第20話
「貴方から見て、私と明日香さんの結婚に至る道の、
最大の障害は、何ですか。」
「………。」
考えて、いる。
表情が見えない、黒縁の眼鏡の先で。
ふふ。
明日香さんなら、表情が、くるっくる変わるんだろうな。
メッセージ、ちゃんと返そう。
スタンプでだけで済ませてしまうのは、よくはない。
「………
ご覧、頂いて、おられますね。」
思ったよりも、ずっと、若い声だった。
余計なことを言わなくてよかった。
万が一、保護者かもしれないと、思わないわけではなかったから。
「ええ。」
「……それなら、分かるものと。」
中性的な、抑揚の少ない声。
性別が分かりにくいが、女性だろうか。
きょうび、どちらだか分からないケースは一杯あるが。
「私なりに蓋然性のある結論は有しています。
しかし、お互いに、齟齬があってはいけない。
この報告書を執筆された貴方の口から、お伺いしたいのです。
おそらく、ここで書かれていない背景もあるでしょうから。」
「………。
順を追って、お伝えしても?」
「構いません。」
黒縁の眼鏡の先で、目まぐるしく動いている。
紺のスーツの古さや、化粧の落ち着きぶりで分かりづらかったが
手の甲の若さから、年齢は普通に推定できたはずなのに。
だめだな。観察が甘すぎる。
いろいろ舞い上がってるんだろう。
明日香さんのことだからこそ、しっかりしないといけないのに。
「……。
祖母の元に身を寄せていた時、
父の残した借金の返済のためにと、
大学進学を諦めて、朝・夕・夜、あらゆる仕事をこなしていました。」
ダブルワークという表現はあるが、
毎日トリプルワークというのは、そう聞いたことがない。
過酷の一言に尽きる。よく若さを喪わずに済んだものだ。
「……その一つが、バーテンダーです。」
報告書通り。
ただ、これが。
「実入りが、良すぎる話がありました。
ただ、話すだけで良いと。
もともと、美貌の持ち主でしたし、今よりも、ずっと若かった。
なにより、そういった店に勤めている人には珍しい、教養の持ち主でした。
ああいうお店に来る上客は、
自分の浅薄な知識をひけらかして、悦に入りたいんです。」
……分からんでもない。
そういう光景は、いろいろ見て来た。
「あさはかな大人の前で、その知識が間違っていると知りながら、
ただ、頷いていることができる人でした。
……私には、とてもできませんが。」
(「……よく腐らなかったわね、あの子。」)
そうなん、だよな。
明日香さんは、耐性が異様に高い。
環境の変化を受け入れ、平然と耐え忍んでしまう。
「話すだけで、当座の利子くらいは払えてしまうなら、と。
姉も、必死でしたし、私達も、世間を良く知りませんでした。」
はっきり、言ってしまってるな。
隠すつもりがなくなってきた、ってことか。
「姉のことは、悪い意味で、評判になってしまいました。
と同時に、転入した高校を退学に追い込まれなかったのも、
あのひとたちの力があってのことでした。
それくらい、姉のことは、広く知られてしまっていました。
その中で、
最も上客で、羽振りが良く、地元でも、有名な……。」
風見宗次郎。
……目も当てられない人、か。
(「愛人も、やり、ました。」)
……。
「……私のことを、言われたと。
ずいぶん後で、言って、くれました。」
なる、ほど……。
つまるところ、明日香さんは、この男に騙されたに等しい。
ただ、1年前まで不自由なく過ごしていた
箱入りお嬢様だった明日香さんに、何が分かるだろう。
……思ったよりは、冷静で、居られている。
人前だから、だろうか。
「家の借金を整理してくれた惟住弁護士の善意は、
その男との縁を、姉が切らせること、
姉がおばあさまの家を出ていくことととの引き換えでした。」
要するに、その男との愛人関係が、地元で知られすぎ、
その男の家族に無視できない影響を与えてしまった、ということ。
もっとあからさまに言えば、本妻が潔癖主義だったのだろう。
……しかし、まさか、ここで。
この名を、見せられるとは……。
直接の関係ではないとはいえ、世間が、狭すぎる。
……ただ、名が目に入るだけで、身体が、震えそうになる。
明日香さんと逢う前でなければ、えづいてしまったかもしれない。
……ありがたいな、明日香さん。
「……姉は、東京に戻り、惟住弁護士に紹介された会社に勤めました。
5年ほどは、激務ではあっても、精神的には穏やかな生活が続きました。
姉は、永久に男性と結婚するつもりはありませんでしたから。
小さな会社ですが、着実にキャリアを積んでいくことに
生きがいを感じていたと思います。
……です、が。」
3年前。
明日香さんが24歳の時。
社長が、豹変してしまった。
(「いい人って、長続き、しないん、ですね。」)
外部からの資本注入。社長親族の役員登用。
そして、外部からの取締役の登用。
荻野情報を見るまでもなく、買収のための計画的財務毀損。
それが。
「……明日香さんを、
手に入れる、ため、だと……。」
「……はい。
姉のことは、おばあさまの地元では、
とてもよく知られてしまっていましたから、
東京から来る客もいたんです。
誰が、どうして、姉の情報を知ったのか。
私なりに、できる限りの調査を施しました。
そして。」
「……惟住弁護士、ですか。」
「……はい。」
弁護士には、当然、守秘義務がある。
ただ、守秘義務に反しない形での、
偶然を装った間接的な情報提供の方法は、いくらでもある。
となると、
(「障害というほどの障害ではないと思うけど」)
(「私が考えていたより、すこしやっかいよ」)
砺波さんのこの二つの言い回しも、いまは、理解できる。
明日香さんの御祖母様の地元での、
地元では悪い意味で著名で、手出しができにくいが、
地元から離れてしまえば、それ以上の力を持っていなかった人物だ。
一方で、後者は、雑居ビル内の3フロアテナントとはいえ、
東京都心に立地していた中堅企業をひとつ、
仮借なく潰してしまえるほどの実定権力を持っている。
どちらが「やっかい」かは、言うまでもないだろう。
なにより、明日香さんが、
御祖母様の地元で心ならずも従事していた悪所勤務の実態を、
東京都内で、いつでも平場に出せるぞというカードを持っている。
少なくとも、向こうは、そのつもりでいる。
ふふ。
「……なにか、おかしなことでも?」
「いえ。」
意外に、悪い人間だったんだな、僕は。
この状況が、僕にとって、都合がいいと思ってしまっている。
(「仁さんがいれば、
子どもなんて、要りません。」)
明日香さんが、嫌だと言うまで。
手放せるわけ、ないじゃないか。
(「私が考えていたより、すこしやっかいよ」)
砺波さん、ほんと、凄すぎるな。
期待を、裏切らないようにしないと。
「……正直に、申し上げます。
桑原様のことは、最大限好意的に配慮して、半信半疑です。」
この人からすると、僕が、
明日香さんを騙してるように見えるのだろう。
それは、そうだろうな。
こんな履歴であれば、人を信じるほうが難しい。
人を信じられなくなった痛みは、僕は、よくわかるから。
「お伝え頂き、ありがとうございます。」
意外に、ちゃんとしたコーヒーだった。
焙煎がしっかりしてるし、豆もこだわってる。
この内装だと若い客は誰も来ないよなぁ……。
「……これから、どうされるおつもりですか。」
こここそ、賭け時だ。
「引き続き、貴方の御助力が必要です。
珠希さん。」
「!!」
やっぱり、か。
(「…希の時も、そうでしたから。」)
聞き逃さなくて、ほんと良かった。
「……姉さんが、
私のこと、を……。」
騙してるに等しいな。
感情が高ぶってる時に、
ぽっと口から出ちゃったことだろうから。
「……私は。
何を、すれば。」
いまは、使えるものはすべて、使いたい。
この娘は素人だろうけれども、調査能力は本物だから。
「ひとり、貴方に調べて欲しい人物がいるのです。
極秘裏に。」
変な人名が出てきてるんだよな、この資料に。
どうにも気になる。なんせ、砺波さん案件だし。
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