(本編:幕間・外伝集)

高坂沙織(本編Ⅰ:第1話~第4話)


「真中ぁ。

 テメェ、どうしてくれんだよぉ。」


 真中先輩が、今日も、課長に怒られる。

 先輩のせいじゃないことで。

 

 すっかり眼つきが悪くなった課長が怒鳴るたび、

 吹き出物が多い鼻から伸びてる鼻毛がびくびくと揺れる。


「納期もロクに守れねぇ高卒が、

 なんでこの会社に居座ってんだよぉ。

 仕事する気ネェならさっさと辞めてくんねぇかなぁ、ぇぇ!」


 先輩は、課内で叱られ役になってる。

 誰のミスであっても、課長は、

 真中先輩をネチネチいびりまくる。


 みんな、思ってる。

 なんで、先輩は逆らわないんだろう。

 なんで、先輩は、ここまで理不尽に耐えられるんだろう。


 課長も、たしかに、犠牲者だとは思う。

 そうだとしても、ひどすぎる。


 でも、課内は、誰も、逆らわない。

 逆らう気力がない。

 自分のメンタルを保つのに精いっぱい。


「聞いてんのかぁ!

 説明してみろってんだよぉっ!!」


 今日は、なんだっけ……。

 桃ちゃんが、仕上げをミスったことか。

 元の予定に無理がありすぎなだけだっつーの。

 

 もちろん、言えっこない。


「高坂、テメェ、なに見てんだよぉっ!!!

 仕事しろ仕事っ!! これだから高卒共はっ!」

 

 こういうとばっちりが来るのを、避けたいから。


 ……こんな会社じゃ、なかったのに。


 誰にとってもムダな時間が、やっと終わる。

 疲れ果てた課長の捨て台詞に、丁寧に一礼して、

 真中先輩が、肘掛のない椅子に戻ってくる。


 ほっとした空気を流さないように息を殺す。

 また課長の機嫌が悪くなったらたまらないから


 西日しか差し込まない部屋の、ひび割れたくすんだ壁に、

 エクセルを無理やり張り出しただけの、

 見づらい、人月を考えない、地獄の進行予定表。

 グロスでの見積が甘いから、絶対に追加作業が出ちゃうので、

 赤字にしかならないムダすぎる作業の群れ。

 

 理由は、わかりきってる。

 

 親会社から来たボンボン一派が、安請け合いしてくるから。

 仕事の進め方がぜんぜんわかってないのに、

 相手の言いなりで受注するのを、営業成績があがったと勘違いしてる。


 我慢できずに進言した部長が、東北の倉庫送りになったあとは、

 誰も、ボンボン連中を止められない。

 幼稚園のお遊戯場から一生出てこなければよかったのに。

 

 転職したい。

 転職する、気力と、体力が、ない。

 転職が成功する自信は、もっと、ない。

 

 10時頃になると、課長が煙草休憩で勝手にいなくなる。

 人にはトイレに行くにも許可を求めてくるのに。

 

 でも。

 

 課長が部屋からいなくなると、

 みんなが、一斉に真中先輩を見る。

 真中先輩は、プライベートのアドレスで、

 ひとりひとりに向けて、スマホ宛にメッセージを送ってくれる。

 

 表の業務分担、なにもしらない幼稚園児が

 現場を無視して作った殴り書きのお絵描きを見せておいて、

 裏では、真中先輩が送ってくれるスケジュールでまわす。

 

 ミスった桃ちゃんの担当分が、私に、

 私の担当分は、同期の子と共同で。

 同期の子の分は、真中先輩が拾い上げる。

 

 それぞれの適正にあった、

 本来の、いや、ずっと効率のいい役割分担。

 業務仕様を、で、から、できてしまう。


 そして。

 かならず、一言、添えられている。

 

 『高坂さんなら、できるよ。

  大丈夫。』


 これが無ければ、ほかの課みたいに、鬱病が出まくってる。

 ボンボンたちのせいで、高卒組はもう出世できなくなったのに、

 真中先輩は、課のみんなを、会社を、助けてくれる。

 

 課長が帰ってくる直前、真中先輩は、

 少しだけ腰を浮かせて、生まれながらの女王のように、

 みんなが、いちばん欲しい言葉をくれる。

 

 「みんなっ!

  これを乗り切って、週末、家に帰るよっ!」

 

 隣のビルに邪魔されながら、

 申し訳程度に入ってくる薄い光に照らされてるだけなのに、

 凜とした真中先輩の姿が、神々しいまでに輝く。

 

 凛々しい。

 かっこ、いい。

 

 この課は、

 いや、この会社は、真中先輩だけで持ってる。


*


 真中先輩が、引っ越した。

 会社から離れた、始発駅に。

 徹夜ができなくなる距離に。


 みんな、気づいた。

 先輩の動きは、課内でぜんぶ、監視してるから。

 

 でも、先輩が引っ越した駅に、

 一緒に引っ越せるほど体力ある人はいない。

 千葉側から通ったほうが、安くつくし、早いから。

 

 先輩のスマホの待ち受け画面が、

 センスがあるとは思えない黄色いロボットのキャラクターになった頃、

 一番遅くまで残っていた先輩が、すこしだけ、帰るようになった。


 帰る前に、ちょっとだけ、化粧を直して。


 古ぼけたロッカーの小さな鏡で、化粧を直してる時、

 みんなに向けた、隙のない、鉄壁の人じゃなくて、

 ほんのちょっと、甘い、夢見るような感じになる。


 はにかむような、小さな笑顔と一緒に、

 みたこともないライトピンクのスーツに着替えてる。


 みんな、わかってる。

 わかってて、手を、出せない。

 真中先輩に助けて貰えなければ、

 この会社で生き残れっこないから。


*


 ボーナスが、出なかった。

 いや。

 

「てめぇらの働きが悪くて業績がこの有様なのに、

 ボーナス出してやるってんだから、感謝しろよぉ。」

 

 役員級が5か月。

 課長級が2か月。

 社員は、0.3か月。

 

 狂って、る。


 最初、社員は0だったらしい。

 それを、真中先輩が総務部長と折衝して、命がけでもぎ取ってきたらしい。

 そういう噂が、若手社員を駆け巡っている。

 

 真中先輩は、何も、言わない。

 でも、時たま、思い詰めた目をするようになった。

 

 それ以上に。


 スマホを見て、微笑むようになった。

 黄色いロボットのアイコンをみながら、

 はにかむように、夢見るように。

 

 あの強靭な先輩も、

 ついに、頭、おかしくなったんじゃないかと。

 

 でも。言い出せるわけ、ない。

 真中先輩に見捨てられたら、人として、死ぬから。


*


 真中先輩に、お昼に誘われた。

 マ〇ドナ〇ドの癖に、早くいけば、

 少しだけ広い、一人用のスペースがある。

 

 授業をサボった高校生達が、

 きゃっきゃと騒ぎながら、私達の隣に座っていく。

 私たちにもあったはずの、キラキラと輝く光が、

 いまはすこし、恨めしく感じてしまう。

 

 池袋にも、中野にも行けてない。

 〇ixivにログインすらしていない。

 

 外の世界への興味関心がすり減ってしまってる。

 あんなに貪るように、ゲヘゲヘしながら絡みを堪能してたのに、

 今じゃ、おかゆ系すら頭に入ってこない。

 

 高校生に煽られるように奮発して、バ〇ューセットを頼んだ。

 真中先輩は、チキン〇ツタを食べる姿すら、かっこいい。

 そんなことを、ぼぅっと思っていた時。

 

 「沙織ちゃん。」

 

 真中先輩に、下の名前を呼ばれるのは、初めてだった。

 

 「絶っ対に、内緒にできる?」

 

 絶対的な、命じる人の声だった。

 私は、わけもわからず、うなづいた。

 真中先輩が、私に悪いことをするとは、思わなかったから。

 

 「よし。

  じゃあ、土曜日、黙ってこの会社を受けて。」

 

 その社名を見て、息が、止まった。

 千葉では、名のある会社の、

 なくなりつつある工場管理の事務職。

 

 従業員数約2700人。

 中途採用、正規基幹職員、高卒以上。月収25万2000円。

 社会保険完備、財形、各種手当有、共済、各種福利厚生施設有。

 週休完全二日、年次有給休暇10日、消化率95%。

 8時間勤務、残業週3~5時間、繁忙期10時間程度。


 5年以内の離職率、累計3%。

 

 「こ、こんなの、受かるわけないです。」

 

 クラクラしてくる。

 なにもかも、違いすぎて。

 

 「沙織ちゃんなら、受かる。

  絶対に。」

 

 「で、でも。」

 

 「うちで一番しっかり仕事ができるのは、沙織ちゃんだから。

  受かりそうなのは、沙織ちゃんだけなの。

  トラノマキ、ちゃんと書くから。お願い。」

 

 そう、認めてくれてたことは、

 舞い上がってしまいたくなるほど嬉しい。


 だけ、ど。

 

 「……悔しいけど、

  この会社に、未来は、ない。」


 「!」


 元の上司も。

 男の先輩達も。

 いろんな人が、吐き捨てるように言ってた。


 でも。

 

 真中先輩から。

 誰よりも本気で働いていた先輩の口から。

 土日残業をいとわずに、命を削ってみんなを支え続けた先輩からの言葉では。

 

 私の中で、何かが、ボキッと、折れた。

 

 「……わかり、ました。

  ありがとう、ございます。」


 先輩が、差し伸べてくれた手を掴んで、

 箱舟に、乗る。


 「……ごめん、ね。

  私の力が、足らないばかりに。」

 

 そんなこと。

 そんなこと、ありえない。

 真中先輩がいなければ、自殺者が

 

 「……そんなこと、ないよ。

  皆が、しっかり生きてるからだよ。

  ひとりひとりの力だよ。」

 

 真中先輩は、いつでも、欲しい言葉をくれる。

 社長に、上司に、言って欲しかった言葉を。

 

 「沙織ちゃん。

  あなたも、生きて。」

 

 隣で、キラキラと輝く女子高生達。

 何の憂いも、恐れもなく、無尽蔵のスタミナで、しゃべり続けてる。

 たった7年前の私が、そうだったように。

 

 「……先輩は、どう、されるんですか。」

 

 真中先輩は、凜とした戦女神のような顔立ちに、

 ほんの少しだけ、血の気を通わせながら、

 はにかむように言った。

 

 「命を捧げたいものができたの。」


*


 一か月後。


 「や、や、辞めるだとぉっ!!!」

 

 課長の声が、裏返った。


 「はい。

  何十回も仰って頂きましたよね。

  『さっさと辞めてくんねぇかなぁ』と。」

 

 課内の女子社員、若手社員は、

 この日が来るのを、わかってた。

 

 明日香先輩が、凜とした雰囲気を残したまま、

 甘く、美しく、可愛くなっていく。

 私物の整理は、とうの昔に終えてしまい、

 机の上には、なにも、ない。


 目と耳を塞いで働かない大人達以外。

 わかんないわけ、ない。


 「ば、ば、馬鹿野郎っ!!

  こ、高卒だから分からねぇんだろうが、

  好き勝手に辞められるわけねぇだろうっ!」

  

 「民法第627条1項により、

  労働者は2週間の予告期間を置けば

  労働契約の解除は法的に有効です。

  管理職なら、ご存知ですね。」


 明日香先輩が、淡々と、神託のように告げる。

 法律用語を、課内で聞いたことは、一度もなかった。

 

 「今までお世話になりました。

  なお、残余有給休暇を、

  労働基準法第39条及び就業規則に基づき申請致します。

  今後は、弁護士を通させて頂きます。」

 

 「そ、そんな、いまさら水くせぇことを」

 

 「いままでの会話は、すべて、録音させて頂いてます。

  弁護士事務所の方で、

  『さっさと辞めてくんねぇかなぁ』の数を、

  数えて頂けるそうです。」

 

 こんなに抑揚のない声が、出せる。

 こんなに課内を、凍りつかせることができる。

 私でさえ、背筋が寒くなったくらい。

 

 思い、知った。

 

 課長は、

 この会社は、

 生かされてたのだと。

 

 「では。」

 

 幸福の女神が、会社を、見捨てる。

 

 「ま、真中ぁっ!!!」


 縋りつくような態度に変わった課長に、


 「……高卒のわたしに、なにか。」

 

 声だけで、人を、殺せる。

 

 破滅のはじまりを告げる黙示録のラッパの音が、

 高らかに鳴り響いた気がした。

 

 凍り付いた課内の空気に護られながら、

 私は、立ち上がった。

 

 「こ、こ、高坂っ。」

 

 課長が、ガタガタと、震えている。

 こんな人じゃなかったのに。

 

 でも。

 それも、もう。

 

 「い、いま取り込み中なのがわ

 

 「私も、明日香先輩と同じ用件です。」

 

 

 ぱんっ。

 

 

 小気味よい音と共に、二通の退職届が、

 安物のスチールデスクに、仲良く並んだ。


 「課長も、どうぞ、お考えになってください。」

 

 言わずにはいられなかった。

 

 こんなことになる前は、

 こんな人じゃ、なかったから。

 

 明日香先輩が、少し、口を開いた。

 指通りがよくなった髪にちょっと手を当てる姿が、

 内側から、溢れんばかりに輝いていた。

 

 「優しいね、沙織ちゃん。」

 

 ほんの少し、くすぐったい気分になった。

 

 「あ。」

 

 鼻毛をべろっと出しながら泡を吹いて臥せった課長を背に、

 明日香先輩が、みんなを、振り向いた。

 

 「みんななら、大丈夫だよ。

  道は、かならず拓けるから。」


 私達は、光の入らないがたついた廊下に出ると、

 心持ち高く、ヒールの音を鳴らした。

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