【43】ささやかなワガママ
これは……桜の香りだろうか。
その嗅ぎ憶えのある香りが、私を眠りの淵から引き上げた。そろりと目を開けると、私を覗き込んでいるレンゲさんの姿が映った。
「アオバ! よかった……目が覚めないんじゃないかって心配したのよ」
そう声をかけながら、レンゲさんは私の前髪の辺りを優しく撫でた。
どうしてレンゲさんがいるのか、どうして私は眠っていたのか。はっきりしない頭で色々考えてみるけれど、どうにも状況はさっぱりつかめない。けれど、ここが火龍楼であり、レンゲさんの部屋だということを、そこに漂う桜の香が教えてくれた。
「子供達は、どうなったんですか?」
「子供? あぁ、夜叉の子達のことね。大丈夫。誰一人かけることなく、無事に夜叉の地に戻ったわ。孤児院の院長も捕まったらしいから、安心して」
私の額に乗せていた布を取り、そっと手を当ててくれた。ひんやりと冷たいレンゲさんの手が心地よくて、自然と微笑んでしまった。
「熱も下がったみたいだね」
「そういえば、私……寺院でシュロさんに助けてもらって、それからどうなったんですか?」
「毒香だったかしら? そのせいで、アオバは倒れたのよ」
そうだった。シュロさんに助けられて、そのまま気を失ってしまったんだった。ただ、その後のことはまったく記憶にない。
「毒が思いのほか早く体に回って、途中で息が止まりかけたらしいの。町の香術師に応急処置をしてもらって何とか持ち返したんだけど、とても危険な状態だったのよ? でもね、彼が治療してくれたのよ」
そう言って、レンゲさんは半身だけ振り返った。
少し体を起こして、レンゲさんが何を見ているのか視線を追った。窓際にある座布団に腰を下ろすウツギさんと、その傍で眠っているナバナの姿があった。目が合うなり、ウツギさんはクスッと笑った。
「アオバは寄宿舎に運ぶつもりだったんだけど、彼が治すって聞かないから。城に夜叉の二人を出入りさせることはできないから、ここに運んだのよ」
「そう、だったんですか……」
「あまり体を起こすな。まだ完全には治ってないだろ」
ウツギさんは私の枕元にやってきて、音もなく静かに座った。
「ありがとうございました」
「礼ならナバナに言ってやってくれ。三日三晩、つきっきりで治療していたんだからな」
そんな長い時間を眠っていたことにも驚いたけれど、それ以上に、ナバナが私にそこまでしてくれたことに驚いた。あんなに人間の私を嫌っていたのに。
「妹を無事に助けてくれた礼と、その借りを返したかったらしい」
「それ、割に合わないじゃないですか。私は自分から協力しただけなのに。その借り、また私が返さないといけませんね」
「そうしたら、またナバナが借りを返すと言い出しそうだ。あいつは頑固だからな」
きっと、その通りだと思う。ナバナはヒユリさん並みに頑固そうだ。私が借りを返したら「借りがあるままは嫌だ」と言い出しかねない。その姿を想像するとなんだかおかしくて、少しだけ嬉しくなった。
「子供達が無事に戻ってきたのはアオバのおかげだ。ありがとう」
「いいえ。もう、お礼を言い合うのはナシです。きっと、ここに私のお師匠様がいたら叱られそうですから」
「どうしてだ?」
「〝当然のことをしただけだわ。それに、やることはまだ残ってるでしょう?〟って。二度とこんなことが起こらないよう、方法を考えなければいけません」
「……確かにな。おそらく〈タンガラ〉の領主のような連中は他にも大勢いるはずだ。一人捕えたところで、状況は何も変わらない」
「少しずつ互いに歩み寄って、協力しなければいけないのかもしれませんね」
全てを変えることは無理でも、小さなことから〝何か〟を始めることはできるはず。きっと、私にもできることがあるんだ。
「こんな所で寝てる場合じゃないですね。早く治して、色々と――」
そう言いかけたところで、遮るように背後で何かが倒れる音がした。気づけば、壁に寄りかかっていたナバナが床に突っ伏している。それでも起きなかったため、ウツギさんはククッと吹き出していた。
仕方がないな、と言いつつも放って置けないらしく、ナバナの所へ戻って静かに抱き起こす。案外、面倒見がいいらしい。そんな姿を眺めていて、ふとシュロさんのことを思い出した。
「そういえば。レンゲさん、シュロさんは……?」
「総長なら城に追い返したよ。見ているだけで鬱陶しかったからね」
なぜか呆れ混じりに笑った。私の顔を見ると、堪えきれなくなって更に笑う。私の顔に何かついているのだろうかと、気になッて頬や額に手を当てた。
「本当、アオバにも見せてやりたかったよ。総長の、あの慌てっぷりをね」
「あ、慌てっぷり?」
「あんなに動揺したのを見たのは初めてよ」
子供達を解放した後、シュロさんは私を抱えて火龍楼にやってきたそうだ。その時も滅多に見ないような慌てぶりだったらしいけど、酷かったのはその後。
どんな様子だとか、しっかり治せだのとナバナに訊ねたり指示を出すものだから、ナバナも「邪魔だから出て行け!」と怒鳴ったらしい。けれど、シュロさんは何を言われても出て行かず、私の手を握ったまま離れなかったそうだ。
「いつ目が覚めるんだとか、大丈夫なんだろうなって何度もナバナに聞くから。目が覚めたら連絡するからって、私が追い出したのよ」
「それは、追い出されて当然ですね」
「アオバ、よかったわね」
よかった……のだろうか。
目が覚めるまで手を握ってくれていたことは嬉しかった。その反面、この場所にいないことが、なんだか寂しいような気もする。
目が覚めた時、一番に顔を見たかった――なんて、わがままだったかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます