【46】歩み寄る心(1)
◆◆◆◆
「つ、疲れた……」
襲ってくる疲労に耐えられず、部屋に戻って早々、寝台にパタリと倒れ込んだ。
薬草園で雑草取りの手伝いをしてもらっている最中も、カガチさんの様子がかなりおかしかった。
あれからカガチさんは、私の傍から離れようとしなかった。食事の時は隣に座るし、どさくさに紛れて手は握るし、薬香を作っている時も常に作業を見ている有様だ。
周囲の剣士達は今も私がシュロさんの婚約者だと思っていることもあって、カガチさんの行動にヒヤヒヤする始末。「カガチさんは人のものに手を出したがる癖があるから」と、剣士達が噂まではじめていた。
「何だか、やけに触られたような気がしたんだけど……カガチさん、何を考えているんだろう」
最近はレンゲさんとの距離が近くなっているように見えたのに、あれは何だったのか。いや、もともとは街の娘達が毎日のように会いに来るような色男だもの。真面目になったと思った私が間違っていたのかもしれない。きっと、気まぐれでも起こしているのだろう。
「理由はわからないけど、本当……疲れちゃった。四六時中見張られているみたいで、思うように作業も進まなかったし」
寝台からのろのろと降り、部屋の隅にある作業台についた。
開きっぱなしの香術書の間に挟んだ紙を手に取る。そこには、今日一日でこなそうと思っていた仕事を、優先順位をつけて記してある。ずらりと並んだその項目を見て、力なく溜息をついた。
「今日は夜までかかりそうだなぁ。レンゲさんから頼まれている桜の香を作って、残りの材料で隊の分の薬香を作って、それから――」
指折り数えるそこへ、トントンっと戸を叩く音がした。
戸越しに「どうぞ」と答えると、一拍置いてから戸が開いた。顔を覗かせたのがカガチさんだったせいか、反射的に奥歯を噛みしめて身構えてしまった。
「カ、カガチさん……こんな時間にどうしたんですか?」
「お茶を淹れたので、一緒にどうかと思いましてね。お時間、よろしいですか?」
フフッと爽やかに笑ったその顔が、いつにも増して綺麗で怪しく見えた。
手にしたお盆には急須と湯呑が乗せられ、熱そうに湯気を上げている。本音を言えば、早く仕事を片付けたかったし、何より今は独りになりたかった。ただ、ここまで来て追い返すのも申し訳なくて、渋々部屋に引き入れてしまった。
「少しだけでもよければ、どうぞ」
「では、失礼しますね」
カガチさんは迷うことなく部屋の中心にある机に向かい、手にしたお盆を静かに置いた。様子を窺いながら私が長椅子に座ると、カガチさんは向いには座らず私の隣に座ってしまった。
なぜ隣なのか、なぜ足が触れるほどの距離なのか。その意図が読めず、混乱して思考が上手く働かない。ただただ無言のまま、膝に置いた手を握り締めるばかりだ。
しばらく大人しくしていたけれど、どうにもこの距離感が気まずくて、なんとか気づかれないよう拳一つ分くらいの距離を開けた。
「もしかして、これからお仕事でしたか?」
「えっと、そうですね。今日はやらなければならいことが多くて。作業を始めようと思っていたところに、カガチさんがいらしたので」
「あぁ、それは申し訳ありませんでした。ですが、あまり無理はいけませんよ。綺麗な肌が荒れてしまいますからね」
何の前触れもなく指先でスーッと頬を撫でられた。予測していなかった行動だっただけに、私の体は大袈裟なくらいビクリと跳ね上がった。
毎度のことながら、カガチさんと一緒にいると心臓がいくつあっても足りない。予測不可能な行動をとるカガチさんと長い時を共にし、おまけに好きだと言うレンゲさんが奇特な人に思えてきた。
「そ、そんなことより、お茶ですねっ。せっかく淹れてくれたのに、冷めてしまいます」
「あぁ、そうですね。では」
さすがは女性に優しく、気が利くカガチさん。私が飲もうと言えば、素早く私の分の湯呑を取ってくれる。
それを受け取り、何度か息を吹きかけて冷ましながら少しずつ飲んでいく。その間も、隣にいるカガチさんが気になり、何度も横目で様子を窺った。
緊張と困惑で挙動不審になっている私を余所に、カガチさんは優雅に茶を飲んでいる。一体、この綺麗な表情の下で何を企んでいるのか。じっと眺めていると、不意に目が合って微笑みかけられ、慌ててお茶を飲んで誤魔化した。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
「いえ、その……カガチさん、いつもと違うような気がして」
「おや、どのあたりがですか?」
質問したのは私なのに、逆に訊ねられてしまった。
普段から冗談なのか本気なのかわからないような、飄々としていて心を読むことができない人だ。私のことを誘うような言動はあっても、それはただ言葉を発しているだけで、からかって反応を楽しんでいるだけのはず。そこに深い意味も企みもない。
ただ、今日に関しては違う。いつもは中身のない言動なのに、今日はやけに中身が詰まっているように感じる。悪く言えば、何かを企んでいるようにしか見えないのだ。
「やけに付き纏われているように感じているのですが、気のせいですよね?」
「おや、気のせいではありませんよ。お察しの通り、しっかり付き纏っていますからね」
またしても予想外の返答に、返す言葉に困って呆気にとられる。すると、カガチさんはいつものように微笑む。指先で背筋をなぞられたような悪寒が走った。
「何か魂胆でもあるんですか……?」
「ありますよ。あなたを手中におさめようという、魂胆がね」
「はい!?」
「はい、隙あり」
驚いたその隙をまんまとつかれ、気づいた時には長椅子に押し倒されていた。
こんなことをするのは、きっといつもの冗談だ。そうに決まっている。けれど、どういうわけか目の前のカガチさんは真剣そのもの。いつものような不敵な笑顔もなく、恐ろしいくらいの色気を纏って私を見下ろしていた。
「カカ、カガチさん、何してるんですか! レンゲさんに言いつけますよっ」
「どうぞ。レンゲなど所詮遊びの女です。本気じゃありませんよ」
信じられない発言に、頭の中の言葉がどこかへ吹っ飛んだ。
数刻前まで桜華通りであんなにも仲睦まじくしていたのに、それをこうもあっさりと〝所詮遊びの女です〟と、どの口が言うのか。
「私が単なる好奇心でこんなことをすると思いますか? 言っておきますが、私は気に入った女性にしか手を出しません」
「そんなこと言って、私を騙そうったって駄目ですよ!」
「おや、私は至って真剣なのですがね。アオバさん、どうです? 総長など諦めて、私のものになりませんか?」
カガチさんがさらりと口にしたその一言に驚いた。
「どうして私が、シュロさんのことを……」
「気づいていないとでも思っていたのですか。私を誰だと思っているのです? 元情報屋の頭、甘く見てもらっては困ります」
そうだ、カガチさんは裏の世界で生きてきた人間だということをすっかり忘れていた。それも情報を売買していた盗賊の頭で、その上幾人もの女性を手玉にしてきたような人だ。人の言動から心を読み取るなど容易い。私がいくら本音を隠したところで、この人が相手では勝ち目がない。
「私がシュロさんを好きだって気づいているなら、私がカガチさんのものにはならないってわかりますよね?」
「ええ、もちろん。ですが、そういう女性の心を強引に奪って、自分のものにしてしまうというのも、また刺激的で好きなのですよ」
真剣だった表情がほんの少しだけ緩み、ゆるりと目を細めた。その妖しくも不敵な様に、私はごくりと息を呑んだ。
まさにその目は獲物を狩る黒い獣のよう。黒龍隊という名が、カガチさんにこそ相応しいような気がした。
「カガチさん、早まっては駄目ですよ⁉ ほらっ、よく考えてみて下さい。私はただの小娘ですから! レンゲさんみたいに大人じゃないですし、食べても物足りないだけです!」
「わかっていませんね。初心な小娘だからこそ、美味しいのではありませんか」
あぁ、これは何を言っても上手く流されてしまいそうだ。カガチにはどんな言い訳も嘘も通用しないのだ。
そうこうしている内に、カガチさんの手がついに首筋に触れた。くすぐったさに思わず身を捩れば、カガチさんは満足気に微笑む。これは本当に危険だ。
「カガチさん、冗談にもほどがありますよ!」
「んー、いいですね。抵抗する姿も新鮮で。何も怖いことなんてありませんから」
囁きながら顔が徐々に近づく。
もう、駄目だ。これで私もカガチさんの手に落ちるのか――ぎゅっと目を瞑った、戸を叩く音が室内に響いた。
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