第3話
「では課長代理、御先に失礼しますねっ。」
小さくて可憐な
新婚さんだものね。なんてったって。
「今日もおつかれさま。
お気を付けて。」
……ふぅ。
もうひとがんばり、ってとこかな。
ぴこんっ
……ん?
<おつかれさまです>
あぁ。
真中さん、か。
へんな猫のスタンプがぐでーっとしてる。
残業ってこと、か。
<2215、2両目の左端、お願いします>
あぁ。
<善処します>
目の垂れたウサギが飛び跳ねてるスタンプが来た。
少しだけほっこりする。
よし。
ちゃっちゃと片付けますか。
*
22時15分。
「……ありがとうございます。」
安堵した表情の真中さんが、ポール座席の隣、真ん中に座る。
ミッション達成、だ。
真中さんは、三つ隣の駅に勤めている。
隣の座席を確保するには、ちょっとした心理操作で十分だ。
左奥の3座席のうち、ポール座席と、窓奥の座席はすぐ埋まるが、
めちゃくちゃに込まない限り、左右に人がいる真ん中に座ってこない。
そして、あからさまなマナー違反にならない範囲で、
ほんの少しだけ、本来のポール座席の位置よりも左よりに座れば、
人間の心理からして、隙間が見える他の席を狙う。
真中さんが、背もたれに、
ぐったりと寄りかかるように座る。
心持ち、ポール席側に寄る。
女性に触れるわけにはいかないから。
ぐったり沈んだきり、びくとも動かない。
彼女も、疲れきっているのだろう。
22時を越えて電車に乗っているのだから。
まだ、水曜日だ。
少しでも、寝かせてあげるべきだろう。
……というか、こっちも相当疲れている。
ほんと、テレポートしたい……。
*
ボーナスが、出た。
思ったより加算枠が大きい。
一応、ちゃんと評価はしてくれてるようだ。
でなきゃ辞めてる。
1割を各種保険、1割を財形、1割を某非課税投資枠、
3割をインデックス投資枠へと振り替え、
4割のフローをいつもの預金通帳に入れると、
じんわりと喜びが溢れてくる。
なんとも小市民的な喜びだ。
こうやって、牙を抜かれて飼いならされていくのだろう。
といっても半分は
ぴこんっ
<おつかれさまです>
真中さんから、ぐでーっとした猫とともに、
メッセージが流れてくる。
<……。>
ん??
こんなメッセージ、送ってくる??
<どうされました
いや、そんな立ち入ったことを聞ける関係じゃない。
……っていうか、これって、どういう関係??
ええい。
<2215、2両目の左端、どうですか?>
既読がついて、しばらく経つと、
向こうから、不細工な眼の太った猫がクネクネと踊ってるスタンプが来た。
……どういう意味?
*
その週の土曜日。
最寄り駅近くの、分煙の喫茶店。
「……ボーナス、出ません、でした。」
なん、だっ、て??
「いや、その、出るには出たんですけれど、
半月、ないくらいで…。」
な、夏のボーナスが、半月以下?
こんなにちゃんと捌ける人が、22時まで働いてて??
……どういう、こと。
絶対に、やらないことだった。
上京以来、一度もやったことはなかった。
ありえないことだった。
それでも。
「失礼。
わたくし、こういうものです。」
縁のない人に、名刺を、差し出した。
社会人の常識から、すれば。
「あ。はい。
……失礼致しました。御名刺、頂戴致します。」
青のジャージなのに、上げているだけの髪なのに、
声の抑揚が、名刺の受け取り所作が、流れるように美しかった。
東京に出てから、前線で、必死に戦ってきた感じが伝わってきた。
「……恥ずかしながら、こういうものです。」
真中明日香
明日香さん、というのか。
住所地は確かに三駅先だが、立地は駅前からかなり遠い。
駅から15分くらい離れた、見通しの悪い雑居ビル街だ。
住所地と会社名を頭に叩き込むと、名刺を仕舞い、
定期で行ける隠れた沿線スイーツの話へと切り替えた。
*
「あー。わかるわかるわかる。
んなもんお前、一発だぞ。」
大学の同ゼミ生だった荻野は、大手信用調査会社に勤めている。
ちゃらんぽらんだった奴なのに、まともな社会人に擬態して、
奥さんがいて子どもまでいる。信じがたい。
「っていうか、
お前の会社のほうで調べさせればいいんじゃね?」
「私用で使えるわけないだろ。」
「あはは、やっぱお前、かったいなぁ。
そういうとこ、なんも変わってねぇな。」
そう簡単に人間変わるわけないわ。
電話口から、子どもの声がする。
ぱぱー、か。
あいつが、パパ、ねぇ……。
「それに、プロのほうが情報が濃いだろ。」
信用調査会社は、非上場企業の財務、非財務情報だけでなく、
社内の細かい内情まで入手している。
役員の性格、役員同士の軋轢、社内の様々なゴタゴタまで。
「わかったわかったわかった。
なんか理由くっつけて朝一で仁宛でメールで送るわ。
仁の会社のアドレスだとヤバイよな?」
そういうことはちゃんと気づくあたりは、
腐っても信用調査会社勤めってことか。
「ありがとう。借りとくよ。」
「おけおけおけ。きにすんなー。
あー、パパ、パパこっちだから。」
ほんっと軽いなぁ…。
あんまり借りを作りたくない奴だが、まぁ、仕方ない。
*
「桑原君がお昼誘ってくるなんて、珍し。」
入社時に教育係だった門地美麻さんは、今や人事部長代理だ。
お互い、歳をとったと思う。
最初に逢った時は、砺波さん、だった。
結婚してからも勤められ、役職までつくのが、
うちの会社のいいところだろうな。
心の中では、つい、砺波さんって呼んじゃうけど。
スタンドカラーのシャツに、
ノーカラーデザインのジャケットを軽く羽織ってる。
汗ばむ陽気なのに、軽やかな印象を与える。
リクルートスーツの学生からは、人事部長代理とは思えないだろうな。
互いの近況や、人事の流れ、
部下の評価や、今後の会社の展望を話し合った頃合いで。
「そういえば、うちの協力会社に、
早めに埋めたい枠があるって話、ありましたよね?」
「ふふ。なんで君が知ってるの?」
「まぁ。」
人事部の女子社員と、頓宮さんの繋がり。
こっちから人事部にいった子も一応いるし。
「履歴書は見てるけど、この子、高卒よね?
君と、どういう関係?」
関係。
(「そのゲーム、なんですか?」)
関係は、なにも、分からない。
「まぁいいわ。
君からは、借りてることが多いしね。
面接のアレンジはしてあげる。」
それはそうだろう。
相手方だって、上から強引に押し込まれたら困るだけだ。
たぶん大丈夫だろう。あの所作なら、あの対応力なら、
社会人としての実力はしっかりあるはずだ。
「ありがとうございます。」
荻野が詳細に送ってくれた
真中さんの会社は、買収先から派遣された経営の素人っぽい役員が
現場を無視して暴れてしまっていて、
社内事情が剣吞たるものになってしまっているようだ。
某家具屋の創業者の娘が会社を潰しかけてる感じに少し似てる。
業績も順調に悪化しているし、労働組合もない。
送り込んだほうには何か意図があるのだろうが、
身を粉にして真面目に働く若い女性が益する状況ではまったくない。
「ふふ。
君の身辺のアレンジもしてあげよっか?」
「勘弁して下さい。」
やりかねないから。
断れなそうな筋から言ってくるから。
「そっかぁ。
あの可愛かった桑原君も、もう35歳かぁ…。
ほんと、あっという間だね、お互い。」
ほんとに。
「真面目な話、結婚しないと、
また海外に送り込むよ?」
げ。
また、あの地獄が……。
まぁ、分かるけど。独身のほうがいろいろと張り付けやすい。
「君、使い勝手いいからさ。
上に気に入られるのもほどほどにね。死ぬよ?」
……ずしっと重たい言葉だこと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます