門地美麻(本編Ⅰ:第3話前後)
これ、は。
とてつもないチャンスなのかも、しれない。
私は、目の前の、
覇気とエネルギーが横溢した高卒の女性に、
賭けてみたくなった。
「貴方。
うちの会社、受けてみない?」
*
桑原仁君。
総務部総務課、課長補佐。
新人研修の頃の彼は、本当に酷かった。
ファッションは我流で、コーディネートが滅茶苦茶だった。
ストリートカジュアルとフォーマルを合わせたり、
茶色のネクタイにブルーのスーツを合わせたり、
丈が短すぎたりスリーブが長すぎたりと、枚挙に暇がなかった。
顔も眉も剃っていなかったし、とにもかくにも、垢抜けなさすぎた。
なにより、態度がおかしかった。
手負いの虎のように、同期の、いや、全女子社員を避け、
同期の三条君の影に隠れていた。
就職活動期に、彼は、人間関係で大きな傷を負った。
信頼していた、心を許そうとしていた女性に、手酷く裏切られた。
その結果、女性を怖れるようになったと。
せっかく、綺麗な眼をしてるのに。
私は、逃げ出そうとする桑原君の首根っこを捕まえ、
口説き、更生させ、社会復帰させた。
いや、自分に正直に言おう。
私好みに育て上げた。
髪型も、服装も、話し方も、仕事の進め方も、社会を渡る術も。
育ち、すぎた。
彼は、商社マンとして生きていくのに必要な、
ほぼ全てのスキルとパラメータを備えてしまった。
企画力、語学力、対人折衝力、行動力、業務遂行力、教養。
間違いなく、我が社始まって以来の俊英ができあがった。
なにもかもが、規格外に飛びぬけてしまった。
そうなるのは、当たり前だった。
本来、桑原君のような人間は、この会社に来るはずがなかった。
彼のような子は、ごく普通に、第一志望の同業他社に収まるはずだった。
桑原君の真価を見破れなかった、
彼を呪った浅薄な女に、私は心から感謝した。
と、同時に。
懐いてきた桑原君は、ただただ、可愛かった。
手負いの虎が、犬のように、腹を見せてくる仕草のひとつひとつが、
ドキッとするくらい可愛くて。
澄んだ瞳、形の良い眉、長い睫毛。
20代向けの雑誌を騒がせる、モデルあがりの若手俳優のような、
可愛いらしく眩しい男の子になってしまった。
食べたい。
頭のてっぺんから、爪の先まで、
ぱくっと、ばくばくばくばくばくっと、食べてしまいたい。
できない。
私自身が、彼に、告げてしまっていたから。
「性的な興味なんて、会社では二の次、三の次よ。
きちんと働けること。社会人は、それがすべて。」
伝えたかった。
しっかり、伝えたかった。
君には、性的な魅力があると。
溢れんばかりに、人を虜にするくらいに。
伝えられなかった。
伝えてしまえば、桑原君は、壊れる。
軽い気持ちで容姿を褒めてくる女子社員に対し、
桑原君は、胡乱な眼を、いや、はっきりとした敵意を向けていた。
そういう風に、立て直してしまったのは、私だから。
「うん。
社会人として、マシになった。
やっと、人並みになったね。」
ほっとした顔の桑原君を見て、彼の闇の深さを思い知った。
いったいどんな仕打ちで、どんな言葉で刺されたのか、
どんな辛い目にあったのか。
慰めたい。
つけ込んで、心を奪ってしまいたい。
自分の気持ちを優先できるほど、
私は、素直に生きてこなかった。
桑原君を、安心させたかった。
桑原君にとって、「無害な私」を見せたかった。
私は、
無難な見合い話を、受けた。
後悔するつもりはない。
桑原君が、安心して相談をしてくれるようになったから。
出会い方が少しでも違ったら、どうなっていただろう。
それを想うことくらいは、許されるだろうか。
*
私が造り上げてしまったせいだが、
商社マンとして、いや、社会人として、
桑原君は、できすぎた。
当然、ヘッドハンティングの対象になる。
外資からも、同業他社からも、異業種からも。
対外的な折衝を伴う部署に彼を置いたら、絶対に奪われる。
私が彼らの立場なら、真っ先に声をかける。
人事部長、役員と結託し、
やむを得ないルーティンを除き、徹底的に彼を本社内勤に留めた結果、
彼の昇進は、私の想定よりも少し遅くなった。
それでも、同期ではトップ。
彼と反りが合わない一部役員ですら、
彼の優秀さ、ソツの無さ、統率力の高さ、責任感の強さは、
一目置かざるを得ない。
10年後の平役員、
20年後の社長候補。
総務、人事まわりでは、桑原君のことを、そう見ている社員は多い。
実際、社長からも、深い信頼を得ているし、
社長と同期、本社女子社員の実質的な頂点である御上臈様も、
桑原君を高く買っている。
ただ、渉外、対外折衝を回避させ続けた結果、
資源畑や海外支社、内勤でも営業部や経営企画部では、
彼のことを軽んじる向きも多い。
私達が、そう、仕向けさせた結果ではあるが。
ヘッドハンティングされずらい部署で、
彼の実力を見せつけるには、アフリカ地域統括支社長は確かに向いている。
ただ。
彼には、大きなアキレス腱がある。
桑原仁君は、結婚、できない。
商社の内勤職員は、基本的に、古い体質のままの社員が多い。
表ではダイバーシティと働き方改革を掲げながら、
実際は男女役割分担論を公然と主張する
20世紀的な価値観を体現している者も少なくない。
35歳を超えて、キャリアのトップ、社長候補生が独身。
桑原君に対する、密かな誹謗中傷の種になっている。
私には、分かる。
彼は、いまも、女性に、強い懐疑を抱いている。
容姿に囚われずに女性に分け隔てなく接することができるのは
彼の利点ではあるが、それは、女性への拭い難い忌避感の裏返し。
本社内では、特に内勤社員で、桑原君と接した子であれば、
桑原君への淡い憧れを持たない若手女子社員はいない。
不思議なことだが、彼への憧れを昇華し、
潜り抜けた社員ほど、幸せな結婚を掴んでいる。
……ほかならぬ、私がそうだが。
奥手の男性の扱い方に慣れ、寛容になれるからだろうか。
それとも。
だが、それも35歳までだ。
もう、周りをごまかし続けることもできない。
「……門地君、なんとかならんのかね。」
直属の上司、彼を最も買っている本多総務部長が、
苦渋の表情で私に縋ってくる。
……私には、なんともしようがない。
彼に掛けられた呪いは、身体の奥底まで食い込みきっていて、
彼が心に受けた傷は、深く、大きすぎる。
一年前の頓宮さんのように、下手に解こうとすれば、
桑原君は、死を選びかねない。
桑原君が、性的に不能であることを、
夢見る少女状態の頓宮さんが、受け止めきれるわけはなかった。
頓宮さんとは、半ば喧嘩別れ状態になってしまったが、後悔はしていない。
桑原君は、一生独身でいいと思っている。
会社での出世が止まれば、それでもいいと割り切ってしまっている。
しかし。
彼の出世が止まる、となれば、
密かに彼に心酔している
若手社員や中堅社員が黙ってはいないだろう。
桑原君がいるから、彼に世話になったから、
外資や大手への転職を考えずにいる、という社員達もいる。
協力会社の役員や管理職からの覚えもいい彼を手放すことは、
我が社の運命を曇らせることになりかねない。
それなのに。
桑原君を見ていると、
生気が抜き取られた抜け殻のように感じることがある。
一日で、せいぜい、20秒くらいに過ぎないが、
すさまじいニヒルに食いつくされたような顔をする。
そんな顔を、してほしくない。
教育係として、人として。
彼を密かに愛する女として。
でも。
彼の呪いを解かなかったのは、
いや、深めてしまったのは、ほかならぬ私だから。
大手や外資の買収を避けるために、
社員の、そして、私の精神の安寧を図るためには。
桑原仁君には、
なんとしても、相手を見つけて貰わなければならない。
*
桑原君に、お昼に誘われた。
彼から誘われたのは、何年ぶりだろう。
わけもなく、心が騒めく。
理由はもう、分かってるのに。
『真中明日香』
桑原君から送られた履歴書を元に、
私は、上司の許可を得た上で、即日で調査機関に照会をかけた。
履歴書の通り、高卒。
うちと取引のある中堅企業の子会社勤務。
成績優秀だが、子会社の業務運営で揉めている。
それ、だけ。
桑原君と、どうして知り合ったのか。
接点が、まったく、分からない。
でも。
あの桑原君が、社外の女子に、こころくばりをしている。
「そういえば、うちの協力会社に、
早めに埋めたい枠があるって話、ありましたよね?」
私好みの眉、私好みの髪型で、私好みの紺のスーツを
律儀に身に着けてくれている桑原君が、
私好みの発声法を維持したまま、少し照れつつ、不自然な発話をしてくる。
私が育てたソツのない彼が、私の前で、疎漏を見せている。
私は、ほんのわずかに嫉妬し、
その数十倍、強烈に興味を惹かれた。
*
第一印象は、芯の強そうな子、だった。
姿勢が良く、凜として、秘めた覇気がある。
なにより、目力が、強い。
でも、仕草と、雰囲気に、仄かな可憐さが見える。
常務と専務の双方が好きそうな娘だ。
「真中、明日香さんね。」
「!
は、はいっ!」
大きめの声がいい。
はきはきして、凜としている。
姿勢が、所作が美しい。
桑原君も、こういう子が好みなのか。
チリっとした嫉妬を隠して、
二〇年来の社会人経験で培った笑顔を向ける。
「門地美麻です。
お会いするのははじめてね。」
「は、はいっ!
真中明日香ですっ。
どうぞよろしくお願いしますっ。」
新入社員達に見せてやりたい。
なんともいえない清涼感がある。
話していて、気持ちがいい。
ソファーを勧めて座ってもらっても、
背筋がすっと伸びている。
私は、直球をぶつけた。
「いきなりで申し訳ないけれど、
桑原仁君とは、どういう関係なの?」
……。
まぁ、予想はしてたけど。
こんなに、か。
顔を、若々しく真っ赤にした
真中明日香さんは、瞳を潤ませながら、
祈るように告げた。
「……誠に僭越の極みではございますが、
心より、お慕い、申し上げております。」
表現が、やけに古風。
眼を伏せ、顔を赤らめながらも、言葉に込めた力は、強かった。
その決意に、声の、姿の可憐さに、思わず、心を奪われてしまった。
これ、は。
とてつもないチャンスなのかも、しれない。
私が作り上げてしまった、
桑原君のバリケードを、女性に対する猜疑心を、
なによりも、性的な障壁を、突破してくれるかもしれない。
私ができなかった潤いを、彼に、与えてくれるかもしれない。
私は、目の前の、
覇気とエネルギーが横溢した高卒の女性に、
賭けてみたくなった。
「貴方。
うちの会社、受けてみない?」
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