第17話
「………。」
まぁ、無言になる、か。
交際している男性の、過去の女性なんて、誰も知りたくはないもんな。
やっぱり、隠しておくべきだったかなぁ……。
夫婦間でも、永久に隠しておくべきことはあるというし。
気が焦ったかもしれない。
もっと歳相応の余裕を持つべきだったかもしれない。
はぁ……。
失策、だったか……。
……ん?
明日香さん、が。
綾子さんの手紙と、花水木の栞を。
そっと。
ゆっくりと。
胸に、抱きしめている。
……涙を、流しながら。
……ぇ。
……え、っと??
「も、申し訳、
申し訳ありません……っ。」
ど、
どういう、こと……??
「わ、わたしが、
奪っちゃったから……っ。
四か月前なら、まだ、生きていたのに……
って、思うと……。」
……綾子さんを、悼んで、いる。
交際相手が、想っている、過去の女性なのに。
「……それは、ありえません。
その前に、お亡くなりになっておられましたから。」
思ったよりも、
ずっと、冷静に。
綾子さんのことを、伝えられている。
「綾子さんは、地元では、
少し名の知られた名家のお嬢様でした。
そして、私が通っていた高校の、
同級生の兄の婚約者でした。」
「……。」
「同級生の家に遊びに行くと、
いつも、綾子さんが、おられました。
今にして思えば、一種の花嫁修業、だったのでしょう。」
「……。」
真剣に、聞いている。
瞳に、涙を溜めたまま、耳を、見開いて。
「勉強している内容が、似ていて。
読む書籍の趣味が、同じで。
音楽の趣味も、似通っていて。
共通の話題に、事欠かなかったと思います。
彼女のほうが大人でしたから、
こちらを揶揄うようなところがあって、
そのたびに、心が、震えました。」
(「教えてあげよっか?」)
「近づいてみると、少し悪戯が好きな方で、
人の心を、惑わすところがありました。」
(「ふふふ。
ねぇ、こういうこと、知らないの?」)
「……それこそ、天使のように。」
「……。」
「ただ、同級生の兄の婚約予定者です。
それ以上、進みようがない。
進むことが、あってはいけない。
もし、ほんの少しでも進んでしまえば、
家同士の関係は、致命的に悪くなる。」
「……。」
「綾子さんは、覚悟の座った方でした。
そのようなことになることを、絶対に許さなかったでしょう。
少なくとも、17歳の僕の理性は、そう考えた。」
「……。」
「でも、身体はそうはいかなかった。
彼女の手に、頬に、額に、ほんの微かに触れるたびに、
劣情が、奔流のように、僕を襲いました。
僕は、ありとあらゆる手を尽くして、
すべての女性に感じなくなるようにして
劣情を、押し込めました。」
「……。」
「……。
あの時、自分に正直に生きるべきだったのか。
綾子さんが、僕を、最後まで揶揄っているのか、
今となっては、分かりはしませんが……。」
あの時、正直に生きていれば、
2年後にあんな交際相手に捕まることはありえなかったし、
その後、不感症で死にたくなるほど悩まされることもなかったろう。
ただ。
そうしたら。
「……。」
明日香さんには、会わなかったろう。
絶対に。
「……。」
「……別れる気に、なりました、か?」
17年前の、交際にも至らなかった相手を、
密かにずっと想っていたなんて、気持ち悪いにもほどがある。
「?
どうしてですか?」
あは、は。
あっけらかん、としてる。
悩んでたのが、馬鹿みたいだ。
「そう思っては、いけないんでしょうけれど、
ちょっと、嬉しいです。」
?
「またひとつ、知れましたから。
ひとしさんのことを。」
……あはは。
強い。
この娘の笑顔は、ほんとうに強い。
「もう一つの封筒には、
綾子さんの娘さんである、
沢城栞菜さんに関する身上調書の一式が入っています。」
いたって事務的な書類として、淡々と、見せられる。
気持ちが、すっかり、吹っ切れてしまっている。
「……拝見します。」
……これの内容が、また、なんとも言えない。
調書の日付を見た時、吃驚した。
どうしてこれを、実の母親が、死後に届くように作らせていたのか。
いや。
綾子さんのことだから、これも悪戯かもしれない。
あるいは、客観的に見せたほうが、僕が動くと思ったのかもしれない。
「ご覧頂いている通りで、綾子さんの兄君、
つまり、本家の当主である穂波普賢氏が、
栞菜さんを引き取ることになります。
経済的な問題は、あまりないように見えますが……。」
「……肩身が、すごく、狭いですね。」
「ええ。」
力が弱まった家に嫁いだ妹の娘、だ。
明日香さんの顔が固くなるのも当然だろう。
四十九日も終わって日も経ったのに、姓が変わっているわけでもない。
本来は母方の旧姓に戻すのが素直なのに。
そのあたりも、何かがありそうだ。
「……。
名前が変わるのは、辛いですから。」
……?
明日香、さん……?
「……す、すみません。
なんでも、ありません……。」
……。
「まぁ、特になにかをするわけでもありません。
こちらは、本当に、気に掛けるだけです。」
それ以上のことは、綾子さんに、望まれてはいまい。
当主家が潰えたら、養子縁組という手段はありえなくはないが、
見た限りでは経済的な問題はない。しばらくは様子を見るしかない。
「……。」
ん?
なんだ?
「……
あ、あの。」
なにかを、まだ、気にしている顔だ。
「なんでしょう?」
明日香さんは、緊張気味に声を震わせながら、
ほんの少しだけ、挑むように告げた。
「こ、この娘に、
QRコードを、見せた、って。」
え。
なんで、もう、知ってるんだ?
……やっぱ、会社内はだめかぁ。
情報なんて、ぜんぶ、筒抜けだわ……。
「……中学生ですからね。
メールを送って来ることは、あまりないかと。」
そもそも、メールというデバイスの存在すら知らない人もいる。
新入社員研修で思い知った。
「……そう、ですね。
それは、確かに……。」
あ。
「明日香さんのほうが、歳が近いですし、
同性の……」
いや、これはいくらなんでもまずい。
直接の面識がない状態だし。
今日、紹介しちゃう手もあったなぁ……。
って、どういう関係として紹介するべきだったんだ?
まだ公には社内公表もしてないのに??
……。
ん……?
わらって、る?
「……えへ、へ。」
解放されたような、
憑き物が落ちたような笑みだ。
「?
どうしました?」
「……なんでもありません。
そっ、かぁ……。」
幼くすら見える満面の笑顔になった明日香さんは、
息を一度吸って、
どんっ!
「はっ!?」
全身全霊で、抱き着いてきた。
少し勢いがあったから、呼吸が止まりそうになった。
「……
大好き、です。
愛してます、ひとしさん。」
な、なんだ、突然。
で、でも、
風呂上りで、暖かくて、シャンプーの匂いが薫って、
筋肉質だけど、ほどよく脂肪が覆っていて、
弾力があっ……
!
……!?
か、下半身、がっ……?
う、う、うごいて……る?!
「……
あっ!」
き、気づかれたっ??
「えへへ……。
ひとしさんも、わたしに、感じてくれてます?」
!!!
か、顔が、赤くなって
……ん?
しゅるるる………
「あ、れ……」
おち、てった。
下半身、が。
「あ、貴方が、揶揄うからです。」
「そ、そんなぁっ!!」
顎が外れたみたいに口を大きく開けて、
この世の終わりのようにがっかりしてる。
こんな表情、ほんとにあるんだ。
……は、は。
あは、は。
「残念でしたね、明日香さん。」
人として情けないことで、マウントを取ってる。
なんだこの構図。
「つ、次がありますっ!」
めげない。
ほんと、強いなぁこの娘。
次がある、か。
いい言葉だなぁ……。
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