第4話


 「桑原課長、よろしいでしょうか。

  少々、お話があるのですが。」


 あれ、頓宮さん。

 珍しいな。いつも旦那さんの新居にルンルンで帰るのに。


 誰も、いないな。

 ドアもちゃんと開いてる、と。


 「なんでしょう。」


 小さくて可憐な頓宮さんの顔が、心持ち緊張している気がする。

 最近、緩んだ顔しか見てなかったから、ちょっと意外。


 「その……。

  い、異勤願いを、出せないかな、と。」

 

  ……ん?


*


 「要するに、旦那が名古屋に異勤するから、

  自分も移れないかってこと?」


 身もふたもなくつづめて言えばそうなる。

 

 「はぁ……。

  それはさすがにしんどいぞ、桑原。」


 それはわかってんの。

 ただほら、新婚さんだから。

 できるなら、過酷な一人旅をさせたくはないから。

 

 「……本人から申請させないのも、

  砺波さん人事部長代理の旧姓とこ、持ってがないのも、

  頓宮さんの経歴に傷をつけないため、か。」


 よくおわかりで。さすが同期。


 「……相当難しいぞ。

  まぁ、やるだけやってみるわ。」


 「ありがとう。助かる。」

 

 三条が労務管理課にいてくれて助かったわ。


 「期待すんなよ。担当課違うんだから。」

 

 「勿論。」

 

 相当な無理筋だから。

 やってもらっただけで説得はできる。

 

 「……っていうか、よく手放せるな。

  頓宮さんなんて、囲い込みたいだろうに。」

 

 囲い込んだら、やる気無くすだろ。

 

 「……まぁ、確かに。

  新婚だもんな。」

 

 そうそう。

 

 「桑原こそ、いい加減浮いた話はないのか。

  同期トップで本社の課長になったってのに。」

 

 ない。

 

 「言い切るな。

  ほんとにマレーシアにぶち込むぞ?

  ケニアの立て直し支社長とどっちがいい?」


 ……どっちも嫌だ。


 「同期で残ってる奴で結婚してないの、お前くらいだぞ。

  35で結婚してねぇ、ってなると、ちょっとな。」

 

 ……随分昔に、女性で、25歳vingt-cinq ansで……

 っていうのはあったけど、

 うちの会社の男性側のラインは、この歳trente-cinq ansなのか。


 「それとも、

  何か、でもあるのか?」


 ……問題、か……。



 (「貴方のことなんて、。」)



 ……


 わかってはいる、けど。

 情けなすぎる話、だけど。


 「ま、いいわ。

  貸しは高いぞ?」


 それは、仕方ない。

 上司の勤めなんて、こんなことだけだから。


*


 <面接、受かりましたっ!!>

 

 よかった。真中さんの転職、決まったみたいだ。

 砺波さん、面接のアレンジ、ちゃんとしてくれたんだな。

 実力的には問題はないと思ってたけど、やっぱりほっとする。

 

 <おめでとうございます>

 

 あの協力会社だと、千葉のほうだから、

 引っ越さないといけなくなるだろうな。

 せっかく住んでる場所近くに顔見知りをみつけたのに、

 ちょっとだけ惜しい気もする。


 まぁ、引っ越した先の家賃は安くなりそうだから、

 真中さんのためにはそっちのほうがよさそうだけど。

 

 <ありがとうございますっ!!>

 

 くねくねした蛇が喜んでる。

 餌をパクっと食べる姿が愛らしくてグロい。

 女子はほんと、こういうの好きだよなぁ……。


 向こういったらお互い忘れちゃうだろうから、

 こういう連絡もできなくなるんだろうな。

 ま、当然か。もともと、何の関係でもなかったのだから。


*


 「桑原課長。

  滝沢専務がお呼びです。」

 

 ちょっと浮ついた感じの笑顔が可憐な頓宮さん。新婚さんだもんね。

 旦那さんと一緒に名古屋に異動できることが決まったし。

 三条、ほんと仕事できるよなぁ。上司に恵まれさえすれば。

 

 ……って、滝沢専務って、今時期に何の話?

 ま、お勤め、お勤めっと。


 「わかりました。」


*

 

 役員室まわりは相変わらず静寂に満ちてる。

 廊下の調度品もいちいち金が掛かってる。羨ましいねぇ…。

 

 ネクタイ、一応チェック。

 髪型、一応確認。


 よし、と。

 ふぅ……。

 

 コン、コン。

 

 「桑原でございます。」

 

 入り給え、と、声が掛かる。

 

 「失礼いたします。」

 

 ……ぇ。

 

 マホガニー製の専務の机の、

 右隅に立つ、妙齢の女性。


 上下紺のスーツに、薄青のシャツと白色のパンプス。

 コンタクトレンズを嵌めた大きな瞳と、

 スーツに合ったブラウンベージュの隙のない髪。

 立ち姿の所作が美しい。ニッコリと微笑む姿が板についてる。


 「できる女性社員感」が凄まじい。


 で。

 でも、なんで?

 

 「紹介する。

  今度、した、

  真中明日香君だ。」

 

 ぇ。

 

 

 (「はしてあげる。」)

 

 

 ぇえっ!?!?

 

 

 「頓宮君が名古屋へ転出するから、

  彼女に引き継ごうと思っている。」

 

 ……って。

 って、ことは……?!

 

 「諸処諸々は頓宮君に委ねるが、

  君のほうからもよろしく頼む。」

 

 「……拝承、致しました。」

 

 うわ。

 真中さん、満面の笑顔だ。

 役員の前で出しちゃいけないタイプの。

 

 な、なにがなんだか、

 ぜ、ぜんぜん、わからない。

 協力会社を紹介したはずなのに。


 ……ど、どんな顔をすべきなんだ…?

 

 ……。

 あは、は。


 ちょっと、ほんのちょっとだけ、

 心が、浮足立ってる。

 

 なにもはずなのに。

 ただのお仕事、同僚を迎え入れるだけなのに。

 

 「どうぞ宜しくお願いします、真中さん。」

 

 「はいっ。」

 

 申し分のない、カメラの前のアイドル女優のような、解けきった笑顔。

 社会人としては、上役の前では、どうかと思うのに。

 

 ……ほんの、少し。

 少しだけ、、楽しみになる。

 こんな気持ちになったのは、何十年ぶりだろう。

 


2207:trente-cinq ans.

(本編Ⅰに続く)

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