沢城栞菜(本編Ⅲ:第15話、第18話前)


 仕事人間だった父は、一日二時間しか睡眠を取らなかった。

 そして、父が三十五歳の時、卒中で倒れ、

 打ちどころが悪く、即死してしまった。


 不思議と、哀しみの感情が沸いてこなかった。

 薄情な娘だと、父の親戚を怒らせてしまった。


 幸い、父は取引先の付き合いで生命保険に入っており、

 母とわたしが生きていく程度のお金には困らなかった。

 厳格だった母が、わたしに習い事を続けさせるくらいには。

 

 父が死んでからほどなくして、母の喘息が悪化した。

 標準的なステロイド治療が通じなくなり、病院での点滴は頻繁になった。


 「ステロイドの副作用から来る合併症の併発、だね。

  できる限りのことは、させて頂くよ。

  ……できる限りは、ね。」

 

 医者が、困った顔をしながら、

 難しい医療用語で、母の現在の症状を次々説明していく。

 わたしの視野に、薄い靄がかかるようになった。


 わたしは、日々、死を身近に感じながら、学校に通い続けた。

 無口になったわたしを、周りの子達は、避けるようになった。

 わたしは、なんとも、思わなくなっていった。

 

 母は、小康状態になると、

 「桑原さん」のことを、よく、話すようになった。

 父のことよりも、ずっと、多く。


 一緒に読んだ本のこと。

 大会の応援にいった夏の日のこと。

 喫茶店で飲んだコーヒーフロートとレモンスカッシュのこと。

 花火を一緒に見た日のこと。


 溢れるように紡がれる「桑原さん」との思い出達。

 父が死ぬ前までは、ひとことも言わなかったのに。

 母なりの、父に対する気の使い方だったのだろうか。


 母は、「桑原さん」のことが、どうしようもなく好きだった。

 そして、父には、それを隠し続けていた。

 

 父が気づいていたか、いなかったかは、分からない。

 

 でも、父と母は、家同士の結婚だった。

 もし、「桑原さん」のことを知っていたとしても、

 父の性格だと、なんの痛みも感じずに、母と結婚していたと思う。

 父は、母のことを、「穂積家の娘」としか思っていなかったから。

 

 母の眼が落ち窪むほど、母の「桑原さん」に関する話は、

 より美しく、鮮明になっていった。

 わたしが、そのひとつひとつを、

 映像としてはっきりと辿れるくらいに。

 

 わたしは、思わず、口にした。

 

 「お母さんは、桑原さんに、会いたいの?」

 

 母は、痩せこけた姿で、力なく首を振った。

 

 「どう、して?」

 

 「……こんな姿、見せたくない。

  それに……。」

 

 母は、口を噤み、弱々しく笑った。

 

 「……きっと、これは、なの。」

 

 罰。

 誰の、何に対するものなのか、

 激しく咳き込みはじめた母に、答えを聞くことはできなかった。

 

 「栞菜。」


 わたしの名を呼ぶ時だけ、母は、かつての強さを取り戻した。

 

 

 「あなたは、素直に生きなさい。

  心のままに。」



 母が亡くなった時、私は、泣くことができなかった。

 喪主として、葬式の手配、弔問客の応対を、

 ほぼ私一人でやることになったから。


 「しっかりしてるな。

  綾子の娘だから、当然か。」


 母の兄である叔父は、母の言葉では、悪人ではないはずだった。

 ただ、法定代理人として、

 母の遺産を、当然の権利のように差し押さえた。

 

 「お前が大人になったら返す。

  心配するな。」

 

 その言葉を本当に信じて良いか、

 判断する余力は、わたしには、なかった。

 

 四十九日の法要を終えた後。

 わたしは、母の顧問弁護士さんの事務所に呼び出された。

 

 「お母さまの遺言を執行致します。

  四十九日を終えたら、栞菜さんに渡すようにと。」

 

 わたし宛の手紙には、ごく短い、

 「桑原仁さんに渡すように」と書かれた手紙と、

 二葉の封書と、栞。



  『桑原 仁様』

  

  

 母の、字だ。

 綺麗で、流れるようで、繊細で。

 わたしが、心ひそかに、憧れた字だ。


 「……桑原さんは、どちらにおいでですか。」

 

 涙が下りそうになるのを堪えながら聞いてみると。

 

 「大変申し訳ありませんが、

  そちらは別料金となります。

  叔父様にご相談頂けますでしょうか。」

 

 母の弁護士では、なかった。

 顧問弁護士だった。

 

 母の、心に秘めた想い人へ託した手紙。

 叔父に話せることではなかった。

 

 わたしは、二葉の封書を預かった。

 桑原仁さんを、わたしの手で、探し出そう。

 ほんの少しだけ、ワクワクしている自分がいた。


*


 ……途方にくれた。

 十七年の歳月は、果てしなく長かった。

 

 桑原さんが通っていた高校は、

 共学に再編され、個人情報保護が厳しくなっていた。

 母が卒業した高校でもない。

 高校からの協力を、得られるわけがなかった。


 SNSで検索しても、「桑原仁」さんは、見当たらなかった。

 ローマ字検索で、ぜんぜん違う人が何人か見つかり、嫌がらせを受けた。

 匿名掲示板や、〇フー知恵袋などで聞いてみても、

 お金の掛かる方法しか見つけられなかった。

 

 母と桑原仁さんには、一緒に映った写真すらない。

 写真から割り出す方法も、使えない。

 

 母の思い出は、美化されすぎているのか、

 十七年の年月のせいなのか。

 母が一緒に行ったという店は、跡形もなく消え失せていた。

 

 わたしの眼に、

 また、薄靄がかかりそうになる。

 

  『桑原 仁様』

 

 ……諦めたく、ない。


 母の想いを、わたしの手で、桑原さんに、伝える。

 わたしの生きる目的は、ただ、それだけになった。

 

 悩みに悩んだ末に、わたしが選んだ方法は、

 とてつもなく単純なものだった。

 

 桑原さんの住所地の電話帳で、「桑原」さんを探す。

 そして、「仁さんはおられますか」、と尋ねる。


 もうちょっとスマートな、

 もうちょっとまともな方法があったろうけれど、

 わたしの頭では思いつかなかった。

 

 桑原さん一家が、地元から引っ越していれば、

 固定電話を使わなくなっていたら、

 この方法は駄目になることは、分かっていた。

 

 でも、わたしには、これしかなかった。

 

 20件ほど、掛け続け、

 無にしたはずの心が、折れかけた時。

 

 

 「……どういったお知り合いですか。」

 

 


 つな、がっ、た。

 

 信じ、られなかった。


 引っ込みそうになる言葉を叩き出し、

 震えそうになる声で、受話器に告げた。

 

 「わたしは、穂積綾子の、娘、です。」

 

 「……。」

 

 無言、だった。

 なにか、母は、桑原さんのお宅に、悪いことをしたのだろうか。

 せっかく繋がった糸が、切れてしまう。

 

 「……どなたですかな?」

 

 転びそうになった。

 わたしは、頭を少しだけひねりなおした。

 

 「……仁さんの、高校時代の友人の娘です。」

 

 言い慣れはじめた、『仁さん』という言葉が、

 なにか、色を持って現れた気がした。

 

 「……そう、ですか。」

 

 怪訝そうな声だった。

 話をつながないと、切られてしまう。

 

 「……仁さんは、いま、どちらにおられますか。」

 

 答えを聞いた時、わたしは、愕然とした。


 仁さんは、いま、東京にいる。

 

 わたしは、あわててメモを取り、御礼を言った。

 繋がった電話番号をスマホに登録し、

 そして、こんどこそ、途方にくれた。

 

 東京まで行く、旅費が、ない。

 

 母のお金は、押さえられてしまった。

 叔父は、わたしが東京に行くことを、許さないだろう。


 ここまで、なのか。

 

  『桑原 仁様』

 

 ……諦めたく、ない。

 母の想いを、わたしの手で、桑原さんに、伝える。

 絶対に。

 

 わたしは、もう一度、桑原さんの家に電話をかけた。

 

 「……さきほどの者です。」

  

 そして、わたしの人生では、ありえない言葉を口にした。

 

 「本当に、本当に申し訳ありません。

  たいへんぶしつけなお願いですが、

  東京までの旅費を、お貸し頂けないでしょうか。」


*


 優しそうな、白い髭を生やしたお爺様だった。

 同じ男性なのに、父や、叔父とは、違う雰囲気を持っていた。

 

 「そういうことでしたか。」

 

 わたしの、つたない説明を、

 桑原礼さんは、静かに頷いて、聞いてくれた。

 

 「……仁が、この歳まで結婚をしないのは、

  この方がいらっしゃったからかもしれませんね。

  親として、不明を恥じるばかりです。」

 

 『仁』さんへの想いが、膨らんだ。

 この方の息子なら、悪い人ではないのだろう。

 

 「お話は分かりました。

  しかし、栞菜さんの叔父様からすれば、

  東京への旅行は、疑問に思うでしょう。

  難しいところですね。

  

  ……でも、栞菜さんは、

  ご自分で、倅に、直接渡したいのですね。」

 

 わたしが急いで告げようとした言葉を、

 先に、微笑みながら、言われてしまった。

 

 わたしも、わかっていた。

 住所が分かれば、郵送ができる。

 それで、母に託された用件は、済む。

 

 でも。

 

 わたしが、逢いたかった。

 母が、好きだった、

 母が、死の間際まで、事細かに語っていた、

 『桑原仁』という人に。

 

 「わかりました。

  私も、ご一緒しましょう。」


 ぇ。

 

 「もし、叔父様が何か言われても、

  私のせいにできるでしょう。


  私は、貴方のお母さまと、

  面識があったことにしましょう。」

 

 ……言葉が、出てこなかった。

 大きな岩に塞がれていた道が、一気に拓けた気がした。


*


 はじめての、東京。

 立錐の余地もなく並ぶビル街を潜り抜けた先の、

 少し開けたところにある、趣のあるビル。

 

 写真では、なんども見た。

 グーグルマップで、何度も確認したビルが、

 わたしの、目の前に、ある。


 ここまで。

 ここまで、きたんだ。

 

 「では、私は、

  こちらの喫茶店にいるとしましょう。」

  

 びっくりした。

 目と鼻の先まで来たのに、

 仁さんに、逢って行かれないのかと。

 

 「倅も、私がいたら、恥ずかしいでしょう。

  栞菜さんのお母さまは、

  倅にとって、初恋の人でしょうから。」


 チェックのジャケットと黒のベレー帽が似合う礼さんは、

 ごく軽いウィンクをして、本当に去って行った。

 

 わたしは、意を決して、

 趣のあるビルの中に入った。


 ホールは、外で見た姿よりも、ずっと広かった。

 磨き上げられた硬質の大理石の柱が並び、

 ホールの空間は吹き抜けで三階まで広がっていた。

 

 外からでは、グーグルマップからでは、

 想像もつかないような、立派な空間だった。

 町一番の美術館すら、霞んでなくなるような。

 

 足が、すくんだ。

 

 わたしは、必死に余所行きの表情を作り、

 『東京の綺麗な人』を写し取ったような

 受付の人に、用件を告げた。

 

 「あぽいんとめんとはございますか。」

 

 意味が、分からなかった。

 

 「失礼しました。

  桑原と、あらかじめお約束はございますか?」


 ない。

 あるわけ、ない。

 

 ここまで、きて。

 

 零しそうになった涙を、

 心の中だけで、必死に拭った。

 

 お母さん。

 わたしに、力を。

 

 「……穂積綾子と言えば、分かると、お伝え下さい。」

 

 声が、震えた。

 

 「……ほずみあやこさま、でございますね。」

 

 「はい。」

 

*


 ロビーの奥の、落ち着いた色のソファ。

 父が生きていた時に連れていかれた

 地元一番の高級ホテルで座った、

 見た目が豪華そうなやつよりも、座り心地はずっとよくて。

 

 フワフワしている。

 気持ちも、心も。

 

 人の流れはせわしない。

 ロビーは、いろいろな人達が来ては去っていく。


 わたしは、急に心細くなった。

 ほんとうに、来てくれるだろうか?

 

 …やっぱり、礼さんに、いて欲しかった。

 

 そんなことを、思った時。

 

 わたしが見ていたほうとは反対側のエレベーターが開き、

 やわらかそうな紺色のスーツ、

 薄青色のシャツとチェックのネクタイをあわせた男性が、

 わたしのほうに歩いて来る。

 

 瞳を、

 ひとめ、みたとき。

 わたしには、はっきり、わかった。

 

 この人、だと。

 

 「……お待たせ致しました。

  桑原でございます。」

 

 声が、耳に入っただけで。

 わたしの背中が、からだが、ふるえてしまった。

 母が、話してくれた通りの、優しい声で。

 でも、母に聞いていたよりも、ずっと、深い声で。

  

 似て、る。

 礼さん、に。

 

 大きな眼も、

 ふっくらとした耳たぶも、

 柔らかく笑う口元も。

 

 でも、

 すごく、綺麗で。

 

 「……沢城栞菜、と申します。」

  穂波綾子の娘、です。」 

 

 思いつく限り、上品な声で。

 震えずに、言えただろうか。

 

 手が、心が、汗ばんでいる。

 

 言いたいこと、聞きたいこと、

 はなす順番が、ぜんぶ、飛んだ。

 

 「母が、お世話になっていたと、

  お伺いしています。」

 

 仁さんの綺麗な顔が、歪んだ。

 わたしが告げる言葉を、

 その意味が、わかっていたように。

 

 「……母は、三か月前に、

  他界、致しました。」 

 

 仁さんの表情に、はっきりと、

 痛みと、深い哀しみに揺れた。

 仁さんのほかには、誰も、示してくれなかった顔を。


 わたしは、いまさら、気づいてしまった。

 こんな風に、母を悼んでくれた人が、誰もいなかったことに。

 

 「……知らぬこととはいえ、

  まことにご愁傷様でございます。」

 

 痛みをおさえた顔で、

 冷静に、話してくれる。

 声が、耳に、染み込むようで。

 

 はっきり、わかる。

 この人に、この人だから、

 あの母が、惹かれたんだと。

 

 頭の中の言葉が、

 すべて、消え失せて、しまった。

 

 みじろいた時に掛かったショルダーバックの紐が、

 わたしに、本来の用事を思い出せた。

 この瞬間のために、長い時を掛けて来たというのに。

 

 震えそうになる手を抑え、一度、息を吸う。

 

 「……こちらを。」

 

 手紙と、栞。

 

 「四十九日の法要が済んでから、

  桑原さんに渡すように、と。」

 

 やっと。

 やっと、渡すことができた。

 母の想いを、伝え、られた。

 

 「桑原さんを探すのに、時間がかかってしまって。

  遅れまして、申し訳ありません。」

 

 長かった。

 ほんとうに、長かった。

 

 桑原さんが、大きな瞳で、

 母の書体に、魅入られている。

 

 わたしには、わかった。

 いまのいままで、

 桑原さんの心の中で、母は、生きていたのだと。

 

 母の手紙をじっと見つめる

 桑原さんの顔を、瞳を見ているだけで、

 なぜか、わたしが、照れてしまう。

 

 「……お金とか、財産ではないので、

  ご期待されていたら、申し訳ありません。」

 

 そんなこと、考えているわけないのに。

 

 ……ぁ。

 

 わら、った。

 

 それだけで。

 ただ、それだけで、

 母が、わたしが、包まれてしまったようで。

 

 桑原さんの綺麗な顔に、母を想う痛みが浮かんだ。

 そして、

 

 「……大変失礼ですが、

  綾子さんが、お亡くなりになって以降、

  貴方の……。」

 

 「沢城です。

  沢城栞菜、です。」

 

 急いで告げる。

 沢城の姓だけが、わたしと、母を、

 分けてくれる気がした。

 

 「……沢城さんのご生活には、

  支障はございませんか。」


 気遣われた。

 母が死んで以来、叔父からも、誰からも、

 そうされたことがなかったことに、気づいた。


 「……はい。

  叔父が、おりますので。」

 

 心配を、掛けさせたくない。

 この人だけには。

 

 桑原さんは、少し、思案顔をすると、

 名刺入れから、一枚を抜き出し、わたしに渡した。

 

 「私の名刺をお渡しします。」

 

 これを手に入れるのに、どれだけの時間が掛かったろう。

 わたしが、感慨深く文字を眺めていた時、

 

 「それと、こちらが。」

 

 QR、コード。

 

 父が死んでから、

 友達のいなくなったわたしには、

 まったく使うことがなくなった伝達方法。

 

 桑原さんと、直接、つながれる。

 わたし、が。

 

 「お嫌でなければ。」


 「いえっ。」

 

 あわてて言い過ぎた。

 血管が、ぼぅっとふくらんだ。

 

 「……ちょっと、意外だったので。」

 

 わたしに、QRコードを、示してくれたことが。

 

 「……あの。」

 

 どうして、聞いてしまったのか。

 

 「……桑原さんは、ご結婚、されてますか?」

 

 「いえ。」

 

 心が、うわっと、沸き立った。

 


 「……そうしたい人ならば、おります。」

 

 

 一瞬で、心から、あらゆる灯が消え失せた。

 桑原さんの瞳は、わたしでない、

 ここにはいない、誰かを映していた。

 

*


 いつまで、そうしていたのだろう。


 「栞菜さん。」

 

 わたしは、のろのろと顔をあげた。

 桑原仁さんを、30年、歳を重ねた礼さんが、

 笑顔で、微笑んでいる。

 

 そう、しては、いけなかった。

 それなのに。

 

 「……おっと。」

 

 泣きじゃくりそうになるわたしを、

 礼さんは、黙って優しく抱き寄せてくれた。

 

 人に抱かれたことは、何年ぶりだったろうか。

 母が、わたしを抱いてくれたのは、

 何年前のことだったろうか。

 

 わたしの初戀は、

 形づくられるはるか前に、喪われてしまった。


*

 

 家でも、中学でも。

 わたしは、ずっと、一人になった。

 

 母のこと。

 桑原さんのこと。

 

 忘れられるわけ、なかった。


 学校の男子も、女子も、先生も、叔父すらも、

 わたしと話すには、幼すぎた。


 わたしを取り囲む靄が、深まっていく。

 わたしは、どうして、生きているのだろう。

 母もいなくなった、この世界で。


 わたしと話せるのは、礼さんだけだ。

 そして、礼さんと、話したくなかった。

 礼さんが、悪いわけではないけれど。

 

 だから。

 

 メッセージが入ったことを知らせる音が鳴ったとき、

 耳を、疑った。

 

 わたしと、話すひとなど、いるはずがなかったから。

 

 そして。

 眼を、二度、擦った。

 

 

  「真中 明日香です。」

 

 

 桑原さんの、メッセージ欄に、

 知らない、女性の名前が刻まれている。

 

 わたしには、誰だか、分かってしまっていた。


 「仁さんのメッセージを、使ってます。」



 (「……そうしたい人ならば、おります。」)

 

 

 この、人、が。


 感じたことのない、強い恨みが、

 わたしの心の深いところから、湧き出てくる。

 

 どうして、桑原さんは、

 母を、わたしを、探してくれなかったのか。


 どうして、この人なのか。

 わたしで、なく。


 「わたしが、このメッセージを送っていることを、

  仁さんは、知りません。

  いま、お風呂に入ってます。」


 ……ほら、悪い人、だ。

 すっごく。


 「大丈夫。

  仁さん、お風呂、長いんですよ?」


 ……そう、なんだ。

 

 まずい。

 興味を、惹かれてしまってる。

 桑原さんの生態を、親しそうに話してくる人に。



 (「お嫌でなければ。」)



 ……母が好きになった桑原さんが選んだ人。

 悪い人のわけ、ないじゃないか。


 ふてくされてるなんて、

 わたしがバカにしてる、コドモ達みたいだ。

 

 「……悔しいですが、

  仁さんの中に、綾子さんは、います。

  仁さんの、いちばん奥深いところに、いまも、ずっと。」

 

 心を、奪われた。

 魅入られたように、スマホを、

 メッセージを握りしめてしまう。

 

 「仁さんを作ったのは、綾子さんです。

  思い出になってしまった綾子さんに、

  わたしは、どうやっても、勝てない。

  

  綾子さんが送った栞の、のように、

  仁さんは、いつまでも、綾子さんを、忘れないでしょう。」

  

 はなことば。

 それが、何を意味するのか、

 わたしは、いままで、考えたこともなかった。

  

 「だから。

 

  綾子さんを想っている仁さんを、

  わたしは、そのまま、愛します。」

 

 ………。

 

 言葉が、出て、来なかった。

 こんな考え、わたしから、でてくるわけ、ないから。

 

 「わたしの電話番号を伝えておきます。

  よかったら、繋がってやって下さい。


  仁さんには、ナイショですよ?」

 

 内緒も、なにも。

 あとで、見るはずなのに。

 

 きっと、桑原さんに、怒られるだろう。

 それとも、困った顔を、するだけかな。

 メッセージ、送り返しちゃえば、わかるじゃないか。

 

 でも。

 

 復讐も、恨みも、壁も。

 わたしを囲んでいたあらゆる靄が、

 音もなく消えた気がした。



 (「あなたは、素直に生きなさい。

   心のままに。」)


 

 生きて、みよう。

 お母さんの分まで、

 ありのまま、わたしのままで。

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