【47】歩み寄る心(2)

「アオバ、俺だ」


 聞こえたのはシュロさんだった。ハッと目を開けると、私を見下ろしていたカガチさんが「静かに」と、口に人差し指を押し当てた。その表情からは、さっきまでの妖しさも消え、いつもの飄々とした雰囲気に戻っていた。


「アオバさん、私に協力していただけませんか?」

「協力……?」

「このままじっとしているだけで結構です。少し試したいことがあるのです」

「カガチさん、何を企んでいるんですか?」

「まぁ、見ていればわかりますよ」


 小声でそう告げた次の瞬間、カガチさんは机の上に置いてあった湯呑を、勢いよく手で払い落した。

 転がった湯呑はけたたましい音をたてて転がり、床に落ちた衝撃で見事に割れる。ついでに机の端を軽く蹴り飛ばしてガタガタと揺らして見せた。

 一方、室内での様子が見えないシュロさんはどう思ったのだろうか。呼びかけても返事がなく、代わりに室内からは聞こえてくるのは奇妙な物音だけ。当然、暴れているような音がすれば異変を感じとるはずだ。


「アオバ! 入るぞ!」


 シュロさんは慌てた様子で声を上げ、蹴り壊す勢いで戸を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、カガチさんに押したおされた私の姿。その光景を目の当たりにしたシュロさんは、戸に手をかけたまま立ち尽くしている。辺りの空気が凍りついていくのを、今日ほどはっきりと感じたことはない。


「おや、いいところでしたのに。総長も無粋な方ですね。こちらが答えてもいないのに、戸を開けるなんて失礼ですよ」

「……っ! カガチ!」


 無表情から一変、血相を変えたシュロさんは、部屋に飛び込むなりカガチさんの胸倉を掴んで長椅子から引きずり下ろした。

 こめかみや首に青筋を立てるシュロさんとは逆に、掴みかかられたカガチさんはなぜかいつもの調子で飄々としている。


「カガチ、何をしたのかわかってるのか!」

「わかっていますよ。欲しいと思った女性を我が物にしようと思っただけです」

「や、やめて下さいっ!」

「アオバ、どうして止めるんだっ。あんなことされて黙ってるのか!」

「な、何もされてませんよっ」

「……何も?」


 シュロさんは険しい表情のまま首を傾げた。今にも白狼の力を開放しそうな形相のシュロさんを鎮めようと、必死に頷いて否定した。


「押し倒されはしましたけど、それ以上は何もされていませんから!」


 そんなやり取りを交わす中で、ククッとカガチさんの含み笑う声が割り込んだ。

 何とか堪えようとしていたけれど、我慢すればするほど笑みが溢れ、今までにないくらい腹を抱えて笑って長椅子にドカッと座った。なぜ、こんなにもカガチさんが笑っているのかわからず、私とシュロさんは怪訝な表情のまま顔を見合わせた。


「下手な芝居もここまでにしておきましょうか。おかげで、それぞれのお気持ちがよくわかりましたから」

 最初は眉間にシワを寄せて見下ろしていたシュロさんだったけれど、ふと何かに気づいたらしい。とたんに深い溜息をついて額を押さえた。


「カガチ……どういうことだ?」

「飴屋でレンゲに会った時、頼まれたのですよ」


 桜華通りの飴屋で私と別れた後のこと――

 私を心配したレンゲさんが、私とシュロさんの関係を白黒はっきりさせようと、カガチさんに一芝居うってもらうように頼んだらしい。つまり私に付き纏っていたのは、シュロさんがどういう反応を示すのか試していたというのだ。


「つまり、今までのことは全部?」

「ただの小芝居です。言っておきますが、私はレンゲを〝遊びの女〟だと思ったことは一度もありませんよ。私の人生の中で、彼女ほど愛おしいと思った女性は他にいませんからね」


 まるで当然のように軽く惚気を口にして、カガチさんはスッと素早く席を立った。

 呆気にとられているシュロさんの前に立ったかと思えば、小憎らしいくらいの綺麗な笑顔を見せた。


「他の男に触れられるのが嫌なら、最初から素直にならないとだめですよ」

「なっ! お、俺はっ」

「何も興味がなさそうな顔していたようですが、私にはお見通しです。その目が全てを物語っていましたからね」


 シュロさんの瞳を指さしながら言い放ち、カガチさんは鼻歌混じりに部屋を出ていった。

 戸が閉まり、室内に静けさが戻ってくる。どちらからというわけもなく、私とシュロさんは顔を見合わせる。私が長椅子に腰を下ろしたのを確認し、シュロさんも遠慮がちに隣に座った。


「今日、やけにカガチさんが付き纏っていたのは、レンゲさんに頼まれたからだったんですね」

「……思い返せば、おかしなことばかりだったんだ」


 シュロさんは体中の息を全て吐き出すような勢いで、深い溜息をついた。


「カガチから〝アオバさんが話したいことがあるそうですよ〟なんて言われて、この時刻にここへ訪ねるよう言われていたんだ」

「その時点で仕組まれていたってことですね」

「おそらくな。アオバが押し倒されたところに、俺が偶然にも訪ねて出くわすなんて。偶然にも程がある」

「そう、ですよね……」


 返事をしてから再び会話が途切れ、やがて互いの視線だけがぶつかり合う。シュロさんは、少し苦々しい顔をして頭を掻いた。


「カガチの行動は、ずっと気になっていたんだ。やけに傍を離れないし、触れることも多かったからな」

「でも、それは全て芝居だったわけですし」

「あいつもレンゲも、俺の本心に気づいていて――」


 中途半端なところで言葉を区切ったかと思えば、シュロさんは目元を手で覆い隠して力なく俯いてしまった。それからまったく顔を上げなくなってしまったから、心配になってそっと腕に触れた。

 義手ではあっても、おそらく触れられた感触は伝わるらしい。シュロさんはその大きな体に似合わないほど、びくりと怯えたような驚き方をした。ちょうどその時、見えた顔は信じられないほど赤くなっていた。


 もちろん、それは怒っていたからではない。紛れもなく、この場から逃げ出してしまいたいと思うほどの羞恥心。その証拠に、その姿を見た私にも恥ずかしさが伝わって顔がカッと熱くなったからだ。

 その顔を見たら、何もかもが吹っ切れた。自惚れでもいい。間違いでもいい。誰かに奪われて後悔するよりマシだ。


「シュロさん、私のこと避けていましたよね? だから私、嫌われたんだと思っていました」

「嫌う理由など何もないだろう! むしろ俺は――」

「わかっていませんね。あんな態度を取られたら、とても傷つくんですよ!」

「っ!」


 シュロさんが再び俯こうとしたから、私は顔を両手で包むように掴んで強引に私の方へ向かせた。

 至近距離で直視する形になり、シュロさんはいつになく逃げ腰になって視線を泳がせる。それでも私は真っ直ぐ瞳を覗き込んだ。

 私よりもずっと大人で、数千という若い剣士達を束ねる黒龍隊の総長たる男が、小娘ごときに狼狽えている。こんな姿を見られるのは、きっとこの国で私だけだ。それだけは、誰にも譲れない。


「好きな人に無視されることが、どれだけ辛かったか。わからないでしょう?」

「ま、待て。お前、俺のこと! いや、いつから、その……」


 私が「好きな人」と口にしたのは、シュロさんも予想外だったのか。きょろきょろと目を泳がせ、耳まで真っ赤にして慌てふためく様が新鮮で、涙が出そうになるほど愛おしくなる。


「もう待てません。どれだけ待たされたと思っているんですか?」

「いや、こういうことは男の俺が先に言うべきだろうっ」

「そんなことは関係ありません。私、待っているだけなんて嫌ですから」


 少し得意気になって言うと、シュロさんは「お前はそういうやつだったな」と含み笑いながら、頬に触れている私の手を掴んで握り返した。


「それにしても……さっきのは効いた」

「さっき?」

「カガチに押し倒されていた、あの光景だ。カガチには血の通った腕がある。アオバの温もりも、その手で感じることができる。そう思ったら、無性に腹が立った」

「仮に温かさを感じられたとしても、想いは伝わらないと思いますよ。私の気持ちはシュロさんに向いていますから」

「本当に、お前はこうと決めたら真っ直ぐだな。まぁ、俺もそういう迷いのないところに惹かれたのは確かだ」


 握り締めた私の手をそっと引き、手の甲に静かに唇を寄せる。たったそれだけの仕草が、甘く、心地よく、溢れだしそうになる感情で息がつまりそうになった。


「これ以上距離が縮まれば後には引き返せないし、何かのきっかけで失ってしまったらと思うと、怖くて仕方なかった。だが、もう引くつもりはない」

「望むところです! むしろ引かれては困ります」


 その先の言葉を遮るように、シュロさんが静かに距離を詰めた。

 鼻先が頬に微かに触れたところで、私は自ら身を乗り出し、シュロさんの襟元を掴んで引き寄せた。

 唇に触れ、私の想いが伝わったからなのか。それとも動揺していたのか。少しだけ目を開けると、シュロさんの髪がうっすらと銀色に染まっていた。

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