんて言われたものだから城ヶ崎は工藤から視線を逸らした。
「べ、別にそんなつもりはないけど……。」
そんな彼を見て工藤は微笑むのだった。そしてようやくと言うべきか、工藤は彼へ自分なりのアドバイスを送ろうとした。
「鹿島先輩が安心して応援部を辞められるようにしたいって言うなら、城ヶ崎君がやるべきことはたった1つじゃないかな。」
工藤の言葉に城ヶ崎は俯いた。彼女を安心させる方法、彼は薄々気付いていたのかもしれないが、それを工藤が突きつけてきているように感じられた。
「それは……。」
城ヶ崎が戸惑っているのを見ながら、工藤はそっと背中を押すようにそのアドバイスをついに言った。
「依頼を鹿島先輩の力を頼らずにこなすこと、それだけじゃないかな。」
その言葉に城ヶ崎はハッとすると同時に苦笑いを浮かべた。これまで鹿島の助力無しで依頼をこなしたことは無かった。それがまだ入部したての彼に出来るかは怪しい。それでも彼女が安心して応援部から離れられるならばこれしかないというのをきっぱりと工藤に指摘され、城ヶ崎は覚悟を決めた。苦笑いから真剣な目つきに変わり、彼は工藤の方を見て礼を言った。
「ありがとう、工藤。おかげではっきりした。」
工藤はいえいえと謙遜するように右手を顔の前で横に振った。城ヶ崎の中でやるべきことが決まり、次はどのようにしてそれをやるかを彼は考え始めた。
放課後、彼は鹿島と冴山に話があると言って彼女を部室に呼び出した。
「話があるってどうしたの? 藤宮さんが来るのは明日だよね?」
鹿島はもちろん呼ばれた理由が分からないので城ヶ崎に質問した。しかし冴山は緊張しているように黙っていた。なぜなら城ヶ崎が冴山には既に話していたからだ。彼の覚悟を知っていた冴山はこらから行われる会話の行く末を案じているかのような心境のように思えた。彼のやろうとしていることを成し遂げるのは並大抵なことではないだろう、だがそれでもやらなければならないという義務感が城ヶ崎の胸の内にはあった。彼は鹿島に自分の思いを言い放った。
「藤宮先輩の依頼、俺と冴山の2人でやらせてもらえませんか?」
鹿島の助けを求めていたというのに今度は手を出さないでくれと意見を180度変えられた彼女はさすがにムスッとし、驚きと怒りの両方をあらわにした。
「どうして? 藤宮さんの依頼は私中心でやるって話だったじゃない。」
彼女の言うことは最もで、城ケ崎はわがままを通そうとしている。城ケ崎は鹿島に自分の考えを述べるべきだと考え、なぜこのようなことを言い出したのかの理由を説明し始めた。
「鹿島先輩はバレーボールをまだやりたいんじゃないですか?」
鹿島はえ、と呆気にとられたような声を出し、一瞬固まった。図星を突かれたのか、あまりに見当違いをしているので反応に困っているのか彼には分からなかった。そして彼女は動揺しながらもそれを否定した。
「い、いやそんなことは全然ないよ。」
彼女は平静を装うとしているように見るが、彼女のことを近くで見てきたか彼にとっては演技でごまかそうとしているように映った。そしてその戸惑い具合からやはり彼女には未練があるのだと確信した。
「鹿島先輩、応援部は俺たちに任せてもらえませんか? それで、今からでもバレーボール部に転部しませんか?」
彼の提案に鹿島は明らかに動揺していた。そして口を開けたまま震わせ、次に何を言うべきか分からずにいるようだった。そして苦し紛れの言い訳のつもりか、先ほどよりも声を震わせながらバレーボールへの未練を否定しようとした。
「私の居場所は応援部よ、もうバレーボールは止めたの。」
「ならどうして藤宮先輩の依頼を最初断ったんですか?」
間髪入れずにそう問われ、彼女は言葉に詰まった。それもそのはずで彼女がバレーボールに未練があるのは揺るがない事実であり、それは彼女も理解しているからだ。バレーボール部との関わりを持たないようにするのは反射的に未練が蘇るのを恐れているからだろう。そしてそれだけの確かな未練があるというのに否定し続けるのは自分がいなくなれば応援部はなくなるかもしれないという危機感、先輩たちから任されたことへの責任感、そして何より応援部が好きという気持ちだった。
「先輩が応援部のことを大事に思っていることは分かります。でも縛られちゃ駄目です、前に進まないと。」
彼からすれば鹿島は過去に囚われているように見えた。城ヶ崎は野球部でのトラウマという過去に囚われ、努力を虚しいものと考えていたが、応援部での日々を通して努力の価値というものを再認識していた。冴山に関しては過去の経験から人間関係に踏み込むことを恐れ、どこか距離を置くようなスタンスを取っていたが、城ヶ崎や瀬良のおかげで人と関わる勇気を持ち、少しずつ周りの人と触れ合うようになった。だが鹿島は違った。人を応援し、背中を押したり悩みを解決したりする彼女は自分自身のことを放置していたのだ。だからこそ彼女の背中を押す何かが必要であり、バレーボール部に少しでも長い時間在籍するために今すぐにでも応援部から離れるべきだと城ヶ崎は考え、同時に焦っていた。だからこの一度失敗した藤宮花凛の応援を成功させることで彼女の背中を押そうと城ヶ崎は画策していた。彼は決意に満ちた目をしており、それを見た鹿島は自分の胸の内を知られていたことが恥ずかしかったからか頬を赤らめつつ目を泳がせていた。
「で、でも……応援部は私にとって大事な……。」
彼女が応援部から離れられないのはこの場所が彼女の心の傷を癒したからだろう。彼女は応援部を存続させることでその恩を返しているつもりなのかもしれない。城ヶ崎は彼女に自分の役目が終わったことを受け入れさせなければならないと感じた。このまま囚われれば一生引きずってしまうかもしれないからだ。
「先輩は十分応援部に貢献したと思います。後は俺たちに任せてもらえませんか?」
城ヶ崎の懇願するような眼は真っ直ぐに彼女を見つめている。彼女は迷うように眉間に皺を寄せて考え込み始めた。彼女が応援部に固執していたことが揺らぎ始めていると感じた城ヶ崎はもう一押しだと心の内で握り拳を作った。彼女の中でバレーボール部への未練が強くなっていることを城ヶ崎は感じ取っていた。鹿島は躊躇いながら、自分の選択が正しいか判別できていないようだった。
「だったら、私を納得させて。藤宮さんの依頼をこなして見せて!」
そうヤケクソのように叫んだ彼女に向けて城ヶ崎ははい、と静かに、確固たる決意を持って答えた。
翌日の放課後、応援部の部室には応援部の3人が依頼人である藤宮花凛と向かい合うように座っていた。一度応援部からの応援を拒否していた藤宮はあまり期待していないのか、それでも彼らの熱意に負けてもう一度依頼すると言ってしまったことへの後悔からか、どこか面倒臭そうな態度だった。だが彼女をどうにかして満足させ、応援部に鹿島先輩がいなくても大丈夫だと思わせなければならない。まず初めに城ヶ崎が先陣をきって口を開いた。
「藤宮先輩、これは確認ですが、先輩はレギュラーではなくベンチなのが悔しいんですよね?」
藤宮はあぁ、と悪態をつくようにそっぽを向きながらも認めた。自分の依頼内容に恥ずかしさを感じているようにも見えた。そして城ヶ崎は話を続ける。
「どうしてベンチだと悔しいんですか?」
城ヶ崎は単刀直入に聞いた。以前冴山が同じようなことを言って彼女を怒らせたことを知っていた鹿島と冴山はえ、と驚くような表情をしている。藤宮も同じく拳を机に叩きつけた。
「あんた、あたしを怒らせたいのか?」
彼女は鋭い眼光を城ヶ崎に向ける。城ヶ崎は自分に向けられる視線の圧に怖気づきそうになるのを堪え、さらに彼女へと向かっていった。
「レギュラーにこだわる気持ちはよく分かります。俺も経験ありますし。」
城ヶ崎は彼女にある程度の理解を示した。これは彼の本心であり経験済みのことだった。
「だったら……!」
彼女は尚更怒りをあらわにし始めた。しかし彼は引き下がるわけにはいかなかった。彼女の圧に押され、声が震えないように意識しながら彼は話し続ける。
「僕はずっと藤宮先輩がどうして応援部に依頼をしたのか考えてきました。残念ながらその理由はまだ分かりません。だからまずはそこからなんです、先輩が前に進むための後押しをするために、先輩のことをもっと教えてくれませんか?」
彼は穏やかな声で言うよに心掛けていた。これは鹿島の受け売りであり、まだまだ彼女には程遠いだろうが彼にとっては成長だろう。彼は応援部での鹿島の様子を思い出し、どうすれば依頼人に寄り添えるかを考えて来ていた。そしてそれは一定の効果はあったようで、内容としては以前の冴山と同じではあるが、彼女は部室を出ていくことなく、まだ椅子に座っていた。そして彼女は言葉に詰まりながらも口を開いた。
「あたしはどうしてもレギュラーになりたかったんだ。この春の大会はあたしにとって最後の大会になるから……。」
高校生の運動部の大会というのは3年生の夏が最後になることが多い。だが彼女は春の大会が最後だと言っていた。これには何か理由があるのだと踏んだ城ヶ崎は真剣な表情で彼女に話しかける。
「どうして、春が最後の大会になるんですか?」
「あたしは夏の大会には出れないんだ……。」
悲壮に満ちた表情でそう言った彼女は小さな、今にも掠れて聞こえなくなってしまうのではないかというほど弱々しく感じられた。
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